災厄再開
制止の声を振り切り、忘却の呪縛を破り、娘は禁断の言葉を紡いだ。
刹那、ぶつり、と何か大きな塊が引きちぎられるような音を耳の奥から聞く。
彼女は天を振り仰ぐようにのけぞった。見開かれた真っ黒な両目の間を、たらりと赤い線が伝う。それはひび割れるガラスのようにふたまたに分かたれたかと思えば、まもなく真っ赤な花を咲かせた。
ユディス=レフォリア=カルディの用いた記憶をなくす呪術は、思い出せなくする呪い、と表すのが正しい。
記憶する、というシステムは物の整理に似ている。
人は何か覚えたい、と思ったことを、箱にしまいこむ。そして無意識のうちに――たとえば寝ている間に、そのまま持っておくべき物、不必要な物とに分別している。
だからある出来事について覚えていない、という場合、箱に思い出を入れなかったか、入れた思い出をしまいこんでしまって取り出せなくなったか、というような状況になる。
ユディスのかけた呪いは、記憶の箱の鍵束を、全部壊してしまうような行為に近い。箱が開けられなくなってしまえば、たとえ頭の中に残っていようとも、積み重ねてきた記憶や経験を、けしてそこから取り出すことはできない。
人格を奪う方法も同様の手法に基づく。
人間は、元の素質という素材に、経験という加工を重ねて変容し、積み上げられていく。
記憶を封じてしまえば、まず経験部分がなくなる。
加えて、元々の自分――塔の姫君、女神イシュリタスの権能を受け継ぐ竜、あるいは地上にまろびでた名もなき迷い人――それらの記録にアクセスできないようにしてしまえば、残るはただまっさらなお人形だ。
痛覚や感覚までを奪ったわけではない。
痛みも苦しみも、暑さ寒さも感じている。
ただ、感受性はない。刺激に対して、感情を抱き、反応する。そういう部分もまた、今の娘からは抜き取られている。
――だが、もし。仮に万が一、何かの間違いで、呪われた人間が外部の刺激に対して何か思う心を取り戻し、連鎖して記憶をたぐり寄せるようなことが――閉ざされていた箱を、再び開けてしまうようなことがあるならば。
その時こそ、この呪の最も醜悪なる側面が顕現する。
これは傲慢な救済だ。漂白は贖罪を意味する。すなわち過去を断罪し、その一切を捨てさせることで第二の人生を受容する。
であれば、回帰への指向は看過しがたい蛮行に値する。
お前は死んで、新たに生まれた。そのはずだ。なのにまだ生前に固執しようというのならば、望み通りふさわしい場所まで送ってやろう。
死を。罪深き存在に、罰を。
在り方を、有り様を、すべてを否定する。
お前はこの世にあってはいけない。ありえてはいけないのだ、と。
頭を潰されるとはどんな感覚がするのだろう。音を聞く内側から悪意が芽吹くと、どんな色が見えるのだろう。筆舌に尽くしがたい苦痛であろうことは想像にたやすい。
娘の頭が吹き飛んだ。
視界を失い、聴力を失い、語りかける口すらも今はない。
ただ、頭部を失った体はそれでもふらふらと手をさまよわせ、今にも消えていこうとする一つの輝きをつかみとろうとする。
覚えていない。
いつ。どこで。誰が。何をして。どうして。どうやって。何も。何も。
だけど、これだけは、ただ一つ、これだけは。
たとえこの身が朽ち果てようと、失いたくない。
――あなたが呼んだ。
深い、深い闇の中。ただ一筋差し込んだ、一縷の一番星。
――だから、応えた。
ぐったりと目を閉じる、血の気のない男の顔。
――いや、違うのだ。本当は。でも……。
確かに一度だけ、両手でしっかりとそれに触れてから――あるいは、自分の一部が降り注ぐ惨劇から守ろうとするように覆い隠し、娘の体はついに崩れ落ちる。
無音。世界はつかの間沈黙した。最も至近距離で血飛沫を浴びることになった亜人は、目を細めて血糊に視界が邪魔されることを防いだ後、残骸を無感動に見下ろす。血だまりの中に、ばらばらに散った髪が中途半端に残っていた。
彼女の体が手を伸ばす、男の青白い体だけが綺麗に残っている。瞼は閉ざされたままだ。
それに一歩、二歩、近づいて手を伸ばそうとした亜人が、ピクリと耳を震わせ、直後大きく飛びすさる。
地が揺れた。亜人の宝器が床を食い破った時よりも更に大きな、腹の底から揺るがすような低音がとどろく。
ビシリ、ビシリと亀裂が走る音がした。
この場の者をまとめて全員覆っていた枢機卿の結界が、朝夕に見かける鳥の卵の殻のように、いともたやすく割り開かれる。
偽物の天上が崩れても、辺りが闇に包まれている状態は変わらなかった。
どうやら空には暗雲が立ちこめているらしい。
ほんのわずか、微かに漏れ出す月明かりが差し込むと、瓦礫の中、ぽっかりとまた一つ大きな穴が空いていた。その淵に、誰かがぽつり、ひとりたたずんでいる。
まろやかな曲線と、体を包むかのような長い髪はすぐ女性のものと知れる。だが一目で常人でないこともわかった。乏しい月明かりは、それでも彼女の頭部から生える二本の巻き角のシルエットを描き出している。
はらはらと銀色の涙を流す、その目が闇の中に浮かび、白く輝いている。浮かび上がる裸体には、けれど人間の女性には存在しえないうろこがぽつりぽつりと点在し、やがてそれらは一つの群となり、下半身の人ならざる胴体へと連なる。
女体の二本は娘の残骸をかき抱くが、血糊をねちゃねちゃと踏み分ける四つ足には鋭いかぎ爪が揃っていた。
地上に現れた女神イシュリタスは、ただ声もなく、我が子の残骸に涙を降らせていた。首から上に手を這わせようとして、そこに何もないことに気がつく。おどおどと周りを見回しても、内側から破壊された頭部はどこにも残っていない。
やがて探すようにさまよった目が、その場の人に向く。
蒼白な顔の少年。
彼の横で、両目から滂沱と血を流しつつも、尋常ならざる気配に顔を向けている神官。
薄ら笑いを引っ込め、武器を手に構えたままの亜人。
それから娘の傍らの、横たわる男。
《――わたしは》
女の震える唇から漏れるのは、言葉ではない。鼓膜を通してではなく、直接人間の頭の中に彼女の声が届けられる。
《叶えてきた。お前達の願いを。それがわたしだから。わたしは貴方たちを裏切ることはできない。そう造られたから……》
うつむく彼女が、娘の体を抱えたまま、天を振り仰ぐ。抑揚のない、静かな響きの連なり。
《けれど。わたし自身の望みは、ただの一つも叶えられぬと言うのか》
悲嘆ではなかった。
ただ、恨みの言葉である。
そこには、憎悪が、怨嗟が彩られていた。
月明かりが消える。
一面の黒の中で、青い髪をまとう白い体がビシビシと音を立てて分かたれ、肩から生えた新たな腕の一対が天を振り仰ぎ、もう一対が地を指差す。
《――ならば。わたしはもう一度、世界を滅ぼし、創ることにしよう。……この子のために》
ピクリとも動かなくなった体を見下ろし、どの母親よりも優しい慈愛の笑みを注いで、神はそう宣告した。
轟音と共に、空から光が降ってくる。
一つの落雷が、百年前の災厄の再開を告げた。
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