恋乙女 壁ドン(軽)される

 なんとかデュランの視線にも耐え、無事ステーキも平らげたシュナは、充実感たっぷりに帰路を歩んでいた。


 当然のようにデュランのエスコート付きでまたも視線のやり場に困ることになり、己のままならない状態に困惑する。


(触られるのが嫌という訳じゃない……はずだけれど……)


 むしろ大きくてしっかりした手に触れられると、なんとも言えない安心感がする。


 シュナとして撫でられている時もそうだし、トゥラとしてちょっとした触れあいがある時もそうだ。


 なのだが、どうにも手を引っ込めたい衝動に駆られてくる。


「……俺、君に何か嫌な事、した?」


 そわそわうぞうぞ挙動不審な様子は、ただでさえ手をつなぐ距離、そして一部天然ボケをかますも基本的にはよく気が利く男にはすぐ伝わったようだった。


 一緒に廊下を歩いている間は何か考え込みながら沈黙を保っていたのだが、部屋の扉の前までやってきて手を離すとおもむろにそう口を開いた。


 大慌てでシュナはぶんぶん横に頭を振る。


 リボンの告白をかわされたことについて色々物申したいことはあれど、ならば幻滅し嫌いになった、という訳ではない。


(せっかくわたくしが一世一代の勇気を振り絞ったのに、気がついてくれないなんて酷いわ! デュランはおばかさんよ!)


 せいぜいこの程度である。


 と、考えをまとめたところで娘は内心ますます首を傾げた。


(それなら本当に、わたくしがデュランを避ける理由なんてないはずでは?)


 シュナとしてもトゥラとしても、細かい小言案件を言い出したらそれこそきりがないが、どちらも彼のことを信頼し、好意を向けていると思う。


(……そうよ。逆なのだわ。苦手だから避けるのではない。好きだから避けたいのよ)


 途端にぼっと顔に火が灯った。度しがたい。自分の感情のはずなのだが、把握はできても意味がわからない。なぜ好意と恥が結びつく理由があるのだ? それはまったく別のものではないのか?


(好きだけど、好きなはずだけど、何か今までと違うわ。どうして……)


 目一杯後ろに下がると部屋の扉に背中が当たる。


 デュランは訝しげに彼女の様子を見守っていたが、こちらの動揺が伝染したのだろうか、表情に焦りが混じってきた。


 そのまま部屋に引っ込まれるのを阻止したかったのだろうか。彼は片手をとんとシュナの顔の横についた。


「こっち、見て」


 そのまま低い声で命じられると、別に無理矢理ではないのになんと強制力があるのだろう。おずおず目を向けると、自然と相手の顔色を窺う上目遣いになってしまう。


 赤い髪。金色の目。端正に整った目鼻立ち。

 改めてよく見ると、己の感情に少し言い訳できる余地が生まれたと思った。


 こんな男の目が自分にじっと注がれていると思ったら、それは恥ずかしいと思うに決まっている。はずだ。違うのだろうか。一般女性というものがわからないから断言できない。


 結構な至近距離だし、逃げ場は失われ、しかも彼は真顔だった。圧迫感があるなんて優しいものではない。


 シュナは目を見開いたままぷるぷる小刻みに震えだした。


「あのさ、トゥラ――」

「あー。おっほん。あー! おっほん! えへんぐふんげほん!」


 デュランがなおも何か追求しようとしたらしいその時、棒読みスレスレの咳払いを模した台詞が飛んできて、二人とも飛び上がる。


 その拍子にぱっとデュランが突いていた手を離したので、シュナはほっとこっそり息を吐き出した。


 揃って振り返った先、トゥラの世話係のかしましいメイドであるコレットと……名前はバルドだったろうか、トゥラの護衛を任された寡黙な騎士が立っている。


「まあ、あたしらそういう扱いも慣れてますし、特に王国の皆様の価値観なら心得ているので、はい、いいんですけれども。一応これ、若様にとっては人目カウントされると思うので。ヒートアップする前に自己主張しておこっかなーって。軽率に女子会のネタを増やしてくださると言うことなら、ええ、これ以上止めませんけれども」


 ニコニコしながら主にデュランにチクチク言うのはコレットである。


 しかし言葉が少なく表情の動きにくい騎士とても、「ここでやるな、よそでやれ」と目で訴えているような気がするのは果たして錯覚なのだろうか。


 ますます赤くなって縮こまるシュナと、気まずそうに目をそらす竜騎士である。


 そのまま挨拶を済ませて帰って行くかに見えた彼だが、去ると見せかけてなんだか悩ましい表情になった後、「ごめん、これだけは」なんて言ってまたシュナと視線を合わせてきた。


「一つだけ確認させて。俺のこと、嫌いになった訳じゃないんだよね?」


 それは違う、とシュナはすぐ身振りで答えた。すると――割と露骨に、デュランの顔から険しさが取れた。ような、気がする。少なくとも今の今まで放たれていた謎の圧は消えた。


「そっか……うん。そうなのか」


 上機嫌になったらしい彼は、ごくごく自然な動きでシュナの手を取った。あまりに自然だったから引っ込める時間もなかった。


 指先に唇を落として、そのまま彼は囁くように言う。


「おやすみ、トゥラ。また明日」


 ――ついに我慢の臨界点を超えた。


 思わず部屋の中に逃げるように駆け込んでしまったが、自分の行動は間違っていなかったと主張したい。


 というかむしろ、もっと早くやっておけばよかった。いや、逃げ道は塞がれていたからできなかったのだったか。


 娘はそのままベッドまで一直線に走って行き、枕を引ったくるように取ってから抱えて言葉にならない叫びを上げている。


(指……指! 唇!)


 パニックになっているときの人間の語彙力は貧弱だ。シュナが今喋れていたら、キャーしか言っていなかったと思う。


 いやその、男性が女性の手を取って挨拶するあのやり方は知っているし、今まで何度かあったけれど、大体は口をつけるまで行かないというか、近づけたところでちょっと止めて、それで終わるのだ。


 あんな不意打ちで唇を落とすなんて卑怯である。でも嫌ではない。全然嫌ではない。むしろ嬉しかったのでは。そんなことを思う自分がはしたないと思うのに胸の高鳴りは増す一方だ。


 触れられたのは薬指だったろうか? じんじんとそこだけ熱い。恐る恐る見てみるが、別に赤くなったりはしていない。でも気持ちは真っ赤だ。枕を抱えて足をジタバタさせる。


 開けっぱなしの扉から入ってきたコレットがフッ、と斜めの方向に目をやって鼻を鳴らしている。


「ええ、あのね。春風がブリザードなのはね、はい、大歓迎なのですが。いえ、まだ静風なんでしょうかね? まあそれは、どちらでもいいんですが。あれで無自覚って言うのは、どうにもこう……っていうかそうなんですよね、気がついてないのは当人だけってことで合ってます!? 今までの若様と全然違うから我々も動揺を禁じ得ないというかマジで判断に困ってるんですけれども!? ああ駄目だ、お嬢様に言ってもあらゆる意味で答えられませんものね、後でメイド会議にかけておきますから!」


 相変わらずの早口だ。そして口も動かすが手もちゃんと動かして、トゥラをベッドから誘導し、ちゃっちゃとドレスを緩め始める。


 ついでに枕もベッドに置いていかせようとしたが、普段は大人しく従順な娘がそこはがんとして譲らなかったので、自称有能メイドは早々に諦めることにしたようだった。


「全く、本当に! なんなんでしょうね! 普段気が利かない方じゃないはずなのに、むしろ目端が利くって方なはずなのに、なーぜああも自分のことにだけ鈍感なんでしょう!? あれだから女の子にモテても毎回愛想尽かされてフられることになるんだなって、あたしちょっと改めて納得しちゃいましたよ!」


 今日は特に色々言いたいことがあるのか、シュナが枕を抱えて大人しくしている間ずーっとおしゃべりが止まらない。


 あっという間にコルセットまで取れると、締め付けがなくなったことで体からほわっと力が抜け、緊張で抑えられていたらしい徒労感がどっと両肩にのしかかってくる。


「お嬢様もあんなわかりやすく奴をつけあがらせちゃ駄目ですよ! ……いえ、お嬢様は悪くないですよね。はい。お嬢様のような世慣れぬたおやかなかわいらしい乙女に、駆け引きだの処世術だの求める方が間違ってますよね、ええ。奥様は身につけさせたがってますけど……」


 たぶんコレットが話しているのはデュランと、あとトゥラについてのことなのだと思うのだが。駄目だ、一応音は頭に入っているのだが、もうこの時間になるとまともに思考回路が働かない。


 音を言語としてまともに変換できないのだ。相変わらずの滑舌も、けれど疲れ切った身にとっては眠りに誘う心地よい背景音楽の一つである。


 化粧を落としている時に下ろした瞼がそのままとろんと重たくなっているのを見ると、メイドは騒いでいた調子を収める。


「少なくともこの件については、悪いのはうちのボンクラです。すみませんねえ、女性慣れが悪い方に出て、あんな……あんなねえ、何なんでしょうねえ、本当にねえ」


 しかしテンション控えめになっても、やっぱり黙ることはなく、ぼーっとしているシュナの意識の向こうでは、ずっと世話を焼きつつデュランへの私的なコメントが続いているらしいのだった。

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