お悩み竜 ゆめうつつ
寝返りを打とうとして目が覚めた。頭の感触と熱が消えて、彼女はむにゃむにゃと声を上げる。
「おとうさま?」
うとうとしたまま聞いてみると、離れかけた大きな手が戻ってきてそっと頭を撫でた。
そのまま寝入ってしまいそうになるのを堪え、彼女は半ば寝言を絞り出した。
「お出かけ?」
「……ああ」
「こんな時間に?」
父の声は囁くように静かで、ともすれば聞き逃してしまいそうだ。
塔の窓から差し込む光はない。眠気から言っても、真夜中という時間帯なのだろう。
「なるべく早く帰ってくるからね」
「…………」
宥めるような父の声が聞こえると、彼女はすっぽりと掛け布団を頭の上まで引き上げた。
それは幼い娘を愛おしそうに、あるいは確かにここにいることを確かめようと触れていた父の手を拒む行為でもある。
「シュナ――」
「うそはきらい」
苦笑していた彼の穏やかな呼吸が、一瞬止まった気配がした。
くぐもった声のまま、幼い彼女は主張する。
「まえも早くって言ったわ。でも、なんにちも、なんにちも、わたくしはずうっと一人だったわ。うそつきはきらい。まもれないやくそくなんて、きらい……」
──ああ、そうか。
確かこれは、それなりに分別のついてきた年になった彼女の、最後の強い抗議ではなかったか。
シュナは知っていた。こんな夜に父が出て行こうとするのも、日に日に帰る時間が遅く長くなっていく父の出立に、娘がぐずる気配を見せるからだろうと。
己を隠し、守る布の殻越しに、ファリオンが困っている気配が伝わってくる。
彼はしばらく身動ぎ一つしなかったが、長い思案の時間の後、ぽん、と彼女の頭に手を当てた。
布越しにぽん、ぽん、と何度か手を置いて、はっきりと言葉を出した。
「必ず戻ってくるよ。どんなに遅れても──誕生日には、必ず。絶対に」
温かい、大きな掌だった。
穏やかで、優しい声だった。
シュナは信じた。
だからその後はもう二度と彼を困らせることは言わなかった。
父は約束を守った。
――命を賭けてでも。
人はなぜ嘘を吐くのか。
それは嘘が時に人を救うこともあるからだろう。
寂しさを押し殺して、聞き分けよく笑っていればよかったのだろうか。
それとも中途半端な配慮や思いやりを捨てて、もっと一緒にいて、と、偽りなくきちんと全て口にするべきだったのか。
今となってはわからない。
ただ、過ぎたときは二度と戻らず、過去確かにそこにあった温もりの残滓だけが、いつまでも胸の中に残り続けている。
消し損なった蝋燭の火のように、今もぶすぶすと音を立ててくすぶり続けているのだ。
***
身体が何かに当たる感触で目が覚めた。
《……お父様?》
まだ頭のはっきりしない彼女がまごまごと呟くと、ぶふっ、と荒い鼻息を上げた誰かが顔を寄せてくる。
《シュリならもう行ったよ。ここ最近のあいつにしちゃ随分と落ち着いてた》
聞き覚えのある竜の声だ。ぼんやりと緑色が視界に映り込んだ気がした。
《ずっと君と添い寝したがってたからね。君が小さい頃は潰れるからダメって言われてピイピイ泣いてたから。本懐が果たせて嬉しかったんだろうさ。親孝行者だね、シュナは》
宥めるように言い聞かされて、ああ、とシュナはぼんやり思う。
――そうだ。確か母と会って、話をして。
聞いてみたいと思ったことを話してみて……その後彼女がふいっとどこかに行こうとして。
慌ててついて行ったら、どうも彼女の私室らしいところまで来てしまった。
途中で止まるか随分と迷ったのだが、結局誰もやめろとは言わなかったので、そのまま彼女は後を追い続ける。
アグアリクスもちらっと顔色を窺った時特に警告の素振りは見せなかったが、あまりシュリの後を深く追おうとする素振りは見せなかった。
代わりにあの新しく生まれた白い竜が、一定の距離を保ったままのんびりと後を追いかけてきているらしい。
淡い光に照らされた洞窟の中をきょろきょろ見回していると、ぽつんと置いてあるものに目がとまった。
揺らすための足がついている小さな籠――実物は今初めて見たが、何なのかはすぐわかる。
揺り籠だ。
横を通り過ぎるとき、ふと足を止めた母が言った。
《確かにここにいたのに。もう入らないわね》
むしろ入れと言われたら困るし、昔入っていたことがあると言われる方が驚きなのだが。
どう答えよう、と考えている間に、母は更に奥に向かってしまった。後を追いかけたシュナもまた、立ち止まってまじまじのぞき込んでしまう。
竜の姿でいると特に小さく思えた。中には柔らかな布が敷き詰められ、今でもすぐに寝かせられそうだ。
《お父様が作ったのよ。器用よね。あの人、本当に色々なことができたわ》
母の声が聞こえ、慌てて顔を上げると、うっすら降りているレースのカーテンのような何か布っぽい幕を頭に被ったまま、母はシュナを見ていた。
導かれるまま入っていくと、そこはどうやら彼女の寝床だった。
竜達がこしらえたシュナの寝床同様、部屋の中に布が敷き詰められているが、色は白で統一されている。
薄暗いから気にならないが、明るいところで見たらちょっと目が痛くなるかも、なんてことをぼんやりシュナは思った。
母はベッド――と呼んでいいのだろうか――布の群れの真ん中で腰を下ろすと、きゅーんと鳴いてシュナを呼ばわった。
いそいそと、おっかなびっくり隣に位置取ると、彼女は翼を一度広げ、シュナを覆ってから目を閉じる。
《おやすみ、シュナ》
ぴっとりくっついた母の温もりを感じたまま、とろんと瞼を閉じてシュナも返した。
《おやすみなさい、お母様》
(ああ……ようやく思い出してきた)
つまり今、自分はかなり寝ぼけているが、たぶんここは母の寝所で、先ほど見た母ではない何か別の影は夢だったのだろう。もう大分曖昧になってしまったが……大切な記憶だった気がする。
それにしてもまだ眠い。
どうやらいなくなった母の代わりにやってきたらしいエゼレクスを寝ぼけ眼で見つめたまま、シュナは聞いた。
《次はいつ会えるの?》
《いつかはね》
《また一緒にこうして下さる?》
竜は答えなかった。
代わりにシュリがしていたのと同じように、大きな翼でシュナを包む。
ずっしりとした体重が伝わってきて、思わずきゅうー、と喉を鳴らしたシュナはぼやく。
《……おもくてあつい……》
《おい》
《お母様の方が軽くて柔らかかった……》
《うん君地味に注文多いのは寝ぼけてるせいなの?》
《エゼレクス……やだ……》
《うっさいなボクは器用で割と何でもできるけど基本的には攻撃特化デザインなんだよ!》
ぎゃーぴー騒いだ緑色の竜だったが、シュナが横たわったままなのを見ると無理に起こそうと言う気はないらしかった。
渋々体重を乗せるのはやめて、けれど身体はくっつけたままシュナの横に陣取っている。
それにしても眠くて仕方ない。
あまり意識していなかったが、疲れが溜まっているのか。
それともここが本能的に、安全な場所だと思っているのか。
いっそ奇妙なほどの眠気の中にもう一度落ちていく前に、シュナはうにゃうにゃもごもご何か言おうとする。
《ここにいてくれる?》
《うん》
《ずっと?》
《もちろん》
母と違う気配。
自分を安堵させる存在にふっと顔をほころばせ、眠り姫はぽつっと最後に結んだ。
《そばにいてね、デュラン……》
夢うつつの状態の人間(竜もだろうか)というのは酷く素直なものである。
そのまますっかり満足そうな顔ですぴすぴ幸せな寝息を立て始めた彼女の横で、緑色の竜が震えている。ビキビキと鳴っているのは鱗の下の血管――に、類する器官――だろう。
《……やっぱりボク、あいつのこと確実に始末するわ》
世話係は物騒に殺意を募らせたが、甘えるように身体をすり寄せたままシュナの身体がゆるやかに呼吸で上下しているのを見ると、大きな大きなため息を一つ吐き出すのだった。
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