若竜 人になる

 まっすぐ前へと続いていた通路は、ある一点で上方に道が開かれる。

 石の壁には梯子のような物が設置されており、人間達は地道にこれを使って降りてくるのだろう。


 シュナは少し速度を落とし、真上に向かって羽ばたく。横向きの通路より縦向きの通路の方が狭く、飛行に気をつけていないとどこかかすってしまいそうだ。しかし彼女が小柄なためもあってか、ぶつかることはなかった。


 縦穴の終着点から飛び出すと、そこは小部屋のようだった。

 天井に激突しそうになったシュナは、慌てて急停止し、出てきた穴の横に降り立つ。


 人が十……いや、二十人ほど入れる程度の大きさだろうか。天井がそれなりに高いので圧迫感はない。

 無骨な岩壁を周囲でぐるりと囲み、扉が一つだけぽつんとある作りは、迷宮に続く縦穴、及び横穴通路を覆うためだけに作られた、と言った雰囲気が強い。


 壁を見回していたシュナは、何気なく自分の口が動きのを感じた。


サルカスプ・ガウダ贄となれショルカ・ヨ・ヴァルナお前の価値を示すが良い――》


 奇妙な落書きのような列を読み上げてから、はっとする。


(これは……文字……? 知らないはずなのに、どうして読めるの? 意味を理解できるの?)


 壁に刻まれている文字は、迷宮に潜る人間達への警告なのか、どうもおどろおどろしく気分の悪くなりそうな言葉ばかり並んでいるようだ。


 扉の方に顔を向けると、それだけが飾り付けや模様がついていて豪華で、上部にたった一言――この言葉だけはまるで目立たせるためのように、単にひっかき傷のように掘られているだけでなく、緋色で彩られていた。


 ――ヨ・ハザ・ナルヴェお前には何もない


 ぞっ、とシュナの鱗が、喉が、身体の奥が嫌な疼きを感じる。

 文字を目が追いかけた瞬間、同時に別の意味が頭の中に浮かび上がった。


《迷宮外での生はない》


 それは何ものかの意思であり、宣告だ。迷宮の何ものをも、絶対に閉じ込め、逃すまいと言う。全身が脈打ち、肌の下に流れる血が騒ぐ。逆らってはいけないと、自己の保存を求めて身体が動こうとする。


 自然と後退した足が、尻尾が触れた感触に振り返れば、迷宮への縦穴がぽっかりと開いていた。まるで、戻ってこいとでも言うように。


 ふとシュナの脳裏に、似たようなことがあった、と記憶が蘇る。あの時は選択の余地なく、彼女は引きずり込まれたのだ。人から竜になり、迷宮へ……。


 ごくり、と喉を鳴らした。彼女の両目は、重たそうな扉を見据える。

 迷宮が安全ではないから逃げてきた、自分がいるとよくないと思ったから離れることにした。けれどこの場に来た理由は、それだけではない。


 ずっと、外に出たかった。広い、知らない世界を見に行きたかった。塔の中で、父を待ち続けていた時から。


 それを、今。叶えるだけ。


(大丈夫……離れすぎれば、時間がかかりすぎれば、危ない。それなら、短時間、そう遠い場所に行かなければ……きっと、平気)


 それに、もし今まで彼女が得てきた情報と、彼女自身の推測が正しいのなら。


(そうよ。わたくしは、元々……迷宮の外から、来たのよ。だったら、もう一度外に……出られる、はず)


 鼻先で、仰々しい扉を押す。ぴくりともしない。恐る恐る今度はもっと体重をかけてみる。動く気配はない。


 彼女は覚悟を決めた。数歩後退し、大きく息を吸ってから――扉に向かって、突撃する!


 衝撃は感じられたが、途中で止まることなかった。勢いのまま転がり出て、水たまりにばしゃりと沈み、慌てて起き上がる。

 頭を上げても顔は濡れっぱなしだ。全身に水が叩きつけられている。彼女は呆然と、上を見上げた。


(これは何……? お水がたくさん……ここは、滝の下なの……?)


 出所のわからない幾多の落下する水滴の群れの中で立ち尽くしているうち、ピカッと光が走った。びっくりした彼女が目を丸くするのとほぼ同時、轟音が轟く。同時に見えない物に横殴りにされるような感覚があった。


 シュナは悲鳴を上げてばたばたと翼を動かし、とにかくこの状況から逃げようと暴れる。なりふり構っていられないし、周りの状況はろくに見ていられない。


 そのうち、ごちん、と頭をぶつけて涙目になった。また上部からだだーっと何かが一斉に落ちてきて慌てたが、翼で顔を覆って震えているとそれ以上の追撃はない。それに、どうやら先ほどより身体に叩きつけられる水の感触が弱まっているようだ。


 そっと翼の間から顔を出すと、大きな木の下に潜り込んだようだった。無数の枝葉が、わずかばかりではあるが、降り注ぐ水の群れから守ってくれているらしい。


 ドキドキ高鳴る心臓を落ち着けていると、再びピカッと上が光った。シュナは唸り声を上げるが、間もなく轟く音にぴゃっとまた丸まって身を小さくする。

 何度かまばゆい光と恐ろしい音は続いたが、あれらは遠くで、今すぐ自分がどうなるわけではないようだ、とわかってくると、シュナの頭は思考し感動する余裕を取り戻す。


(ああ、そうか……これが雨、さっきのが、風、あれが雷なのね!)


 塔を隔てて、あるいは本の中でしか知らなかった遠くの物を我が身に実感して、彼女は喜びの声を上げる。

 ……が、やっぱり雷の音は苦手らしい。ドカーンと響く度に首を引っ込めては、鳴っていない時にそろそろと首を伸ばして目を丸くして光に目を輝かせて、また音に慌てて引っ込んで……それを飽きもせず繰り返している。


 けれど残念なことに、未知への感動だけが許されたわけではなかったのだ。


(あら? 身体が熱い? 耳鳴り? 頭が……)


 シュナはやがて自分の身体の異常に気がつく。不思議そうに首を捻ってから――すぐに前脚で頭を抱えた。


《い……いたい? いたい……痛い! 痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い、痛いよおおおお、うあああああああああ……!》


 疑問の声は驚きに、それから恐怖に――そして苦痛の叫びへと転じていく。

 角が折られる。翼が千切られる。爪が剥がされる。牙がもがれる。鱗の一つ一つの下に、鋭利な刃物をねじこまれる。それらは全て錯覚だが、実際そうされているのとほぼ変わらない。


 激痛が全身を支配した。彼女の身体が、彼女自身を拒絶している。のたうち回ると雨風の中にまろび出るが、外部に構っている暇がないぐらい、今は体内の異常が辛い。


(あたま……あたまが、われちゃう! やめて!)


 メリメリ、ピシピシと耳の奥で音が聞こえた。赤く染まる視界に、瞬時に様々な記憶がフラッシュバックする。



 ……でも外はもっと駄目だって、ぼくら出られないことになってるんだよ!? 色んな意味でまずいんだって――。


 ……迷宮の生物は、誰も迷宮から出られない。彼らは囚われている。永遠に、迷宮に囚われ続ける。どれほど力があろうと、外には出られない。本当の星は見られない。これは迷宮の主である女神さえ例外ではない、絶対不変の約束事だ――。


 ……化け物め、ここから生きて出られると思うな。お前に迷宮外での生はない。永遠に、ここにいるんだ――。



 びくんびくん、と竜の身体が跳ねる。眼球が裏返り、口から黄金色の液体が吐き出される。ぐちゃぐちゃになってまともに動かない頭に、誰かの声が紛れ込んでくる。


 ――戻っておいで、還っておいで。眠らぬ夢が潰えても、眠る夢ならいつまでも。星の夢を……。


(星……?)


 あらゆる感覚が遠のき、思考も無に溶けていこうとする直前、シュナを引き留めたのは疑問だ。疑問と、答えを求める気持ち。それは彼女の最も原始的な欲求であり、行動の原動力である。

 消えそうになる意識にかろうじてしがみつく。同時に全身に巡る耐えがたい苦痛を思い出すが、ここで眠りについては、自分の望みは叶えられないと歯を食いしばる。


(いやだ、死にたくない――こんな、何もわからないまま、終わりたくない……もう塔の中で待つだけじゃないんだ! それに、)


 喉から絞り出した声は雨風にかき消されるほど弱々しいが、彼女は口を開け、力の限り喉を震わせた。

 喉が熱い。焼き切れてしまいそうなほど。その部分――欠け落ちた場所に、あらん限りの力を込める。


(それに、デュラン――デュラン! 置いていかないで……わたくしもあなたを、置いていったりなんかしないから!)


 彼女は想った。彼女を見つけて、彼女が見つけた、初めての人のことを、一心に。


 その瞬間、何かが砕け散る音と共に、彼女の周りに破片が飛び散った。


 ――彼女は。

 いつの間にか、自分の叫び声が、獣のそれではなく、女の高い声に変わっているのを知る。


 肩の付け根、背中に生えていた翼の感触がなくなり、突き出て地を叩いていた尾がなくなり、頭から角の重みが消えている。

 鱗と牙と爪で覆われていた頑丈な身体は、弱々しい白い肌に。ぺたぺたと地を探ると、硬い石の感触がごつごつ響いて痛い。


 ぴかり、とまた光が走った瞬間、目の前の水たまりの中に女の姿が浮かび上がる。

 風にたなびき、身体にまとわりつく長く青い髪に、黒い瞳――十八年間、シュナであった者の姿がそこにあった。


(戻れた……? 人間に、戻れたんだ、わたくし……)


 シュナは瞬きするが、すぐに自分の姿も、周りの景色も見失う。

 人の身に嵐は強く、立っていることもできなければまともに目を開けているのも辛い。

 身体を支配する痛みはなくなったが、今度こそ身体に力が入らない。かろうじて四つん這いで踏ん張っていた肘が折れ、膝が崩れ、地に伸びた細く白い腕がぴくぴくと震えている。


(デュランは人になっても、わたくしを見分けてくれるかしら? いいえ……わたくしが“シュナ”だとわかってしまった方が、いけないことかしら……)


 叩きつける雨の中、鈍い思考で逆鱗のことを考える。

 きっと“シュナ”が一番頼りにできる人で、絶対に“シュナ”を助けてくれる人。

 けれど、彼にとっての“シュナ”は竜。自分のこともろくにわからず、迷宮から出ることができず、ただ彼を待ち続けるだけの、シュナ。


 それが外に出てきて、人間の姿を取っていたら、どうだろう?

 彼は同じように接してくれるだろうか。それとも。

 ……化け物と、彼女のことを拒絶するだろうか。

 心に不安が満ち、想像は悲しみを広げる。


(髪……お母様と同じ、この髪の色……シュナの鱗の色……これではきっと、すぐにわかってしまう……もっと、別の……)


 頭の中で幾多の音が鳴り響いて、頭を揺らしている。


 うるさい音を無視しようとしたシュナだったが、最初は一番小さかったのに次第に大きくなって、最後には無視できないほど耳元で喚いている音がふと気になり、うっすら目を開ける。


 ああ、嵐でも赤い髪はよく目立つ。何か叫んでいるようだが……もう耳が何も聞き取ってくれないのだ。

 それともこれは幻だろうか。だとしても、幸せな幻影だ……。


 思い浮かべていた人を姿を見つめ、シュナはきらきらと目を輝かせて微笑みを浮かべた。


 そして安堵の息を漏らすのと同時、彼女の意識は闇に溶け込んだ。

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