命令

 鈍痛。酷くけだるかった。頭? それとも体? 瞼が腫れたように重たくて、目を開けるのが億劫でならない。


 ようやっと視界を取り戻せば、のぞき込んだ女がぽつりと言った。


「目が覚めましたか」


 その瞬間、血相を変えて構えようとしたデュランは、直後体を押さえて呻く。


 一瞬衝撃の走った場所を押さえるように手を伸ばせば、ぽっかり開いていたはずの穴も、突き出ていたはずの太い棘も何もない。

 手探りにその感触を確かめているうちに、今感じたはずの痛みがただの錯覚であったことを、遅れて脳が理解し始める。

 いや、やはり穴はある。服は破れている。けれど肌はつるつると、生まれてきたばかりとすら言えそうなほどに綺麗に整えられていた。


 ではやはり錯覚ではないのだ。

 悪夢を見たのではなく、あれは現実の自分に起きた事のはず。


 ただ無我夢中で動かした体。

 彼女には届いた。けれど逃げるのには間に合わなかった。

 背から降り注いで、深々と、傷つけてはならない内臓までざっくりぐしゃりと、あの生ぬるい苦痛、息ができなくて、動けなくて、音だけが聞こえていた。確か――。


 荒い呼吸を繰り返すほどに、


 なんとも度しがたい、感覚と認識の乖離。端的に言って、すさまじく気持ち悪かった。なのに吐き気がこみ上げてこない。体から追い出さなければならない膿が、ずっと行き場を失ってぐじゅぐじゅと肌を内側から灼いている、ような。


 口元を押さえたまま呆然と目を見開いていれば、自然と傍らに佇む女が目に入る。

 何か声をかけようとして、顔を見たら言葉をなくした。


 室内のやや暗い照明でも、距離が近いためかすぐ気がついた。ユディス=レフォリア=カルディの双眸は、明らかに白く濁っていた。


 目は術士にとって重要な器官だ。人間は視界によって世界のほとんどを理解する。呪文を唱え、印を結び、杖を掲げる――それらはいわば呼び水を入れる行為であり、体内の術を世界に送り出す最終的な蛇口は、入り口とは目に他ならない。術の行使の際に淡く目が輝くように見えることがあるのは、外界に流れるエネルギーの一端が光として表れているから、である。


 すなわち、術士にとって目を病む、目に怪我を負うとは、致命傷と同義だ。


「ご安心を。わたくしにあなたを害する理由はなくなりました。むしろ今死なれるのは、困る」


 感情の見えにくい女にしてはわかりやすかった。自嘲の笑み。揶揄、皮肉、と言う言葉が頭をよぎると、連想されてか唐突に、鮮烈な記憶が鼓膜の内側を刺した。


 ――それとも、それ以外に賭けてみようか? 百年前と同じように――奇跡を起こせば、助かるかもよ?


 何もかも失って消えていく中で、ああそう、膜を張った向こう側みたいな感じ、だけど確かに聞いた。

 そういえば、聴覚とは人間が死にかけた時、最も最後まで残る感覚なのだったか。


 何もできないのに、悪い事が起こる、それだけは耳に入ってきていた。


 もう何も考えられなくて、ほとんど感じられなくて、それでもそれが、きっと彼女にとって最悪な選択を促している下劣な誘惑なのだと、わかっていた。


 駄目だ、と自分は唇を動かした。よせ、と。

 だけど、そこで、全部が――。


「――シュナは!?」

「いません。ここには」


 体を起こそうとする青年を押しとどめ、またも神官が答える。

 彼女を睨み付けたデュランだったが、喋る前に今度は別方向から邪魔が入った。


「ようやくか、スカタンめが!」


 背後から頭をパシーン! と叩かれ、彼は完全に沈黙する。

 覚えのありすぎる感触に、「これ知ってる奴だ」という思いと「これ知らない状況だ!?」という思考、両方が芽生えて混乱したのである。


「お……親父……!?」

「うんまあ、割と死にかけてたらしいから、寝ぼけるのもわかるけどね! バーカバーカ、お前って本当馬鹿!」

「やっ……ひゃへひょーやめろよっ……!?」

「ふひゃひゃよく伸びるわ、知っとるか、ここがやらかい奴はエロ魔人なんだそうな、さすが誰とでも寝ぶほっ」

「離せっつってんだろうが痛い、あと相手は常に選んでるよその風評被害やめろ!!」


 領頬を勢いよくみょーんとされた息子十九歳は、最初こそわたわたするのみだったが、縦縦横横、とつまんだままの両手を弄びつつ更に重ねられた煽りについに手が出た。


 顔面を押さえた領主が「選んだ上でとっかえひっかえ、儂の息子業が深い……」なんて事をまだつぶやきながら、デュランが寝かされていたらしいソファの後ろ、影に沈む。


 なおも反論しようとした領主子息だったが、相手の顔が一度見えなくなると唐突に力が抜けた。ついでに毒気も抜けきった。


 改めてぐるりと自分の周りを見つめ直したデュランは、王城の一角、客間の一つに自分が運び込まれていたらしいことまで気がついた。


 よく見れば部屋の中には、女神官、父の他に、神官の弟子が端っこの方にぽつりと突っ立っている。目が合うと、彼はほっとしたようにくしゃっと表情を緩めてから、すぐに罪悪感に苛まれるような顔になり、うつむいてしまう。


 デュランはいぶかしげにそれらを確認すると、のそのそ復活しつつある父に目を戻した。


「……どういう状況?」

「迷宮が開いた。そこの神官殿が術である程度抑えていてくれているだろうが、まもなく地上に迷宮内部から上がってきた魔物が現れるようになる。百年前と同じようにな。なので今、準備中」


 今度は女神官に向かって振り返る。

 元は凜としてどこまでも深く見通してくるかのようだった彼女の、今はどこか焦点の合っていない目の動きはなんとも直視しづらい。なんとなく少し下の方に視線を下げる。


「俺は……あのとき、負けたんだな。一度」

「そうですね。あのままでは確実に死んでいたことでしょう」

「トゥラ……シュナが、助けてくれた」

「そして彼女は迷宮に囚われた。いいえ? 戻った、というのが正しいのでしょうか。元々あちら側の世界の方ですから」


 途切れ途切れの記憶と、現在の状況、そして告げられた内容。それらを総合して推測した事を口にすれば、短い肯定が返ってくる。


 聞くや否やソファから飛び降りて部屋を駆け出していく――かに思われたデュランだったが、椅子から両足を下ろした直後に硬直した。


「儂になんか言うことあるかいの」


 息子の内なる葛藤、あるいは苦悩を見透かすかのように、領主は問いかけた。

 軽やかに、なんでもない世間話でも始めるような調子で。


「……親父。俺は本当なら、ここで一緒に迷宮の脅威を抑え、退ける……そういうことをしないといけないんだよな」

「領主子息だからな。ついでに言うと一人息子。母さんなんかもう既にバリバリ働いとる。儂らどっちも今から根性出さんと後で何を言われるかわかったものではない」


 父は両手を後ろに組み、背を向けて数歩歩いてから、止まった。


「――が。幸か不幸か、宅の息子は特級冒険者を兼任している。迷宮の災厄が再び起きた以上、根本的に止める方法はただ一つ。。そこの、ひょっとすると我々より迷宮に詳しいかもしれない術士殿もそう言ってる」


 デュランはちらっと女神官を見た。彼女は瞬きすらしないが、頷くように顎を下げた。


「加えて、この非常事態にもう一人の特級冒険者が先んじて迷宮入りした、とそこの人は証言した。あれはひじょーに有能な冒険者だが、まあその……倫理観は前々から問題視されていたわけで――」

「奴の実力なら、最奥に至ることはできるかも。でも、きっと女神様に、俺たちの望むことは願わない……」

「その通り。なので儂は色々な観点から考えて、結局お前にこう言うしかないとの結論に達した」


 くるりと迷宮領当主は振り返り、椅子から立ち上がった次の当主と向き合った。


「第四代ファフニルカ侯爵として命じる。デュラン=ドルシア=エド=ファフニルカ。迷宮に潜り、女神様の慈悲を勝ち取ってこい」


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