居候 初めてがいっぱい
そこには一面の花畑が広がっていた。
どこからか月明かりのような銀色の光が差し込んでいて、色とりどりの花々が揺れる様子を照らしている。
かぐわしい香りの中を、くすくすと小さな忍び笑いが渡った。
一人の女と、一人の男。花畑を揺らし、踏み分けて進んでいく。女の方が逃げて、男が追う。
彼女の長く青い髪は、銀色の光に照らされるときらきらと輝いた。一方、男の髪は闇を吸ったかのように黒く、少しだけ癖がついているようだった。
本気の追走劇ではない。両者とも明らかに遊んでいた。
それが証拠に、顔には笑みが絶えず、女は時折男の方に振り返って、きちんとついてこられているか確かめるかのように足を止めてはまた走り出す。
不意に女が花の中に沈んだ。転んだというより、わざと自分から倒れ込んだといったところだろうか。追いついた彼もまた花の群れに埋もれる。背中から彼女を抱きしめると、女はまた笑い声を漏らした。ついばむように落とされる口づけを、目を閉じて受け入れる。胸の前に回された腕を彼女が撫でると、男は一度腕を解き、女の身体の向きを変えさせてもう一度口づける。今度はもっと、深く、長く。
女は男が顔を離すと、細い指を彼の顔面、その左側を覆う大きな痣に這わせた。
目を細め、男はそれを受け入れる。
彼女の銀色の目がきらきらと星空のように輝いた。
「
男は柔らかに笑い、低く小さく囁いた。女は微笑みを浮かべたまま、彼を見つめ返す。
何度も唇を重ねながら、やがて男は彼女の服に手を掛け、ゆっくりと――。
「うあーーーーーー!?」
飛び起きながら叫んだ。自分の声に驚いて、身体の上にかかっていたシーツを思いっきりはねのけてしまった。が、真上に広げたせいですぐに頭の上からまたすっぽり被ることになり、動転してじたばたもがく。
布団の中から這い出て見慣れぬ大きな部屋を見回し、頭の中にたくさん疑問符を浮かべてからようやくシュナは状況を理解した。
そうだ、彼女は迷宮から出て、デュランに拾われて、おそらく彼の住んでいるお城まで連れてこられたのだ。眠れと言われて、彼が横にいて……今はいないみたいだ。いたら絶対に驚かせたと思うので、幸と思うべきか。
デュランに手を握られてうとうとしていた気がするから、その後結局眠りに落ちて、夢を見ていたのだろう。
それにしてもその夢の内容が問題に過ぎる。
二人いた人のうち片方が父親であることは明白で、その彼が女性と戯れていたところまではまだ許すとして、最後のあれはなんだ、身体に手を這わせたかと思ったらごくごく自然な動きで服を……。
シュナはぴゃー! と声にならない悲鳴を上げ、両頬を手で覆って勢いよく頭を振った。
(び……びっくりした! びっくりしたわ! あれは何? お父様? お父様だったわ、間違いなく。なのにどうしてあんな……は、破廉恥だわ! ふしだらだわ! みだらだわ! お父様、わたくしには人に裸を見せるのも見るのもすごく恥ずかしい事だって言っておいて、自分はあんな……お、女の人の! 服を! しかも胸を……ああもう、ああもう、お父様のばか! ばかばかばかっ! 夢だとしても! ちょっと許せないっ! どうしてあんな……やっぱりお父様が悪いのよ、もう! ひどいわ、嫌いになっちゃうんだから!)
ぴー、ぴー! ともはや人が出しているのか怪しい高音を発しつつシュナが柔らかい枕をばすばす叩いていると、部屋の扉が開いた。
「お嬢様、お目覚めに……あれ、どうかされました?」
入って来たのは見たことのある黒服白エプロンだ。部屋の主が暴れている様子を見て目を丸くするが、シュナが枕を両手で抱えて勢いよくぶんぶん頭を振ると、顔に苦笑を浮かべた。
「何かおかしな夢でも見ちゃいましたかねー。さ、今度はちゃんと朝ですから、お支度を整えに参りましたよ。起きて起きて!」
シュナが枕を抱えたまま唸るのをよそに、彼女は部屋の中に色々と物を運び込む。彼女の興味はすぐに見慣れない物の群れに移った。黒服白エプロンはなにやらからから音を立てる物を押したり引いたりしており、その上にどうやら支度に必要な物が揃っているらしい。
「さて、昨日はちょっとうっかり、名乗るタイミングを逃してしまったのですけれど。正式にお嬢様のお世話係に任命されたので、挨拶させていただきます。私はこのお城でメイドを務めさせていただいております、コレット=ケアリーと申します。どうぞコレットとお呼びくださ……あ、お言葉にはできないんでしたっけ。ま、お心の中で呼んでいただければそれで嬉しいですから。うふふ。そちらのベルを鳴らしていただきましたら、今後は大体私が真っ先に駆けつけるって感じになりますので。以後お見知りおきを」
よく喋る彼女の言葉を真面目に聞き取ろうとするのには結構集中力がいる。
コレット。お世話係。メイド……等々頭の中にしっかり相手の情報を収めようとしているシュナに、メイドはにこやかに話しかけてくる。
「もう私、嬉しくて嬉しくて。だってうちは旦那様に奥様に若様しかいませんから、若いご令嬢のお世話の機会なんて巡ってこなくてですね。あ、来賓の方はそりゃ女性もいらっしゃいますよ? でもほら、あの方々相手ですとやっぱり全然違うというか、緊張するし黙って難しい顔をしてないといけないですし、何よりちゃんと専用のお世話係がくっついて回ってますから。奥様だってねえ、『この年になってこんな機会に恵まれるとは……』なんて腕まくりしていらっしゃいましたから、楽しみにしててくださいね。あら、これはまだ言っちゃいけなかったかしら。内緒ですよ? うふふ」
……それにしてもよく喋る。この間に部屋のカーテンを開けたりテーブルの上に水差しを置いたりしてはいたのだが、何しろ舌が回る回る。
それから今、奥様が云々の下りについてはもうちょっと詳しく聞いておいた方がいいような、それともいっそのこと聞かなかったふりをした方が安全なような。
シュナが悩んでいる間に、コレットはコップに水を注ぎつつ問いかけてくる。
「まずはお飲み物をいかがです? ああ、それともお手洗い? お着替えを本格的に始める前に済ませておいた方がいいですよね。私、もう少し遅く来た方が良かったでしょうか。あ、そもそもお手洗いの場所、若様から説明を? 一応あちらの扉になりますけれど……」
(お手洗い……)
シュナはぎくっと心臓が跳ねたのを感じた。
渇き、空腹の感覚と、排泄の欲求。特に起きたばかりの時には発生しやすい人間の生理現象。意識してみると、それらは確かに今、彼女の中にも存在する。その意味とこれからどういう行動を取ればいいかということも、なんとなく頭の中に浮かんでいる。
そう、どうすればいいのかはわかっているのだ。知識では。
(ど、どうしよう……こういう場合、どうするのが正解なの……!?)
悲しいかな、彼女がそれらの実施、体験、経験について全く未知であることも問題だが、恥を忍んで無知を晒し助言を請うための言葉がない事の方がもっと大問題である。無知ですみません、知らないんです、教えてください、の最終手段が使えない。そもそもこれは人間として、特に幼子ならともかくシュナぐらいの身体の大きさになっていれば当然一人でできて当たり前であり、助力を請う方がおかしいのだ。なぜかそういう知識は頭にある。
だらだら、と冷や汗を垂らす彼女に、メイドは不思議そうな目を向けている。
シュナはまず、ぎこちなく水を受け取って飲み込んだ。これは前に紅茶で経験を積んでいるからさほど怖くない。
――だから今最大の問題はこの後の方だ。
ぎくしゃくとした足取りで、指差された扉の方に向かったまではこなしたが、扉を開けたまま呆然と立ち尽くしてしまう。
すると彼女を見守っていたメイドが、そっと声をかけてきた。
「あの、お嬢様。その、こういうことを言うのはもしかすると失礼かもしれないので、その場合は容赦なく怒っていただいて全然構わないのですが――何かお手伝いとか、した方がよさそうですか? 迷宮領は宝器を利用した独特の設備が多いですから、外から来た方だと、お水周りの構造が違っていたり、普段のご自分の生活の状態ややり方と異なったりとかで、最初は難しいという方もいらっしゃいますので。それから、あの……場所によっては、作法が違いますので。その、もしかして、あの、見慣れないのかな? と。軽く、設備の説明だけでも、した方がいいかなー、って……」
見慣れないどころか見たことがない、が正しいのだが。
シュナは立ち止まり、潤んだ目で振り返って重苦しく頷いた。
――そしてなんとか説明を理解し、一人でファーストミッションを完遂させることができたのだった。
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