恋乙女 令嬢と会う 前編

(……なんだろう。頭がぼーっとする。足下がふわふわ……)


 ぐびぐびと勢いよく呷ったせいか、喉の渇きはひとまず収まっていた。

 というより、頭が全体的にぼーっとしていて、乾きを感じる部分まで鈍感になっていた、というのがおそらくは感覚として正しい。


 とにかく一気に思考回路の鈍くなったシュナは、グラスを元に戻すとそのまま立ち尽くしていた。


 そこにようやく、パタパタと足音を立ててコレットが戻ってくる。


「お嬢様、お待たせしました! すみません、お水を取りに行こうとしたら呼び止められてしまって――」


 せっせと世話を焼こうとしたメイドだが、妙に大人しい様子にすぐ違和感を覚えたのだろう。


 最初はシュナのことをじっと上から下まで観察し、それからはっと振り返って手近のテーブルを確認する。


 慌てて駆け寄って、そこに置いてあったボトルを手に取り、振った。

 中身は空になっているようだ。青い顔のままラベルを確認する。


 それは飲み心地がさらりとしている割にはかなり度数の高い、通称「淑女殺し」の俗称を与えられているスリュートという酒だった。


 そのままストレートはもちろん、女性が好むような果実酒と混ぜて出されると、普段のノンアルコールの要領で多量に摂取してしまい、気がつけば泥酔……という事故を起こしやすい。


 その飲みやすさからだろうか、王国の貴族達には人気を誇っている銘柄だが、迷宮領では冒険者の舌に物足りないのと領主があまり好まないのとで、さほど積極的に振る舞われることはない。


 しかしこの会場の主賓は王国の人間達なのだ、全く用意しない訳にもいかない。とは言えさすがにボトルをどんと置いておくことはしない、むしろ禁止していたはずだから……誰か客が持ち込んだのだろう。


 さて、簡単な推理だ。


 赤い顔で目を潤ませ、ゆらゆらと身体を揺らしている娘。空になったボトル。中身は喉ごしはすっと通るが、あっという間に体内のアルコール濃度を上げる液体。


 何が起こったかなんて明白だ。メイドはますます顔色を失っていく。


「ちょっ……えっ!? あの、まさかとは思いますが――全部飲んじゃったんですか、これ!?」


 キャンキャン喚かれると、シュナはぼんやりしたまま、眉を顰めて振り返った。


 この人は知っている。好ましいけれど、かしましい女性だ。けれど彼女は今、静かにしていたいのである。人目も集めたくない。


(さわがれるのは、いや)


 ぽわぽわと泡の合間に浮かぶ心地のまま、彼女はすっと手を上げた。


 いつもと違う。たくさんの頭の中にある、彼女を押さえつけているものが、緩んで、たわんで、自然にほつれて、今、とても自由なのだという確かな感覚があった。


「…………?」


 メイドは何をするつもりだろう、といった表情で見守っている。その眉間の辺りを人差し指で示してから、シュナは力を抜く。がくっと落ちた腕はぷらぷらと揺れた。


 それと同時に緊張が多少緩んだらしいメイドは口を開くが、すぐに再び顔が激しくなっていく。


「……! …………!! ……!?」


 喉を押さえた彼女の口元から、ひゅうひゅうと空気の漏れる音が鳴った。けれど一切声が聞こえない。

 震えるはずの声帯が動かない。まるでそこだけ、切り離されてしまったかのように。


(……静かなところに行きたい)


 ぐるりと辺りを見回した彼女は、おぼつかない足取りで歩き出した。


 確かに会場の端を歩いてはいるのだが、彼女のまとう銀色の衣装はよく目立つ。おまけに今にも倒れそうな危うい歩き方をしていた。


 それなのに、誰も彼女に目をくれない。

 ただ、急に声の出せなくなったメイドだけが慌ててパタパタと後ろを追いかけていて、それ以外の人間達は、あるいは歓談を楽しみ、あるいは飲食に明け暮れ、あるいは音に合わせてステップを踏むのに忙しく――シュナの方に目を向けている人間もいるのに、なぜか誰も気にしようとしないのだ。


 けれど渦中にある娘だけは、それが当然であると知っている。


 何しろ

 と。


(だって、わたくしは迷宮のただ一人の姫、なのだから。そのぐらいのことはできるわ。お母様と全く、同じように)


 軽やかに床を蹴って、やがて娘はそっと会場の隅から外に滑り出す。


 向かう先は控え室だ。


 事前に、「何か困ったことがあったり、気分が悪くなったりしたら、ここに戻ってきてじっとしていらっしゃい」と言われた場所。とりあえずそこに行くべきだと強く感じていた。


 だって心は疲れているし、足は痛いし、お腹だって締め付けられてずっと苦しい。


 人前で倒れてはいけない。ならば大丈夫な場所に行こう。

 ふわついた頭の紡ぐ論理はある種非常にシンプルである。


(勝手にお部屋まで帰ってしまうのは、さすがにだめだと思うけれど。休憩室は、いいって言っていたもの)


 しかしいざ目的地の付近まで来ると、一つ困ったことがあった。

 休んでいい部屋とやらは、どうやら複数存在するようなのだ。

 さて、どの扉を選ぶのが正解だろう?


 キョロキョロと困った顔で見回した末、娘は一番近くの部屋に入ることにした。


 幸い、中には誰もいないようだ。鏡台に、机に、椅子。おそらくはダンスで少々乱れた衣装を直しに来るような部屋なのだろう。結構スペースにゆとりがある。十人ぐらい入れる広さだろうか?


 無人であることを確認すると、そそくさと侵入し、適当な椅子に腰掛けて鏡台にぐでーんと伸びる。


(ねむい……きつい……帰りたい……帰るのはだめ……お休みしてよう……)


 ぐるぐるとほとんど回らない頭がそんなことを考えている。


 険しい顔のままくっついてきたコレットは、ようやく止まったシュナの周りで行ったり来たりうろうろしていた。


 明らかに様子のおかしい彼女をどうにかしたいが、自分や今周りで起きている異常からして、どうすればいいのかわからない。何よりこの状況で、飲んだくれている娘を一人には絶対にしたくない。


 そのような葛藤を浮かべている間に、すやすやと穏やかな寝息が聞こえてくるではないか。うとうとしているのは明らかだったが、人目がなくなって緊張が緩んだのだろうか。


「ありゃ、寝ちゃったみたい……て、喋れるようになってる!?」


 メイドが驚きの声を上げたせいだろうか、ピクッと反応して娘はうっすら目を開けた。


 ちょうど同じタイミングで、ガチャリと音がする。


 ああしまった、色々慌てていたせいで入室中の合図の札を下げるのを忘れていた、と振り返ったメイドは、入ってきた人物を見るや否や、思わずヒエッと声を息ごと飲み込む。


「……あら!」

(……この人!)


 うつらうつらまどろみの中を漂いながら、なんとなく音の方に顔を向けたシュナもまた、がばりと勢いよく身体を起こす。


 現れたのは、豊かな金色の髪を華やかにまとめ、鮮烈な赤い色のドレスに身を包んだ女性だ。

 咄嗟に驚いて開いたであろう口元を、扇子でさっと隠した所作は、いかにも場慣れした貴婦人の風格を漂わせている。


(デュランと一緒に楽しそうに話していて、一番目立っていた人!)


 お互いに衝撃が走ったようだったが、立ち直りは赤いドレスのご令嬢の方が早かった。


「お初にお目にかかります、トゥラ様。ヴェルセルヌ王国、プルセントラ公爵が三女、サフィーリア=ユリアと申します。以後お見知りおきを」


 彼女は一瞬だけきらりと青い目を輝かせると、扇子をどけて満面の笑みを披露する。さっと両手を広げて身体を倒す、その仕草も優雅ながら威風堂々としていて、シュナはぽーっと魅入ってしまった。


 そんな彼女が間抜けに口を開いたままなのをしばし見守ってから、サフィーリアと名乗った女はくすりと笑い声を漏らす。


「名乗るのは無理でも、お辞儀も返してくださらないの? かわいらしい酔っ払いさん」

「お嬢様!」


 からかうようなご令嬢の言葉と、コレットが小さな声で焦ったように言ったのが聞こえたこともあり、慌ててシュナは飛び上がるように椅子から立ち、同じく礼を返した。


 すると今度は彼女の方がほう、と息を漏らしてから、にこやかに話し始める。


「本当に素敵ね。そのやり方はどなたから習ったの? やっぱりファフニルカ侯爵夫人? ほら、少し前からドレスは袖にもこだわるようになったでしょう? それから手元の美しさにも注目されるようになった。だからね、手を広げてその辺りまでアピールする、お辞儀の仕方が今では主流になったんですって。でもやっぱり、古式だって捨てがたいわよね。ふわりと広がるスカートは女の夢ですもの――」


 シュナもトゥラも、口数の多い人間には多少慣れている。

 が、このご令嬢が更にすごかったところは、こうして話している間にごくごく自然な流れでコレットをどかし、自分のお供を部屋の中に入れて隅っこに立たせ、そして本人はシュナの隣に位置取って微笑みを浮かべていた所だった。


「あら、私のいけない癖。あなたが喋れないのが残念だわ、色々聞きたいことがあるのに。さ、お座りになって。大方ドレスがきつくて逃げてきたって所でしょう? 私、そういったことは得意分野ですのよ。アン、セアラ、手伝いを。テレサ、お冷やをいただいてきて」

「はい、姫様」

「かしこまりました、姫様」


 両手を引っ張られ、周りを彼女のメイド達に取り囲まれるも、おろおろしたままされるがままだ。


 令嬢がきびきび指示を出すと、彼女の連れてきたメイドがぺこりと頭を下げて部屋を出て行った。

 顔色を赤くしたり青くしたりしているコレットは、「せめてお一人にはさせません……!」とどこか悲壮な覚悟をたたえ、なんとか踏みとどまっている。

 気がついたらすっかり、この場は彼女の部屋になっていたようだった。




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