惑う娘 黒竜に問う
《アグアリクス》
声を上げたのはほぼ同じタイミングだが、その声音は三者三様だ。
シュナは嬉しさたっぷり、エゼレクスはいかにも浮かない様子、ウィザルティクスはどちらとも言えない、あるいはどちらとも取れるような雰囲気だった。
黒い竜が歩いてくると他竜は道を譲るように後退する。
彼の身体はどの竜よりも大きめだから、そうしないと身体がぶつかって動けなくなるという理由もあるのだろうが。
《お帰り、シュナ。外の世界は楽しめたか?》
穏やかに声を掛けられて、けれどシュナは思わず答えに詰まってしまった。
《えーと、それが、そのぅ……》
《アグ。逆。楽しんでたんじゃなくて楽しまれてた方》
《……ふむ?》
銀の竜と緑の竜がそれぞれ声を上げると、黒い竜は一度シュナから顔を背け、二竜に近づいていく。
また
エゼレクスは言わずもがな、ウィザルティクスとて歓迎とは程遠い反応を見せた今回のシュナのあれこれだ。自分でも結構な面倒事に巻き込まれた自覚はある。
さて全ての竜を統括する秩序の頂点とやらはどのような感想を述べるのか。
今まで接してきた経験からして、エゼレクスのように食ってかかってくるような事はないと思うが、冷静に諭されるのもそれはそれでダメージになるような……。
戦々恐々見守っていると、黒い竜は唸った。しかも何度も。一番最後のうなり声が最も長く、そして何度も上がったり下がったり苦悩を表していて、
(これは……まさに今、デュランとのあれこれのシーンを見ているのでは……)
となんとなく察したシュナはいたたまれない。うぞうぞお尻の方からいざっていき、そのまま布の中にすっぽり埋もれこんだ。
そんな彼女の籠城状態には未だ気がつかず、三竜はいつかの時のように(あの時はウィザルティクスではなくネドヴィクスが三匹目だったのだが)、顔をつきあわせ深刻な様子で意見交換をしている。
《キスされるのは、まあ時間の問題だろうとは思っていたのでありますが……その後が。その……どう思うでありますか?》
《だからボクは最初から言ってる、さっさと締め上げるべきだったって! 誰とでも寝る男なんだから!》
《これ、止さぬか。あやつへの評価を修正する必要があるのは確かだ、それは我も否やはない。が、しかし、シュナ……シュナ? む? 何故姿が見えぬ。……ここか?》
かっと口を開き、軽く炎すら漏らしている混沌の頂点を宥め、秩序の竜は振り返ってようやくこんもり盛り上がった布に気がついた。首を傾げながらそっと一枚目繰り上げて、縮こまっている小さな竜を発見する。
上目遣いに黒竜を見上げてプルプル震えている彼女を見て、彼は破顔した。
《どうしたのだ。具合でも悪いのか?》
《……怒っていない?》
《どうして怒らねばならぬのだ……と、我はな。思っている》
ちらっと背後で「ボクは怒り心頭ですが何か」とタンタンタンタン足踏みを続けることで主張している緑の竜を見やってから、アグアリクスは首をすくませる。
《地上で困るような事は何かあったか?》
《……色々と》
《ふむ。誰に相談したい?》
黒い竜の低く落ち着いた声は、聞いている者にも同じ静けさをもたらしていく。
若干気後れの気配を漂わせつつ、小さくしっかりシュナは答えた。
《アグアリクスがいいわ》
《シュナ!》
《残念でありますが当然、略して残当であります》
《なんで略すんだぶっ殺すぞ》
《いや今の
アグアリクスの後ろから、悲鳴と茶化しと、その後小突き合い、すぐに取っ組み合うような音が聞こえてきた。黒い竜は深くため息を吐き出すと、シュナに被せられていた布を剥ぎ取りって彼女を鼻先で促すように押す。
《場所を移そうか。ここでは気になることもあろう》
彼はもはや一瞥すらくれようとしなかったが、言うまでもなく土煙の上がっている辺りがうるさいことを指摘しているのだろう。
加えて、アグアリクスが来たことに多少遠慮しているものの、ここは竜達の待機所、少し離れた場所ではたくさんの気配がじっとこの場の成り行きを窺っている気配があった。
大きな竜は小さな竜が大人しく自分についてくるのを確認すると、品のある足取りで部屋を横切る。
《頭が冷えたら来い。頼んだぞ》
ついでに一応声を掛けていくことも忘れなかった。
おそらく最初の言葉は混沌の竜に、次の言葉は秩序の竜に放ったのだろう。
騒音の中から鳴き声は二匹分返ってきたが、「わかりました」というより「邪魔すんな」と言っているような気がするのは、はたして錯覚なのだろうか。
気にかかる気持ちはあれど、今自分が声を掛けてもおそらく悪化を招くだけだろうと言うことがなんとなくわかっているシュナは、刺激しないようにそっと足音を忍ばせてアグアリクスについていく。
待機所から飛び立った彼の後ろにしばらくついていくと、光に包まれた後、建物の姿が消え大きな木々が出現した。
大木の間だ。竜の統括係ともなれば、この程度の空間移動造作もないのだろう。確かな実力に裏打ちされた自信がこの独特の安心感を醸し出すのだろうか。一緒に飛んでいて、やはり他竜とはひと味違う揺るぎなさを感じる。
適当な枝に降りたアグアリクスにシュナが続くと、彼はゆっくり翼を折りたたんでから大きな口を開いた。
《人から竜になるとまた勝手が違うこともあろうが、飛び方も随分と綺麗になった。こちらにもあちらにも、慣れてきたと言えるのであろうな》
《前よりは……》
労う言葉に、シュナの反応は鈍い。
アグアリクスはぴくりと目元を震わせたが、言葉は出さなかった。
黙ったまま、シュナの続きを待っているように見える。
彼女はおずおずと尋ねた。
《……本当に、怒らないの?》
《では逆に問おう。何に対してそんなに罪悪感を抱いている?》
う、と思わず言いよどみ、目を伏せる。
《色々……》
《貴方の記憶を参照させてもらった。そこから考えるに、確かに今回、改善すべき問題点がいくつかあったようだ。どうも色々と……まあ、その、何というか。接触されたらしいな。これは我々の落ち度でもあるが、たとえ女性相手でも過度に触れられたら離れるのが良いと助言させていただくぞ、うむ》
ますますきゅう、とうなだれるシュナに、アグアリクスは視線を合わせるように首を下げる。
《――しかし、それよりも。我は貴方が一体何にそれほど困っておるのか、それが最も気になるよ、シュナ》
言われて彼女は思い出す。
困っている――そう、とても困っていたのだ。だから帰ってきた。緊張して凝っていた口が緩み、胸につかえていた言葉がするりと抜け出す。
《キスをされたの》
うん、とも、ふむ、ともつかない声がアグアリクスから漏れた。
緩やかな相づちは打ったものの、過度な反応ではない。
相手が露骨に怯んでなどいたらシュナも気後れしただろう。
彼女は間を置いて、息をすっと吸ってから次の言葉につなげる。
《わたくしの知っているものと違っていたわ》
《そうやもしれぬな》
《あのね、わたくし、あのね……》
《うむ……》
《……びっくりしたの。とても――とても、驚いたの。本当に……》
《そうか。……そうであろうなぁ》
《あんなことされたら、頭が真っ白になって固まってしまうのもしょうがないのではないかしら? それともわたくし、何か間違っていた? もっと上手な対応って、あったと思う?》
《う、うむ……? いかに長い時を生きてきた我とて、その、あのような状況では専門外なものでな……。ううむ、男に強引に迫られた時の令嬢風スマートなかわし方、だと……? 張り手をするのも何やら違うような……いや、どうなのであろうな……? こう、横にいなしつつ受け身を……むむむむむ……》
後半応じる声に疑問形と不安の色が混ざり出しはしたものの、何にせよ大事なのは、アグアリクスはシュナを否定せず受け止め続けた、ということだ。
おかげでシュナも、エゼレクスにまくし立てられて忘れかけていた、自分が何を言いたかったのか、何を思っていたのかをゆっくり取り戻すことができる。
《あのね、あのね、アグアリクス。わたくしって……結婚、できるかしら?》
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