惑う娘 転移を成功させる
結婚。
その単語がふと浮かんだのはこの瞬間だが、言葉にすることで一つ自分の中のわだかまりを小さくすることができたような気がした。
物語の中では、冒険の後、お姫様は素敵な王子様や騎士様と結ばれ、幸せに暮らしたと最後のページに綴られる。
デュランのことは嫌いではない。
少なくともキスが嫌だと思わないぐらい、彼に好意を持っている。
けれどあの夜、きっと途中で終わりになった事の続きにもし、進んだとしたら……どうなるのだろう。そもそもの前提として、果たして自分が望んだとしても進める道なのか?
シュナはようやく、その可能性に思い至っていた。
できるだけ一緒にいたいけれど。
――いつかきっと、別れなければいけない。
これまで漠然と感じていたことが、ようやく実感できる具体的な形となって迫ってきたようだった。
(竜のシュナなら、あの人の役に立てる。でも、迷宮の中でしか会えない。キスも結婚も……たぶん、できない)
(人のトゥラなら、役立たず。でも、外で会える。それにキスができる、いつでもしたいと思ったときに。……じゃあ、結婚は?)
そもそも結婚が何なのかだってちゃんとわかっているわけではない。
ただ、男女が想い合えば一緒に暮らすようになって、いずれ赤ちゃんが生まれる――それは父と母のこともあるし、きっと確かなことなのだろうと推測できる。
(……赤ちゃん)
想像してみる。
母が自分を産んだように、自分もデュランの子供を産む。そんな日が来るのだろうか。
そんなこと、これまでまったく発想もなかった。
ただただ、同じ空間にいられれば満足していた。していると思っていた。
でも何かが違う。足りない。もっともっと自分を見てほしい。他の誰でもなく、ただ自分だけを求めてほしい。あの希うような口づけが、ぽっかり身体に穴を開けている。それはきっと、彼にしか埋められない。奇妙な確信があった。
そしてこの危うく浮かれた熱は、逆鱗という身分が保証されているはずの竜のシュナだけでは、収めることができないようなのだ。
(――でも。それならわたくしは、トゥラになるの?)
思考がそこまでたどり着くと、急に冷水を頭から被せられたように血の気が引き、ほんのりと赤く染まっていた頬は真白く色褪せる。
そんなことをして、大丈夫?
そんなこと、できると思っている?
人として求め、求められること。
その欲望を実感すると、誰かが頭の片隅から、袖を引き、囁きかけている。
――忘れたわけではないでしょう?
甘やかな声で、シュナの思考は忠告する。
瞼を閉じれば、父の姿が思い浮かぶ。
腹部から多量の血を流し、瞼を薄く開けたまま絶命した、彼の姿が。
アグアリクスは今度こそ言葉を失ったらしい。
シュナもまたぼんやり思考の渦に飲まれていたのだが、我に返ってもまだ、彼は悩むように瞳だけを揺らし、口を閉ざしていた。
長い、長い沈黙の後……ようやく黒い竜は口を開けた。
《……それはおそらく、我や他竜が独断で答えて良い問いではあるまい。もっとふさわしい相手がいる。貴方の恋の悩みに答えられるのは、この世でたった一人だけだ》
誰のことを言っているのかシュナにもすぐわかったが、目をしょぼつかせた。
シュリ。イシュリタス。シュナの母親。迷宮の主にして、ファリオンの妻だった女性。
おそらくこの世の中で唯一、シュナと同じ境遇の人。
だが、繰り返し言われ続けている通り、そしてシュナも度々実感せざるを得なかったように、彼女はとても弱っている。心も、きっと身体も。
娘を迷宮の奥へ引きずり込もうと襲ってきたかと思えば、次の瞬間庇うように姿を現す。彼女の正気は泡沫のように儚く、シュナには未だ理解できない事の方が圧倒的に多い。
そこではたと、アグアリクスの漏らしたとある言葉に注意が向く。
《……恋?》
きょとんと目を見張り、首を傾げる。
《わたくし、恋をしているの?》
そのあまりにいとけない様子に、アグアリクスはうなり声を上げ、大きな翼を広げた。
《シュナ。貴方はいつまでも幼いままではない、日々変化している。経験を積んだことによって、機能が拡張――できることが以前より増えているはずだ。問いは、一度保留にさせてもらおう。今は転移の習得と権限の委譲を優先したい。どちらもいずれは必要、できて当たり前になる力なのだから》
一瞬だけ間を置いてから、シュナは大人しく了承の返事をした。
少し胸につっかえたような、もやがかかったような感覚はあるものの、ある程度こうなるのも仕方ないと予測していた所もあったのだろう。
できることを増やすのは良いことだし、迷宮に来たのはドツボに嵌まった思考の迷路から抜け出してリフレッシュするためでもあるのだ。
身体を動かすのは気分転換にちょうど良いだろう。
それにアグアリクスが喋るのを聞いていると、とりあえず従ってこようという気分になってくるのだ。
彼がどことなく父と面影が似ているからだろうか、それとも竜の統括としての能力だったりするのだろうか。
大木の枝から飛び立った黒竜の背を追って飛び立つと、静かな声で説明される。
《貴方が今回外で大変な目に遭った要因の一つは、こちらから外に出る経路に限りがあったがゆえ。だが、外のどこからでもこちらに戻ってこられるように、こちらから外に道を開くことも本来の貴方ならできるはずなのだ。未知の場所はさすがに難しかろうが……何度か訪れた場所に飛ぶような事は、もう可能になっているはず》
アグアリクスの先導と共に流れてくる言葉を聞いていると、まるで呪文をかけられているかのような気がしてきた。
前にエゼレクスと訓練をしたときは、高速移動はできたものの、時空を越えるような移動はついに再現することができなかった。説明をされてなんとなくわかった気にはなっても、いまいちピンと来なかった。
しかし今は、どこか違う。
できる、と言われると、そうかも、と思う。
カチリと頭の中で歯車が噛み合ったような、それがゆっくりと動き出したような――。
《
アグアリクスの低い声が促す。
吹く風を感じるような、爽快と言い切るにはもう少し穏やかな感覚。
とろりと身体の輪郭が溶け、視界が歪んだ。不思議と気持ちは落ち着いている。少し服を脱ぐ感覚に似ていた。
潜れと誘われた通り、きっとこれは泳ぐのに近い。
空間の狭間に沈み込んで、進んでいく。
ちかちか明滅する光の中、見据える先、影がぼんやりと見える方、声の呼ぶ方――あそこへ行く、と決めた場所まで。
ぱっと周りが明るくなるのと同時、すとん、と落ちるように身体の感覚が戻ってきた。
慌てて足踏みすると、しっかりとした地面の感触がある。
しぱしぱと瞬きを繰り返しているうちに、だんだんと風景が目に入ってくる。耳に触れるのが滝音だと気がついて、はっと顔を上げる。
巨木の群れがぽつんぽつんと連なる場所から、岩肌の目立つ殺風景な場所に降り立っていた。
すっかり慣れ親しんだ場所だから、イメージがしやすかったのかもしれない。
アグアリクスの姿を見つけると、シュナは喜びの声を上げた。
《できたわ、アグアリクス――転移の感覚、わかった気がする!》
誘導上手の指導教官は、自らも満足そうにぶふっと大きく鼻息を鳴らし、駆け寄ってきたシュナの鼻先にちょんと自らの顔をつけて労った。
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