ヒトの娘 のぞき見をする
色々と脅されて出かけた茶会だったが(実際それなりの修羅場をくぐった気もしているが)、終わり方は和やかだった。
シュナにとっては完璧で、何一つ困っている風に見えない令嬢にも、ままならないことが多々ある――それを垣間見せられると、今まで感じていた壁が、なくなったとまでは行かずとも、大分低くなったような気がする。
「ああそう。これも言っておかなくちゃ」
サフィーリアは思う存分喋り倒して満足したようだった。
別れ際にも上機嫌な顔で、ふと思い出したように手を合わせ、シュナに顔を近づけてくる。
「自分のことは、結局自分しか守れないし、自分しか責任を取れない。だから、もし本当にこれは自分の手に負えない、無理だと思う事態になったら――逃げちゃいなさい。それも大事で有効な一手よ」
女は弱いから、男よりはその道が許されているしね。
ふっと艶のある唇に弧を描き、年上の令嬢は結んだ。
シュナは頷き、別れの挨拶を交わす。
令嬢同士では頭を下げる程度で挨拶になるが、サフィーリアは自然な流れで抱擁してきた。
(柔らかくて、温かい。けど、ごそごそ……)
初めて年頃の令嬢にぎゅっとされて抱いた小娘の感想はそのような所だった。
ふわりと香る甘い香りに、そういえばデュランはほんのりと石けんの匂いがした。柑橘系の、爽やかなものだ。なんで知ってるってだってシャワーを借りたから――などなど、色々あらぬ妄想もとい記憶が蘇ってきそうになったので、慌てて封印する。
「またいらしてね。ああ、そちらからご招待いただくのでも、構わなくてよ?」
しかし多少友好的であることが実感を伴うようにはなっても、やっぱり圧が強いことに変わりはない。
構わなくてよ、というか、今度はそっちが礼を返せと言われているのだろうな、となんとなく感じ取ったシュナは、満面の笑みを浮かべている令嬢に(努力します……)と本人なりの精一杯の誠意で返した。
そっと目をそらせば、やっぱり待っていた付き人の皆様も、気まずそうに目を泳がせて――。
(…………?)
いや、違う。今日この屋敷に入ってきたときの、「ええ、ここまでするぅ……?」と言いたげな雰囲気でも、引きつった苦笑いでもない。
彼らが今漂わせている緊張は、もっとピリリとしたものだ。
笑みを消して顔を向けている先を追ってみれば、確かに何やら人ざわめきが聞こえる。大勢が歓談している喧噪と言うより……もう少し、穏やかではない種類の。
主催にも場の変化は伝わっているのだろう。
彼女はティーセットを広げていた庭から、今まさに客人を入り口まで案内しつつ見送ろうとしていたところだったのだが、椅子から立ち上がって別れの抱擁まで終わらせたのに、部屋を出ようとしない。
そのうち、メイドの一人が小走りに駆け込んできたかと思うと、サフィーリアに近づいていってそっと何事か耳打ちした。
「まあ……」
貴婦人は美しく整った眉をひそめ、扇子を広げた。すっと切れ長の目が細められ、鋭い眼光が放たれた気がする。
「私が行く。それまで待たせて」
低い低い声で短く告げると、令嬢はいつも通りの笑顔で客人達に素早く向き直った。
「失礼致しました。大したことではございませんの。さ、参りましょう」
(何かあったのかしら)
いや、何かは確実にあったのだろう。だが、あちらが何事もないように振る舞っているなら客人がわざわざつつくことでもなかろうし、そもそもシュナ――というかトゥラは、追求したくとも喋れない。
護衛につけられている騎士も、物静かなことに定評のある男だ。以前に町で出会った年若の明るい騎士ならば、「何かあったんですか?」ぐらいは軽く言ったかもしれないが、黙して従うのみである。
結局もう一度気合いの入った赤絨毯(と左右に整列する男達と謎の音と香り)に至るまで、見た目には来たときと変わらない屋敷内を進む事になった。
振り返れば、相変わらずやたらめったら輝かしい邸宅とずらずら居並ぶ人の群れに圧倒されそうになるが、やはりなんというか――どこか、来た時には見えなかった浮き足だった空気が流れているような気がする。
とは言え、サフィーリアには最後まできっちり見送られ、護衛にはしっかり馬車に詰められた上に、馬車の中にも世話をする人間が同席している。
気にはなっても、これ以上シュナにできることはなさそうだ。せめて喋れたなら、帰ってデュランなり侯爵夫妻なりに今日の帰り際ちょっと気になることがあったのだと報告もできようが――。
いや、あったではないか。できることが。
シュナは馬車の中で、こっそり世話役に目をやってから、椅子に深く身体を沈める。
慣れない外出で疲れたと思われているのだろう。実際、身体は確かに徒労感を覚えていた。咎められることもなく、そのまままどろみに沈む。きっと着いたら起こしてもらえるはずだ。
というところまで、外面を整えてから。
娘は自分の中に意識を向ける。
思い出す。
少し前に、自分がしたことを。
意識する。
できる。もうやり方は知っている。
屋敷の中の様子。そこに自分の、内面だけを、飛ばす――。
【――機能拡張の要請を確認】
ほら、成功した。目論見通り抜け出せた意識はにっこり微笑んだが、見下ろす身体は瞳を閉じたままだ。外から見れば馬車の中でくったり疲れ果てて眠っているのだろうが、その中身は身体を抜け出て外に降り立ち、元来た道を進んでいく。
程なくして、華やかな邸宅がシュナの閉じた瞼の裏の視界に広がる。
きょろきょろと辺りを見回して、人のいる方で。
招かれたときには足を向けようともしなかった、使用人達の使う裏道を通り抜け――。
『ごめんなさいね。今日はご招待していないお客様の飛び入りを受け付けていない日なの』
彼女の耳が、目当ての声を捉えた。
そちらに行け! と念じると、一瞬で周りの景色が変わる。
どうやら倉庫のような所で、先ほど別れた時と変わらぬ様子のサフィーリアが立っていた。
彼女の周りに立っているのは、世話係と……たぶん護衛だ。いかめしい顔立ちの男の格好は、城の騎士達のものと似ている。
客人達の前に出てきたのは、最初と最後の出迎え以外、愛想のいい娘達が多かったのだが……もしかして、何か気遣いを受けていたのかもしれない。
居並んだ男達が、サフィーリアが向き合っている先、うなだれている何者かに顎をしゃくって言った。
『どうします? 敷地内のことですし、さほど大騒ぎするようなこともでありませんから、こちらで――』
『でもなあ。一応客人が来てた間の事に、ギリギリなるし。何も言わないってのも、後々面倒な事に――』
『城には伝えないで下さい!!』
悲鳴のような甲高い声に、はっと息を飲み込んだのはその場の人間達だけではない。
のぞき見をしているシュナもまた、驚いて危うくそのまま現実の身体に戻ってくるところだった。何しろ、知っている人間の声だったからだ。
上げられた顔を見てみれば、おさげの髪型に、そばかす。これもやはり、見たことのあるもの。
ニルヴァ=ラングリース。
以前に迷宮で出会い、最近も廟帰りにちらりと顔を見た冒険者見習いの少女である。
着込んでいる服はどうやら、見たことがない。というより、屋敷の中で走り回っていたメイド達のものにそっくりな上、サイズも合ってないようだから――。
シュナが考え込んでいる間に、少女は早口で言いつのる。
『すみません――勝手に入り込んで、好き勝手言える身分じゃないのは百も承知です。罰だって、もちろん受けます。でも、でも……あ、あたし。お願いです、あたしが、あたしだけが、悪いから……あまり……騒ぎにしないでほしいんです』
(……どうやら、メイドのふりをして忍び込んでいたのがわかってしまって、怒られている、というところかしら)
少女本人の言葉によって、シュナは状況を大まかに推測する。
それにしても気になるのは、そんなことをした理由以上に、現在のニルヴァの顔色の悪さだ。この前トゥラとして出会った時も、なんだか調子が悪そうだと思ったが、今日はそれよりさらに酷い。見るからに、今にも倒れそうな様子なのである。
『あのなあ、お嬢ちゃん――』
『お待ち』
『姫様』
『ごついのが低くて大きな声を降らせたら怯えさせるでしょ』
頭を掻いた後何か言おうとした男騎士が、サフィーリアにぴしゃんと言われて黙り込む。男達が目配せし合って肩をすくめている中、令嬢はすっとしゃがみ込んだ。
もう少し後ろでメイドが『姫様、ドレスが……』と渋そうに言っているが、気にした様子はない。
しゃがみ込んでいる少女と同じ目線になった女に、彼女は再度主張を始めた。
『あの……この場で鞭打ちを頂くのは当然です、罰金なら、今すぐは無理でも、後で必ずなんとかします。ただ――あたし、あたし早く、家に帰らないと――』
『帰らないと、どう困るの?』
『……父、が……』
ニルヴァの父――とは、ジャグ=ラングリース。デュランの次に目覚めたシュナが出会った冒険者だったが、どうも身体の調子を崩したということで、今は冒険者を引退して地上の仕事を開始中……という事情だったと記憶している。
ラングリース家は、数年前に同じく冒険者だった母を亡くし、今は父と娘の二人暮らしだ。一緒にいる所にはまだ会っていないが、お互いがお互いを話題にしていた様子を見るに、仲睦まじい親子なのだと想像できる。
彼に何かあったのだろうか?
というより、あったのだとしか思えない。
しかし、何か言おうとした言葉の先が続かず、そのまま黙り込んで紫色の唇を震わせ始めたのを見ると、これ以上聞き出すのは無理だと判断したのだろう。
令嬢はため息をついて立ち上がり、くるりと背後のメイドを振り返る。
『ひとまずは今晩、世話してあげて』
『姫様!』
『姫様……』
主の言葉に、周りはこぞって渋い反応だが、令嬢は肩をすくめた。
『このまま無罪放免はいさようなら、は、私も通す気がない。でも、事情を聞くにせよ、罰を受けさせるにせよ、これでは話にならないでしょう』
『そ、そんな……困りますっ、あたし、家に帰らなきゃっ――!』
『おい、お前な』
男が低く唸ると、わめき立てようとしていた娘はひゅっと息を飲み込む。
『平民以下が家宅侵入したら即刻斬首って時代と場所だってあったんだぜ。ゴタゴタ言ってこれ以上姫様を煩わせるな』
『うちの国の暗黒歴史を掘り返さないでくれないかしら……』
物騒な言葉に少女とシュナは震え上がったが、サフィーリアはため息を吐いて首を振るのみだ。
力なくうなだれたニルヴァが、メイド達に促されて、部屋を出て行く――。
そこではっと、シュナは我に返った。
「お嬢様!」
どうやら馬車が動いた拍子に脱力した身体が滑ったようだ。
幸い身体が傾いた所で意識を取り戻し、慌てて席に戻ったから怪我はない。
心配そうな世話係に、なんでもないと繰り返し主張してみるが、胸の動悸は収まりそうにない。
(何かしら、この感じ……)
思い通りに力を使えた達成感。
のぞき見をしてしまった罪悪感。
そして何より、ニルヴァ=ラングリースのあの尋常でない様子。
それらが胸の中にこびりついて、全く頭から離れていこうとしなかった。
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