迷宮 最深層――暗転

 確実に一撃が入った。

 その手応えを感じたデュランは、宙に体を投げ出される。

 少しの落下感の後、どさりと音がして受け止められる感触。


《お前やっぱ頭おかしーわ!》

《でもちゃんとうまくいっただろう?》

《うっせバーカバーカ!!》


 罵倒はたっぷりするが、迎えに来てくれと頼めばちゃんと応じてくれる辺り、混沌と異端の竜のはずだが結構律儀な性格をしていると思う。


 だが勝利の余韻に笑っていられたのはほんの少しのこと。

 よろめいたイシュリタス本体がため息のような音を漏らすのと同時、渦のごとく見える程であった群れが全て霧散し、視界が闇に閉ざされる。


 ただ、闇黒の間と違って今回は相棒の感触がある。


《……エゼ》

《だいじょーぶ。今ので打ち止め》


 応じる相手がいるとはなんと心強い事か。


 エゼレクスはどこかに降り立ち、翼を畳んだ。

 デュランが注意深く彼の背から見守っていると、闇の中にぱっと光が浮かんだ。

 点滅するそれは、ここに来いと招いているようにも見える。


「…………」

《行けよ。ほら》


 相棒に促され、デュランはゆっくりと降りた。

 足下は固くてつるつるした、石のような感触が伝わってくる。


 ゆっくり進んだデュランが光の側まで辿り着くと、突然ブウン、と何か震えるような、あるいは擦るような音がした。


 身構えたデュランだが、どうやら扉らしきものが開いただけらしい。

 数拍置いてから、足を踏み出す。


 見たこともない場所だった。

 滑らかな金属で床や壁、天井が覆われているようであり、中央にほのかに光を放つものがある。


 大きな円筒だった。

 上下は無機質な、壁などと同じ銀色の素材でできている。土台と蓋といったところだろうか、

 そこから伸びた太い管が広がる様は、木の根と枝を思わせた。


 側面はガラスで覆われていると思われる。表面が白くまばゆい光を放っており、中は見えない。


 デュランが近づいていくと、さっと霧が晴れるように側面の光が収まった。

 内部の様子は、筒内の上部に備え付けられているらしい照明で見えることができる。

 筒の中は黄金色の液体に満たされていた。おそらくは迷宮神水エリクシルだろう。

 時折こぽりこぽりと音を立て、泡が上っていく。


 液体の中には人らしきものが浮かんでいた。

 口元を中心に、筒の外と同じように細い管が何本も体につながっている。

 色の抜けた髪が広がり、肌はくすんで血の気というものが感じられなかった。


 だが異様なのはそれだけではない。

 円筒の中の女には腕の先と下半身がなかった。

 筒の中にはただふよふよと、目を閉じた裸体の女の上半身のみが漂っている。


「――――」


 デュランは目を見開き、わずかに後ずさった。

 その物音に反応したのだろうか、女がうっすら目を開く。

 見覚えのある銀色の目がデュランを映す。

 しかし以前ならば感じた覇気や威圧感を、今の彼女からは感じ取ることができない。


《ようこそ。勇者よ。全ての試練を乗り越えた貴方を祝福します》


 頭の中に直接声が響き渡った。


《わたしは迷宮統治機関イシュリタス。対価と引き換えに、願いを叶えます。さあ、勇者よ。貴方の望みは何ですか》


 およそ感情という物を感じさせない、淡々とした無機質な声だった。


 デュランはしばらく、声もなく筒の中の女を見つめている。


《どうしました。願いがあるから、ここに来たのではないのですか》

「――俺、は」


 その通りだ。彼女に世界を救ってもらおうと思ってここまで来た。

 そのはずなのに、予想もしなかった姿を見て、今どんな言葉も喉につっかかって出てこない。


 全知全能、人智を超えた神イシュリタス。

 一睨みで武装を解除し、何度も諦めさせられかけた。

 デュラン単独の力では、ここまではたどりつけなかっただろう。

 だが不思議の目の前の光景を偽物とは思わない。


 むしろこれこそが現実、女神イシュリタスの本物の本体だと直感で理解できるからこそ、願いを口にすることが憚れるのだ。


《――このような終わりかけの身に、何を望めるのかという顔ですね》

「……! 違う、そんなつもりでは――」

《正直な話をしましょう。実際問題、この迷宮はもう正常機能を果たしていません。貴方がわたしに何か叶えてほしいことがあろうとも、わたしは既にその力を持たないのです。地上に竜が現れたのがその証拠。世界もわたしも、ここで終わり》


 まるで事務的な手続きを読み上げるかのごとく、女はあくまで淡々と心に語りかけてくる。


 デュランは開きかけた口を閉じ、ぐっと奥歯を噛みしめ、俯いた。

 握りこぶしを作って震える彼を見守るイシュリタスの眼差しが、何らかの色を帯びる。


《――ですが。それはわたしの話。この先の未来に貴方が進む選択肢は存在します》


 口調が変わった。ほんのわずかにではあるが、優しく、なだめるような色が宿る。


 ぱっと顔を上げた青年をじっと見つめ、人造の神のなれはては静かに続けた。


《女神の交代――貴方がそれを望むなら、迷宮は、世界は生まれ変わることができるでしょう。そして無事に引き継がれた後、次の女神が貴方の望みを叶える》

「……それは。つまり」


 ごくり、と生唾を飲み込み、デュランは銀色の目をひたと見据えた。


「あなたの娘さんの全てを、俺が手に入れる――そういうこと、ですか」

《あるいはそのように表現することもできましょう》


 沈黙が落ちた。デュランは目をそらさず、けれど再び口を開くこともない。


《どうしました。何か迷う事でもあるのですか。元々貴方はあの子を望んでいたでしょう? ほしいとずっと願い続けていたのではありませんか》

「それは――はい。あの、ものすごくそうなんですが。はい」


 咄嗟に言い訳の一つや二つが頭に浮かんだが、全て見通すお義母さまに対して、今更取り繕っても無駄だろうという理性が無駄な抵抗を収めさせた。


 というかこの人は一体、自分とシュナのあれこれについて、どこまで知っているのだろうか。

 割と思い返すと土下座で済まない身の覚えがちらほらあるのだが、そこのところ文句の一つや二つないのだろうか。


《貴方と娘の関係については概ね把握しているつもりですが、わたしがそこに対して個人の意見を述べるつもりはありません。あの子が嫌がるのでしたら話は別ですが、貴方に対しては好意的です。何をされようと構わないでしょう。わたしがそうであったように》


 やっぱり目の前の奇妙な上半身は、女神イシュリタスその人で間違いない。


 だって今回はちゃんと口を閉じていた。

 ということはデュランの顔色なり心なり見透かして、勝手にお答えいただいたのだろう。


 いたたまれなさが加速すると共に、聞き捨てならない事まで耳にしてしまった。

 こういうときどんな顔をすれば、と百面相になっているデュランを前に、女神はふう、とため息を吐き出す。


《――それはともかく。地上の崩壊はこの瞬間も進んでいます。あなたが何も望まないなら、わたしはとっくに破綻した自己保存本能に従い、欠けたエネルギー源を求めて侵略し、そして緩やかに世界を飲み込んで自壊する。どうしました。勇者よ。なぜ黙り込んでいるのです》

「……貴方は、女神の交代を望めと言いました」

《そうです》

「それは――俺に貴方の死を望めと言っている、そういう意味じゃないですか」

《はい。それの一体何が問題なのでしょう?》


 心底不思議そうに、女は円筒の中で首を傾げた。


「そんな――そんな簡単に、気軽に言える訳ないじゃないですか! 好きな人のお母さんに、自分の都合で死んでくださいなんて!」


 女はぱちくりと銀色の目を瞬かせた。完全に虚をつかれた顔だ。

 一方デュランは大真面目である。


《……千年見てきたはずですが、未だにあなた方は度しがたい》


 こぽ、と気泡が口から漏れる。


《ですが、残念ながら他に道はありません。わたしは放っておけば世界を巻き込んで壊れます。これを阻止するには、女神の座を次代に継ぎ、次の女神の力を以て世界を再定義するしかない。貴方は娘を得るために、そして世界を救うためにここに来た。ならば旧神は終わらせるべきです》

「だけど……でも、」

未来さきにわたしも連れて行きたいと望むなら。それは不可能なのです、若人よ。そして悩む時間もさほどは残っていません》


 デュランは唇を噛みしめた。歯を食い込ませすぎたせいだろうか、鉄の味が広がる。


 考えた。時間のない中で、必死に頭を動かす。探ろうとする。何一つ失わずに済む道を。


 ふっ、と液体の中で女神が微笑んだ。


《まこと、最深層に至るにふさわしい欲深さだこと。それとも人は、それを優しさとも呼ぶのでしたか。ともあれ、わたしは満足しています。百年待った甲斐があった。貴方ならば、あの子の意に染まぬ願いは口にしないでしょう》


 デュランは金色の目を女神に向けた。

 苦悶にゆがむ顔には、口から一筋赤が伸びる。

 けれど彼は目を揺らしながら、それでも選ばぬまま終わる者にはならない。


 一歩、二歩。円筒の側面に手を当て、その冷たさに体を震わせる。


「女神イシュリタス。ここまで、貴方の前までやってきた。だから俺の願いを、叶えてください――」


 どの母親よりも慈愛のこもった笑みを、女神は浮かべた。


 ――けれどその顔が、さっと変わって。


《アグアリクス、守れ!》


 とどろくような声と共に、漆黒の体が飛び出す。

 彼女に最も忠実な竜がデュランを庇った直後、水槽が粉々に砕け、女神の体が弾け飛ぶ。


 びくびくと床にのたうつ女神の残骸を、どこからともなく現れた男が踏みつけ、見下ろす。


「贔屓はよくないと思いまーす」


 いつも通りの軽薄さと残忍さを滲ませ、亜人はにこりと微笑んだ。


「――だからね。いつも通り、力尽くで奪ってやるよ」


 そして男は手を突き出し、誰が止める間もなく女の胸を抉り取った。

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