神官 法王に会う 後編

『臆することはありません。善い報せではないのですね。顔を見ればわかります』


 枢機卿が膝を突いたまま、何を話すべきか考え込んでいる様子を読み取ったのだろうか。法王は穏やかに声をかける。ぴくりと反応したカルディの動きにくい表情に出てきたのは、間違いなく恐縮の感情というものだった。


「は。わたくしの力が至らぬばかりに……申し訳もござりませぬ」

『そんなことはない。レフォリア=カルディはいつも期待以上に働いてくれています。苦労をかけますね』

「もったいなきお言葉」


 魔法陣の中に浮かび上がる法王は、最初立っていたが、すぐに椅子に腰掛けた。星の美しい夜を好む彼のこと、本当なら窓を開け、窓枠にもたれかかって空を見ていたいところなのだろうが、安全上の理由から他の神官達はその行いにいい顔をしない。ましてユディスが人目を忍んで連絡をしてきたのだ、壁にすら耳がある可能性があるものを、更に危険を増やすことはない――そういった配慮なのだろう。浮世離れしていて、俗世に疎いところも多い男だが、気遣いは人一倍ある。


「……報告させていただきます、猊下メジェ。本日、乙女を神殿にお迎えする機会に恵まれました」

『なるほど……以前話していた件ですね。結論は出ましたか? こちらにお迎えすることは……できなかったのですね』


 法王ヒエロの口調はあくまで優しく穏やかだ。レフォリア=カルディは未だきっちり彼に頭を下げたまま、淡々と答える。


「はい。……けして我々に敵意を抱いていた、ということはないのですが。彼女の心は既にここにあらず、一人の青年で埋まりきっているようでした。もはや我々の言葉は届かない。また、正体については……直接何か見た、というわけではないのですが。やはり目に映る性質が、外の人間らしからぬかと」

『貴方が言うのなら、きっとそうなのでしょう。迷宮の至宝――ああ、わたしの代に、ついに姿を現したのですね。そして貴方の見立てが正しいのなら、既にもう所有者も決まっている――』


 男はユディスの方から視線を上げ、どこか遠くに思いをはせるように空を見つめる。


『でもなんだろう、いまいち現実感がないな。現場そちらに行けていないせいかもしれないけれど』

「これだけは我ら枢機卿一同一致している意見でございますが、法王猊下ヒエロ=メジェが直接いらっしゃるような場所ではございません。迷宮の封印は我々の悲願なれば、御身に星神アルストラファルタのご加護が存在する何よりの証かと」


 ユディスが心を込めて言う言葉に、男は苦笑したようだった。

 目尻と眉を下げ、歯を見せずにどこか困ったような笑みを作る。

 既視感のような物を覚えて、ああそうか、とカルディは一つの事に納得する。


(最初に彼女を見て、奇妙な親近感を覚えたのは……この方に笑い方が似ているから、でしたか)


『若君の方はどうです。お元気そうですか?』


 曖昧な笑顔のまま、少し考え込んでいた法王が新たな問いを向けてくる。彼が若君、と呼ぶのは次代侯爵、つまりはデュラン=ドルシア=エド=ファフニルカという青年のことを示している。

 法王は基本的に神聖ラグマ法国の国内、更に言えばその首都である星都から動かない。まして悪逆の都とすら呼ばれる迷宮領になど、近づくだけで民が大騒ぎになる。だから次代侯爵と当代法王に直接の面識はないのだが、彼は前途ある若者に好印象を抱き、気にかける傾向が強い。

 ユディスもそうして気に止めてもらった結果、この位置にいる身だ。ちらりと笑顔でありつつも物憂げな色を孕んだ男の顔色をうかがってから、ユディスは唇をうっすらと開く。


「はい。相も変わらず暇があれば迷宮に潜っていますよ。念願の逆鱗とは、なかなか満足に過ごせていないようですが」

『しかし何度聞いても妙な話です、カルディ。彼の持つ宝器は、確か竜を寄せ付けない呪いを授けられていたとか。模造品なのだとしても神は神、ならば誓約は絶対、故に人外と称される……そんなに簡単に覆せる約束ではないのですけれど……ね』

「はい。わたくしも気にかかる所がありますので、機会があれば件の変わり者を見させていただきたいのですが……どうにも本人の独占が強いらしいのに加え、臣自身にも何やら警戒心のようなものを抱かせてしまっているらしく」

『ああ、それは仕方ない。迷宮領の当主の血筋に僧と尼僧は代々合わなかったでしょう。当代のご当主様だって、どうも余のことをお嫌いであるらしいですし。……余、何かしてしまったのかな。あまり心当たりがないのが困ったところなのだけれど、どうも世俗事には疎くて……』

「猊下。恐れながら申し上げさせていただきますが、あれは八割私怨です。故に猊下がお心を痛めるようなことではございません」

『そうですか?』

「そうです」

『……残りの二割は?』

「御身は至高なれば、些事にこだわらずともよろしいのです。お戯れはほどほどになさいませ、我が主」

『ああ、怒られてしまった。でもカルディと話しているとつい楽しくて、時も忘れてしまう』


 顎に手を当てて考え込み、顔に浮かべる憂う色が一際強くなったかに見えた法王だったが、カルディが仏頂面でぴしりぱしりと返しているうちに、また顔に柔らかさが戻ってきた。こほん、とユディスは深刻な空気を取り戻そうとでも言うように重々しく咳払いする。


「……ともかく。若君は、彼女の事を……薄々何か勘づいてはいるのでしょうが、今のところは事情を持った人間程度としか認識していないように思われます」

『状況はけしていいとは言えないけれど、打つ手が全くないわけではない……と、いうことでしょうか』

「は」


 枢機卿が短く応じた後、法王が黙り込むとしんと静まり返る。風一つない夜の静寂は耳に痛い。ふう、と男の吐き出したため息がことさら大きく響き渡ったように聞こえる。


『カルディ。わたしはね。本当ならこの世全て救いたい。抱えて抱きしめてあげたい。この手はあまりに小さくて、取りこぼしてばかりだけど』

「はい、猊下」

『兵器は。兵器自体に、罪はありません。罪はいつも、行う人間にあるのです。我ら皆辺獄の信徒なれば――』

「――過ちは繰り返されるべきではない。臣も同じ思いです、猊下」


 そこで一度言葉を切って、そっと枢機卿は目を伏せる。


「短期間でもすぐにわかりました。ただの人間ならば、優しく、素直で、争い事を好まない無害な子です。だからこそ、人ならざる身になる前に、こちらに来ていただかなければならない――強く、そう感じました。我らが一族の大罪は、二度目があってはならないのです」


 法王は喋らないが、その目は彼女に続きを促しているようだった。一呼吸置き、枢機卿は闇の中で決意の灯った目を煌めかせる。


「なるべく、穏便に事を運びたかったのですが。場合によっては――いえ、確実に。ご迷惑をおかけすることになるでしょう」

『……今夜はそれを伝えに来たのですね、カルディ』

「猊下。どうか臣に何かありましても、お構いなきよう」

『いざというときは自分に全てなすりつけて切り捨てろ……そういうことなのですね』


 ユディスは無言で頭を下げた。それが返答だった。緩やかに首を振った後、法王は椅子から立ち上がり、どこかに歩いて行く。おそらくはそこに窓があるのだろう。ユディスに背を向けたまま、彼はよく通る声を静かに上げた。


『ええ、約束しましょう。余は民の光でなければならない。それに十二年前、貴方の決意を教えられた日に伝えているとおりです。

「ありがたき幸せ」

『けれど一つだけ。他の誰が貴方を誤解しようと、余は貴方を信じています、レフォリエルの子よ』

「――身に余る光栄にございます、猊下」


 くるりと振り返った法王は、深々と平伏したカルディが頭を上げるまで待ってから、また困ったような笑みを浮かべる。


『ねえ、カルディ。もし貴方が真に罪の子なのだとしても……とっくにその手にこびりついた血とやらは、雪がれているのではないかな』

「いいえ。いいえ猊下。未だ楽園は遠うございます」


 頑なな態度の枢機卿に、男は悲しそうに瞳を揺らしたが、開かれた口から言葉が紡がれることはなく、結局瞼も下ろされる。


「……そろそろ、明日のご政務に差し障るの出る時間です。お休みなさいませ、我が主。貴方に限りなき星の恩寵のあらんことを」


 言うべきことは全て話した、という風情のユディスが少し時間が経ってから言うと、法王はまたゆるゆると首を振り、ユディスの前までやってきて膝を折った。

 大きく目を見開いた枢機卿と同じ目の高さまで腰を下ろし、人差し指と中指を搦めて彼は言う。


『星の光は万民に平等である。卿が満ち足りて主の御許に至らんことを』


 別れの挨拶が終わると、男の姿は魔法陣の光と共に消え去る。

 残された枢機卿は、虚を突かれたように光の消えた場所を瞬きもせず見つめていた。

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