迷宮 闇黒の間 後編
細い指の感触は人間のそれだが、声にも聞き覚えがある。
デュランはきっと、このシュナを知らない。
彼が知っているのは、竜のシュナか、人間のトゥラのどちらかだ。
人の姿で人の声を操るシュナは、知らない。
(……シュナ?)
「そうよ」
一瞬体が蘇ったような感覚は、錯覚だったのだろうか?
口を動かす感覚も、自分の声も聞こえてこない。
それでも疑問を頭に思い浮かべれば、謳うような応答が戻ってきた。
どうやら彼女には、念じただけで通じるらしい。
振り返って顔を見てみたい……が、うまくいかない。
確かに触れられている、声が聞こえる感覚はある。髪の長い娘が背後に立っているのもわかる。
けれど、顔がわからない。おぼろげに薄く弧を描く口元のようなものを幻視するだけで、それすら定かではない。
(……俺がシュナの本当の姿を、知らないせいなのかな)
シュナが絡むと自分の思考回路が多少おかしくなる自覚はあるが、これがおそらく幻であろうことは、デュランにも容易に想像がついていた。
感覚と理屈が、ぬか喜びするなと警告する。
(シュナだって、わかる。同時に、シュナじゃないのもわかる。第一、女神イシュリタスの試練を乗り越えたとは思えない。ならきっとこれも、試されているんだろう)
それでも胸の内にこみ上げてくる愛おしさまで嘘とは思えない。
会いたい相手の幻覚に、どうしたものかと途方に暮れる竜騎士の耳に、再び娘の声が吹き込まれた。
「デュラン、あのね――」
甘く、耳をくすぐられるような感触の直後――激痛が走った。
「あのね? あのね? あのね?」
絶叫する自分の声は聞こえないが、語り続ける娘の言葉がくるくると頭の中を回っている。
心臓を握りつぶされたかのような体感だった。
娘の幻影が消えて、様々な光景が目の前をよぎる。
それらは全て、辛かったり痛かったりしたときの記憶だ。
領主子息としての重責。
迷宮での冒険。
ありとあらゆる敗北の記憶。
「あのね……」
巨大なシャンデリアが頭上で揺れていた。
離れた所から、娘が笑う。ふわりと白いスカートの裾がたなびく。
「あの時、あなたが死んじゃえば、良かったのに」
――この胸の痛みの正体は、自分の失態に対する感情だ。ああそうか、だからシュナの姿で現れたのか、と納得もする。
後悔。不名誉。面目なさ。屈辱。無力感。怒り。悲しみ。憎悪。嫌悪。
そして、罪悪感。
それを彼女に責められるのなら、彼はきっと、何一つ反論できない。
罵倒ならば甘んじて受け入れねばなるまい。
事実として、守れなかったのだから。
「――力なき正義に意味はなし」
囀るような声はどこまでも無邪気で、より一層残酷に打ちのめされる。
「無能なデュラン。嘘つきのデュラン。恥知らずのデュラン――」
愛しい人の呪詛は、鋭く魂まで抉る、刃の雨だ。
きっと何か返さなければならないはずだが、何も思いつかない。
いや、そもそも彼女に何か話せる資格があるとでも?
一度死んだくせに――。
(駄目だ。何か、考えないと)
ぎり、と奥歯を噛みしめる。感覚がないからわからないが、そうしているのだと強く思い、実感しようとする。
(迷宮は進み続ける場所だ。止まっているだけでは何も得られない。試練の間は肉体を、闇黒の間は精神を試すとユディス=レフォリア=カルディは言っていた。なら、この空間での死は……きっと、思考の停止だ。俺が諦めたら、二度と生きては帰れない――)
「ね、あなたはどうして生まれてきたの? なぜここまで来たの? そこで何をしているの? 無意味なの。何も変えられないのよ。同じ事を繰り返すだけ。百年前も、千年前も……」
再び遮られそうになった思考が、ふとしたとっかかりを得た。
「疲れたの。もうずっと、疲れてきっているの。終わらせてしまえばいい」
(――これは?)
闇黒の間では、自分の虚像を作り出すのだと、枢機卿は言っていただろうか。
シュナの幻想は、デュランの中の諦念や罪悪感からできているのだと思っていた。
だとすると違和感がある。
(――闇の中の偽りを退け、信ずる物を引き寄せよ)
どこで聞いたか、見た言葉だったか。
ふと頭に浮かんだ一つの句をきっかけに、己を奮い立たせる。
大きく息を吸った。吸ったのだろうか? と考えない。吸ったのだ。
自分はまだここにいる。生きていて、息をしていて、心臓が動いていて、先に進もうとしている。
(真の客観は存在しない――だとしたら、)
「……シュナはそんなこと、言うのかな」
ざっ、と風が吹き付けた感覚を得た。
闇の中、白いドレスを身に纏った娘が立っている。
自分はそこに向かい合っていた。
彼女はくるりと振り返り、初めてこちらの顔を見据えた。
「あなたがわたくしの何を知っているの?」
娘の顔は靄がかかっていて見えない。
だが、おそらく目のある辺りに、いつも人と話すときと同じように視線を向けたまま、竜騎士は口を開いた。
「……何も。君の何も知らなかったし、何も知らないままでいる。だから知りたい」
娘が笑ったようだ。嘲るような音。語り合っていると、刃で切られているような気がした。常に、銀色の刃先を突きつけられているような。ぎゅっと竜騎士は拳を握りしめた。
(――俺は。たぶん、知っている。思い出せ)
「――知っているのよ」
娘の歌っているかのようでもあった抑揚が、今度は脅すようなものに変化した。ビリビリと肌がざわついて、痛い。呼吸が苦しく、全身が締め付けられるようだ。目に見えない力に押さえつけられて、膝を屈するどころか、押しつぶされそうになる。
「そうして勝手に期待して、失望する。何も変わらないの。ジンルイと一緒。あなたたちはずっと一緒。願って、願って、果てがない。いつまで繰り返せばいいの?」
「期待するのは駄目な事かな? 進みたがるのは愚かなことかな? 何もせずに終わるより、少しでも良い未来を。そう考えるのは……悪い事なのかな。営むって、そういうことを続けていくものじゃないか?」
「――人間は。そんなに、賢くも強くもない。救ってほしいのでしょう? 泣いていれば母が助けに来てくれる。そう思っているのでしょう? あなただって同じ。無力な子供達」
「俺は全然完璧じゃない。結構うっかりしてるし、ドジも踏むし、迷子はもう竜からお墨付きが出た。俺が周りより得意な事もあるけど、それは俺が人より優れているって意味じゃない。向きと不向きがあって、失敗だっていつだってして……だけど、俺は。そのままで終わりたくない。それに……」
存在を食い尽くして消してしまおうとする、強い力をはじき返す。
デュランは思い描いた。二本の足を踏みしめ、ピンと背を伸ばし、まっすぐ前を見つめる自分を。
(鎧も、竜も守ってくれなくても。たとえ笛の音が、聞こえなくなっても……俺は立ち上がることができる。今までそうしてきたように。思い出せ。何もなくなったって、やり直せる。諦めないうちはまだ、終わりじゃない)
「――それに。人間は、あなたが思っているほど、愚かで弱いだけでもないはずだ、イシュリタス!」
雷が落ちたようだった。
鮮烈なまばゆい光と、轟音。
娘の姿が光に溶けた。眩しさに、目の奥まで衝撃が突き抜ける。
(……でも、体が戻ってきた!)
少しぶりなのだろうか、外界情報の渦に頭が少し混乱しているようだ。
それを少し待って、ゆっくり瞼を上げてみれば、暗闇は失せ、別の光景が出現していた。
そこは円形の大きな広間のようだ。いや、舞台だろうか。だだっ広い空間を、ぐるりと観客席が取り巻いている。
細めた目を、デュランはすぐに見開いた。ぞっと首筋が粟立つ。
客席は薄暗くはっきりとはしないが、何者かの気配があった。
そしてマニアの勘が正しければ、あれらは竜だ。おびただしい竜の群れが、姿を影に隠したまま、好奇心に満ちた目で四方八方から挑戦者を見下ろしている。
シャン、と金属がこすれるような音がして、デュランは振り返る。
舞台の真ん中に、竜騎士に対峙する人物があった。
それはたおやかな女性の姿をしていた。髪は青く、晴れた日の青空か、あるいは海の色を連想させる。背はそこまで高くないが、人目を引きつけて離さない存在感があった。
身に纏う薄布もまたわずかに青みを帯びており、肌に張り付いて体のラインを強調する。歩くとしなやかな足が姿を見せた。
最もこの人物の特徴的なものは、目であろうか。細い縦長の瞳孔は、人外であることを主張する。竜と同じその双眸は銀の光を宿す。見る者を凍り付かせるような色をしており、刃のように鋭く冷たく、それでいてどんな磨き抜かれた鏡よりも美しく世界を映し出す。
女の細腕は廟の像と違って六本ではないが、杖とも槍とも異なる三叉の矛を収めている。頭や首、腕を彩る装飾品が、どうやら動く時に音を立てていたらしい。
(――これが、迷宮の主)
デュランはごくりと喉を鳴らした。
三度目にして初めてでもある、完全な人体の女神であった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
おいで
穴の底
潜ってきなさい
一番奥まで
見つけてごらん
お前の命
――地獄の底に堕ちておいで、子供たち。
神が願いを、聞いてあげよう。
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