恋乙女 ダンスの特訓をする
シシリアによる舞踏会に向けた猛特訓の内容は、これまでのものより大きく実技に内容が寄っていた。
トゥラはお世辞にも運動上手とは言えない。何せ十八年間の行動範囲はほとんどが一部屋の中を歩き回るのみ。
竜のシュナは迷宮のあちこちを飛ぶ(ことを半ば強いられている)機会もあったが、人間の娘としてのシュナは町を歩き回ったのがこれまで一番の運動だ。
その時も途中足を痛めて休憩している。筋肉がほとんどついていない細い手足や、白を通り越して若干青く見える肌からも、明らかに運動向きという体をしていない。
だからこそ、だろうか。以前までの講義は座学がメイン、多少歩き回ることはあっても、息切れなどが見えたらすぐに休憩が入り、けして無理をさせられることはなかった。
おそらくまずは長所を探しながら見つけ次第伸ばしていく、そんな教育方針だったのだろう。たくさん本が読めたので、シュナにとっても楽しい時間だった。
ところが状況は変わった。約一週間後に舞踏会、しかも衆人環視の中、よりによってその中央で踊らなければならないという重大ミッションが生えた。
贅沢は言っていられない。何が何でも、このほわわんとした運動音痴娘を、少なくとも最低限一応見られるレディ見習いにまで引っ張り上げてこないといけない。
「本来詰め込み教育というのは非常によろしくないことなのですが」
と、いかにも不本意を隠さず言っていた侯爵夫人シシリアはしかし、同時にできませんをやってみせますに変え(させ)るカリスマ家庭教師だった。
来る日も来る日もシュナは筋肉を育て音を聞き体を動かし走り回る、そんな風に一日を駆け抜けていた。
朝もぼーっとしながらコレットに世話を焼かれているが、夜は特に記憶が全くない。
おそらく毎日晩餐を食べてお風呂に入って布団に潜り込んでいるのだが、その辺の詳細が全部頭から飛んでいる。
何なら昼間の途中から既にぼーっとしているのだが、一番眠たい昼過ぎなんか特に、トゥラの意識が朦朧としてきた頃を見計らって夫人、あるいは夫人代理のレッスン担当が檄を飛ばすのだ。
「特に運動とは本来このように短期決戦で毎日詰め込むのは悪手なのですが、ええ。今回だけは特別です。間に合わせないといけませんから、ねっ!」
ピシン! パシン! という音、もう聞きすぎて現実なんだか幻聴なんだかわからなくなってきている。
ふと我に返ったとき、シシリアの両手には結構派手に包帯が巻かれていた。今は何を考えてもダメージを受けそうなのでシュナはそこから何かの意味を読み取ることを放棄し、深く考えないことにした。
ちなみにシュナが今回取り組むダンスとやらは初心者でも比較的とっつきやすい内容らしく、確かに足のステップの踏み方の基本さえ理解すれば、振りとやらを覚えるの自体は簡単だった。
では何が一番の敵か。
反復練習である。
完成形というのは既に確立されている。だから後はいかに生身の人間をそこに合わせて行くか――というのが、ダンスという芸術と運動の融合分野の目指すところらしい。
では具体的に何をするのかと言えば、繰り返しになるが反復練習である。正しい型を、筋肉の使い方を徹底的に体に覚え込ませる。
――の、だそうだ。素人であるシュナに詳細はわからないが、実行の困難については既にもう実感し尽くしていた。
最初は姿勢の矯正から始まった。
これはまだ、微妙な差異を直されはしたが楽な範疇だったのだ。
どうもシュナの日頃の姿勢はとても良いものらしく、長時間立って疲労が溜まってきたせいで崩れてきた……という段階にならなければ、ちょっと意識しているぐらいで充分シシリアとしても満足する態勢を取ることができている。らしい。
問題は動いてからだ。ステップ、ステップ、たまにターン。これが、この練習が気が遠くなる。
ステップは相手の足を踏みかけるし、ターンは体と一緒に目が回って戻ってこられない。
しかも恐ろしいことに、ダンスというのは曲が続く間ずーっと、決められた動きを繰り返さねばならないのだ。
最初の頃、張り切って集中しているうちはまだいい。二三回ターンが入って目が回ってきた辺りからが辛い。しかも本番は一曲で済むが、練習はこれが一日中続く。
生き物というのは単調な刺激に弱い。退屈に繰り返されつつも少しずつ移り変わる日々を過ごすのが標準ならば、全く同じ事を何度も何度も集中力を持って続けるのは土台無理な話なのである。
それなのに、まるで時を何度も巻き戻したかのように同じ事が続く。
「ではもう一度」
「はい、もう一度」
「――もう一度っ!」
休憩時間、シュナは座ることができなかった。一度でも腰を下ろしたら、そこでもう心が折れそうな気がしたからだ。膝はとっくの昔に笑っているのだが、
「体が動くなら問題ありません。さ、続きを」
と言われてしまったら、「無理です横暴です」とは返せないのが、彼女の性格であった。加えてシシリアに何か反論できるような空気でもなかった。
人間疲労困憊になると昔の記憶が瞼の裏を駆けていったりもする。
昔、塔の物知らずだった頃、物語に憧れて父に相手をねだったことがあった。
上手にリードしてもらって、綺麗だの可愛いだのたくさん褒めてもらえて満足した。
けれど現実はどうだ。というかシュナが全く知らなかっただけで、物語の姫君ご令嬢達も皆この激動の波を越えた上であのように優雅な振る舞いをしていたというのだろうか。
(貴族って意外とハードなのでは……!?)
それともたまたま日程が詰まっているがための非常事態なだけなのか、ファフニルカ侯爵一家が格別変わっているのか。
どうとでも解釈できるが一つだけはっきりしているのは「お稽古とっても辛い」、ただその事実なのである。
――耳に入ってきた音で、はっとシュナは目を覚まし、慌てて首を振った。
さて今日は何日目だったろう。全く頭が働かないが、どうせまた後でコレットがお風呂の時にでも色々かしましく教えてくれるだろうか。
彼女が溜まった疲れをほぐしてくれたり、軟膏を塗ってくれるおかげでなんとかこのハード展開にもついていけているのだと思う。
メイドへの感謝の気持ちを頭に浮かべつつ、ここ数日は全く食べるのが苦でなくなった肉をせっせと体に収めているシュナの前では、今日は三人揃っているファフニルカ侯爵一家が和やかな(?)団らんを繰り広げているようだ。
「母さん、無理させてもきっと疲れちゃうよ。量より質で……」
「お黙り。外法とわかっていても取るしかない、そういう場合もあります。やらせればなんでもできるお前にはわからない苦労です。甘い声で誘惑しない」
「してないよ!?」
両親と話しているとデュランは日頃より高いトーンで早口になる機会が増える傾向にあるが、今日は特にそれが強い気がする。
そんなことをなんとなく思ったりもしつつ、シュナは喧噪を聞き流している。
「まあどっちにしろ今回お前の出番はないっつってんだから、そう未練たらしくかじりつくのはやめるのだ、息子よ」
なんとなく、舞踏会の話題であることはわかる。
本番、シュナと一曲踊ってくれる相手は侯爵閣下その人なんだそうな。
なんでも、デビューしたばかりの娘が初めてのダンス、一曲目を踊る相手は、基本的に身内を選ぶのが定石らしい。
無難だと、家族か親戚。要するに、令嬢本人のお披露目と同時に、会場に連れてきた保護者――つまりは「君たちが娘さんとお付き合いさせてくださいとアプローチをかけるべきはこの私なのだよ」というアピールにもなっているらしい。
ちょっと攻めるなら、親しい関係にあるお偉いさん。この場合は、保護者云々要素より「こんなすごい人に娘を任せられるぐらい家もすごい所なのだよ」の意になる。
そしてそう件数は多くないが、既に決まっている婚約者同士、というパターン。この場合のみ、披露の場は「もう相手決まってるんで余計なちょっかいかけないでください。お話ぐらいならいいですけれども」を意味するようになるらしい。
――で。
色々と総合してまとめて、シュナの――トゥラの紹介は、一番の責任者が務めることになった。どうもそういうことなのだろう。
何にせよ。シュナにはどうせ決定権がないし、逆に誰がいいなんて聞かれても困るので大人しくお任せしている。
今日は実際にダナンと踊る練習もしてみた。前半は問題なかったのだが、後半疲れてくると、案の定たくさん足を踏んでしまった。ダナンはニコニコしていたが、本当に申し訳ない。
踏まないだの目を回さないだのを意識すると型が乱れるし、どうもまだ難しい。
「儂なら大丈夫。マゾだから」
と現当主は爽やかさすら感じる笑みを浮かべてウインクしていたが、やはりこちらの気持ちの問題としてできるだけ踏みたくないではないか。下手をすればお互いの怪我につながるのだし。
あと、マゾってなんだろう。疲れていたのと、なんとなく知らなくていい単語な気がしたので、さっさと忘れることにした。たぶん貴族ユーモアあふれるフォローなのだ。そう平和に思っておこう。
シュナが己の未熟な腕を恥じ、「明日はせめて、少しでも閣下の負傷を減らそう……」と弱々しく決意している一方、次代侯爵閣下の方はこのダンスパートナーの人選に不満があるらしかった。
「だっておかしいでしょ? 親父より俺の方が絶対にうまいはずですけど。足だって踏ませないし、何ならド素人でもそれなりの形に持って行く自信ありますけれども」
早口で話しながらも手際よく肉や野菜を切り分けて、話の合間に口に放り込む。器用だ。しかも下品には見えないのだから不思議だ。
そして今日も彼は夫妻の数倍皿に盛られているのに、誰よりも早く食卓を綺麗にしていく。
「それは……それはね? そりゃ、大抵のことはお前の方がよくできますけどね? でもね? あのね? そ……そういう問題じゃなくてね?」
「じゃあどういう問題。なんでわざと俺を外すわけ? 身内でしょ? だったら年の近い兄を出す方が自然じゃない? なんで父親をわざわざそこに当てるの。ちょっと意味がわからない――」
「……だー! もう! やだコイツまともに相手するのがめんどくさい、母さん助けて!」
普段なら息子に絡まれると応じ続ける父なのだが、今日は珍しく途中で妻に泣きついていた。
(……でもわたくしは、デュランじゃなくて良かったかも。ダンスの距離だと、近すぎるもの)
確かに彼は見るからに踊りも上手そうで、さぞ巧みにリードしてくれるのだろう。けれど今のおかしな心理状況で密着し、さらにまたなんだか思わせぶりなことをされたら、恥ずかしさのあまり自分がどんな奇行に出てしまうかわかったものではない。それならまだ、侯爵閣下の足を踏んでいた方が被害は少ない。……かもしれない。
そんなことをぼんやりこっそり喧噪の中で思う娘だったが、言い争いはまだもう少し続くようなのだった。
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