惑う娘 培養槽《ウーム》に至る
薄もやが晴れる。転移先に出たのだろう。
アグアリクスに続いて着地したシュナは、目の前の異様な光景に思わず唖然と口を開いてしまう。
目の前に現れたのは扉だ。アグアリクスが見上げるほど大きいそれには、どこにも取っ手が見当たらない。慌てて振り返れば、アグアリクスとシュナが降り立った場所だけ無機質な地面が存在し、そのほかの場所は不自然な暗闇に閉ざされ沈黙していた。
つまりこの扉にたどり着くための道は断絶しているのだ。
ここはどこかの入り口なのに、どこにもつながっていない。
そんな何とも気味の悪い印象を受ける。
アグアリクスが扉に鼻先を触れさせると、ピピッと小さく高い音が鳴る。扉は中心部分から光り輝き、あるいは水に浮かぶ波紋のごとく、無地の扉にみるみる何かの模様が広がっていく。
【権限を確認――利用可能です。館内は清潔にご利用下さい】
淡く緑色の光が瞬くと、そんな声がどこかから聞こえた。
シュナの頭の中でいつも鳴り響いているあの声と同じ。
しかし今は、別の場所から聞こえてくる。きょろきょろ見回した彼女の上から、聞いたことのないフレーズが投げかけられた。
【ようこそ、生産室へ】
歓迎の言葉が終わるのと同時に、扉がゆっくりと開く。
アグアリクスはシュナを促した。
《さ、行こう》
彼が歩き出したので、小さな竜は慌てて付き従う。
扉の先にも不可思議な光景は続いていた。
壁があり、床があり、天井がある。だからきっと間違いなく室内なのだ。けれどシュナの知っている屋内――塔や城の光景ともまた異なっている。
大地の間に手を加えて非常に綺麗に整えた場所――そのように表現するのが近いのだろうか。
そこまで思考を紡いでシュナはこの場の不気味さの理由の一つを思いつく。
(そうか……ここ、人の住む場所じゃないんだわ、きっと)
たとえば、窓どころか柱すら見当たらない、奥まで続いていくつるりとした壁。
たとえば、等間隔に並び、揺らめくことなく道を照らし続ける照明。
たとえば、四方全てを染め上げる白色――そう、この場所は天井も壁も床も、どこもかしこも白い。
今まで見てきたどの場所よりも、美しく整えられている。だからこそ、気持ちが悪くて仕方がないのだろう。
(こんな所を作るには、人の手が必要なはず。現に入り口の扉……あれは絶対自然でできたものではない。なのに、人がいることが感じられない。これは一体……)
そわそわぞわぞわ感じる事はあっても、シュナはアグアリクスの後ろにぴったりくっついて離れなかった。
道は分かれることもなく単調だが、この見知らぬ場所でうっかり彼と離れようものなら、なぜかそのまま見失ってしまうのではないか、という漠然とした不安が頭から離れようとしない。
《さて、シュナ。培養室だ》
どれほど時間が経っただろう。自分たちの通ってきた道の先、すっかり入り口の扉が見えなくなってしまったことを心細く思っていたシュナは、後ろを振り返り振り返り歩いていたものだから止まったアグアリクスに激突した。
しかし体格や力の差のせいだろう、よろめいたのはシュナだけで、アグアリクスは「おや」という顔をしているのみである。
頭を振って前方に注意を戻すと、入ってきたのと似たような、取っ手が存在せずどのように開くのか想像しにくい扉の前に二竜は立っていた。
アグアリクスが触れると、誰かの声が応じて、未知がゆっくり姿を現す。
《ここが培養室だ、シュナ》
恐る恐る中に入ってみたシュナは、最初は薄暗さのせいでろくに物を見ることがかなわなかった。
歩いてきた真っ白な道と打って変わって、この部屋は薄暗い。
もしかすると未だ白い空間は続いているのかもしれないが、ぽつりぽつりとあちらこちらに乏しく頼りない橙色の照明は淡く緩やかに灯るのみ、これでは室内の色はうまく拾えない。せいぜい何があるのかぼんやり見える程度だ。
暗い……と顔をしかめたシュナの耳が、何かの音を拾う。
はっと耳を澄ませば、それは一度だけでなく、規則的に続くものらしい。
瞼をしょぼつかせながら音源をたどるように、シュナは顔を上げた。
そこでようやく、彼女の目はこの場に何が在るのかをとらえる。
するとまるで彼女の注目が得られた事に反応するかのように、仄かに光を放ち、それは全容を表した。
(なに……これ)
目に入った物を理解するには大分時間がかかった。
目も口も開いたまま塞がらず、シュナはその場に立ち尽くした。
培養槽。竜達は繰り返しそのように言っていただろうか。
プール、なるほど確かにそれは液体を溜めておくための物なのだろう。
だがまず奇妙なのはそのつるりとした透明な入れ物であり壁である部分だ。
ガラス……なのだろうか。
ぼんやり疑問に思ったシュナの頭に、何かの図式がぱっと浮かんだ。
狼狽えた彼女はけれど、頭の中に横切る説明文を咄嗟にたどろうとする。
知らない単語が多いせいで苦労したが、どうもシュナの知っているガラスとはまた異なる物質なのだということはなんとか読み取れた。
(これも権限の付与……機能の拡張……? とやらでできるようになったことの一つ? 勝手に頭の中に説明文が浮かぶ……)
頭を抱えようとすると、自然と視線を下ろすことになる。
すると気のせいだろうかと思った物がやはり現実に在ることがわかってきて、シュナはうずくまるより立ち尽くし続ける方を選んだ。好奇心が勝ったのである。
ガラスと似て異なる何かの形は独特だ。大きな砂時計――強いて最も近い物を上げようとするなら、上下に円錐が広がる形はまさにそれに近い。
だが、内部は砂の代わりに液体で満たされていた。
加えて上部の逆さ円錐には、何やら奇妙な飾りがぶら下がっている。
砂時計上部の円底から伸びるそれは、人の広げた両腕をどこか想起させた。
何か抱えるように丸まった先には、ぼんやりと光る球体が二つ浮かぶ。砂時計と仮に呼んでいる大きな本体を中心に、全く左右対称に全ては設置されていた。
こぽり。こぽり。
シュナの耳に届いた音は、上の円錐の中からおそらく聞こえてきている。
そこには一匹の竜がいた。
砂時計の上部、液体の中に、翼を首を折りたたんだ竜が目を閉じたまま、逆さ向きにゆらゆらと浮かんでいる。
光を放っているのはどうやらこの竜の身体だ。明滅する銀色の光は、見ているうちに次第に強くなっていく。それは正しく鼓動を表しているのだと、どくんどくんと脈打つ音が耳に入れば理解できる。
二つの円錐が、ゆっくりと接続部の狭い口を開いていく。
円柱に近づく形になると、竜の身体はゆっくり上から下に、螺旋を描くように回転しながら降りてきた。
鼻先が底についた瞬間、それまで閉ざされていた――夢うつつに伏せられていた竜の瞼がかっと開かれた。今までとは異なり、明確に意思を持って液体の底に着地した竜は、四肢でしっかと大地を踏みしめると、くぐもった吠え声を上げる。
するとそれを合図にするかのように、彼を閉じ込めていた円錐――いやもはや円柱は、ぱっくりとどこからともなく割けて、覆う液体ごと竜を外部に吐き出す。
ぷしゃっと勢いよく音を立てて排出された液体は、どうやらぐるりと取り囲む床が排水設備を備えているらしく、吸い込まれるように床に消えていく。
転がり出た竜がゆっくりと翼を広げる様を見ていると、まるで少し前の自分の姿を見ているようだった。
どこか夢見心地で成り行きを見守っていたシュナは、いつの間にか自分の隣にアグアリクスでない竜が立っていたのに気がつくと、危うく悲鳴を上げそうになる。
《――存在を。定義する》
空の色のような鮮やかな青の鱗の竜は、磨いだ刃のように鋭い色を宿す銀色の目を細め、濡れたまま自分の前までやってきた新たな竜に声を掛ける。
《身は規範に従うべし。その性質は秩序。身は守護を望むもの。その業は保護――》
歌うように彼女が言葉を紡ぐ。それに誰もが聞き入っている。
わずかに目を伏せ、考えるような仕草をしてから、迷宮の女神は結んだ。
《名はティルティフィクス。汝の誕生を祝福する》
ぶぶぶ、と鼻を鳴らしてから、新たな竜は恭しく頭を垂れる。
シュナはこの、あまりに今までの自分の常識と異なる一連の儀式を前に、ただただ圧倒され、たたずんでいた。
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