姫 怪我をする

 シュナが小さく悲鳴を上げると、デュランは素早く手を引っ込め、申し訳なさそうな顔になる。


「痛かった? ごめん。少しだけ我慢して、傷を見せてくれないか」

(……傷?)


 瞬きをしてぽかんとしていると、不意に彼の顔が近づいてきてシュナは硬直した。

 指が再び、優しく首元に伸びる。間近で真剣な金色の目を見ていると、心臓がどくりと高鳴った。


(綺麗な色。どきどきする……)


 あの亜人も同じ色のはずなのに、どうしてこうも受ける印象が変わるのか。髪をそっと取られてますますそわそわしたが、険しい顔になったデュランに今度は大きく目を見開く。


「――ああ、くそ。噛まれてる。犬歯が……」


 訝しげに寄ってきたリーデレットが彼の視線の先を追ってさっと顔を強張らせる。腰に提げている荷物に素早く手を伸ばした。


「ポーション? 診療所?」

「すぐにオルビア先生と連絡を。駄目なら……帰る、かな」

「一番薄いポーションを試すのは? 血も出てるし、あまり遅くなると痕が残るかも」

「リスクが怖い。万が一ショック症状が出ることを考えると……」

「ポーション抜きも持ってるけど?」

「……トゥラにできると思うか?」

「……躊躇するわ」


 シュナは交互に二人の顔を不安げに見つめている。

 ポーションとは恐らく何かの薬のことなのだろうが、どうやら使用にはリスクを伴うらしい。どこかに似たような話があったような、それにどうして今その話を、と思い出そうとしている彼女の前で、二人は会話を進めている。


「診療所はポーションを使わない所だとピンキリだ。生憎俺はそっちにいい伝手がないから、隠れた名医か藪医者かすぐには見抜けない。自己責任で突っ込むならともかく、とてもトゥラを任せられない」

「ごめん、あたしも。反迷宮神水エリクシル信仰か、深刻な副作用でもなければ、皆薬前提で治療を考えるもの。……一応、もう一つの選択肢。神殿の利用は?」

「ここからの距離が近ければ考えるんだがな。それなら城に帰った方が早いし総合的に安全だ、メリットよりデメリットが圧倒的に強い」

「でしょうね。これ以上変な恩を作るのもちょっと怖いし……先生がさっさと捕まればいいんだけど……」

「あの、どうかしたんすか――うわ、怪我!?」


 またも緊張が高まった空気に心配そうなシュナが見回すと、二人の騎士の変化に気がついた巡回の騎士が寄ってきて驚きの声を上げた。

 そこでようやく、シュナは何が空気を悪くしているのか知る。咄嗟に手を首に伸ばすと、ぬるりと湿った感覚が指につく。


「駄目よ、触らないで! ……そっとね」


 リーデレットが優しいが強張りのある声で制し、シュナの手を取る。視界に入った自分の指先が赤く変色しているのを見て、自分が怪我をしているのだと、この痛みは傷によるものなのだとシュナは理解した。彼女は更に、手荷物の中からハンカチを取りだしてシュナの首元にあてがっている。


(怪我……これが……)


 知識でそういうものだと知っていても、実感する機会なんて今までほとんどなかったのだ。どうすればいいのかわからない。

 呆然と立ち尽くしているシュナの横で、デュランが懐を漁って小さな布袋を取り出すと巡回の騎士に放ってよこした。わ、と声を上げて彼は受け止める。


「クルト。頼まれてくれるか」

「あっ、はいっ! なんなりとっ!」

「ショール……じゃなくてもいいけど。首元を覆う布を探してきてくれ。そこから出していいから、値段は気にするな。そうだな、あまり淡い色合いや薄くて透けるような物は避けて、柄物でもいい――いやもうむしろいっそ柄がついていた方がいいな。大丈夫そうか?」

「えっ何それある意味耐久訓練より辛くないすか……いやでもこれは必要な試練と受け止めました、了解です。他には何かご入り用ですか? 詰め所に連絡は?」

「……今はいい。応援を呼んでもワズーリが捕まるわけでもなし、聴取で時間を取られるのも面倒だ」

「は、心得ました、閣下。行って参ります!」


(……別人みたい)


 竜のシュナやトゥラの前ではだらしない姿やこの人大丈夫なのかと思ってしまうような行動も取りがちな竜騎士だが、ああして真面目でいるとなるほど惚れ惚れするほど様になっている。巡回の騎士はぴしりと敬礼すると身を翻し、人々の群れの中に消えていった。ハンカチを押さえていたリーデレットが悪態を吐く。


「もう! せっかく可愛いお外行きの服なのに……これ、ちゃんと落ちるかしら」

「また新しく仕立てるよ。別に出かける度に作ってもいいんだから」

「……あ、そう。そうなのね……」


 そうか服が汚れてしまったのか、それで買い物に行ったのか、申し訳ない、ハンカチも服も、汚れはちゃんと落ちるだろうか。


 等と言われて初めて気がついた事に恥じ入りつつ忙しく考えていたシュナだったが、さらりと放たれた貴族的台詞にリーデレット同様一瞬次の言葉を失う。

 頭を振った女騎士は、真剣な顔になると竜騎士に向き直る。


「デュラン。クルトには頼まなかったけど、やっぱり詰め所に報告した方がいいんじゃないの」

「報告はする。……期待するような結果にはならないだろうけどな」

「どうしてよ! 特級冒険者だから?」

「それもあるし……忘れたのか、元から覚えていないかはともかく。噛首――男が女の首の後ろ辺りに噛み跡を残すのは、ギルディアでは一般的な求愛行動の一つだ」

「は? そんな言い訳が通用するとアイツ思ってんの? ここは迷宮領よ。郷に入っては郷に、それが普通。違うの? 大体、流血で服を汚すことのどこに愛を求めてる要素があるのよ! しかも――」

「リーデレット」


 喋っていくうちに声が大きく高くなった女騎士をたしなめるように、竜騎士はそっと一言だけ静かに言った。彼女がはっと息を飲み込むと、彼はぎゅっと拳を握りしめたまま、もう一声続ける。


「頼むよ」

「……ごめん」

「いや……助かってる。君は俺が言えないこともすぐ口に出してくれるから」


(……また、わたくしのわからないところで、二人でわかっている……)


 シュナは成り行きを見守っていてなんとなくモヤモヤした気持ちになったが、そもそも彼らが口論を始めたのは自分のせいなのだ、と思い出すとしゅんとなる。


「君が悪いわけじゃない。俺たちがついていながら……」


 うなだれた彼女に気がついたのか、デュランはそんなことを言ってくれるが、全く気分は晴れない。


 その間に、お使いを頼まれていた巡回の騎士、クルトが戻ってきた。


「閣下! 己のセンスを問われる地味にキツい任務でしたが、やり遂げました!」


 明るく爽やかに若い騎士は胸を張る。手にしていたのは黒の下地に華やかな花柄の刺繍が施されたショールだった。デュランは軽く礼を言って受け取ると、ベンチに座らせたシュナの首元にお洒落に巻き付けて血の部分を上手に隠す。


「本当にごめんな。せっかく楽しい思い出にするつもりだったのに……」

(デュランは悪くないのよ!)


 シュナは慌てて首を横に振る。

 そもそも外に強く出たがっていたのはシュナなのだし、デュランが散々懸念するような態度を見せていた理由もなんとなく察した。


 迷宮領で見てきた人達は大半が気さくで親切そうな雰囲気をしていたが、中にはあの亜人のような人物もいるのだ。


(……でも、初めて会った人に血が出るほど噛みつくなんて、それが亜人のルールなのかしら? 文化の相違ってものなのかしら?)


 だとしたら本当に外の世界は度しがたい、まだまだ自分には学ばなければいけないことがたくさんありそうだ。


 シュナもデュランも黙り込んでいると、気を利かせたのか、巡回の騎士がちょっと足を伸ばしてリーデレットが買えなかった揚げ菓子を手に入れてきた。


 油と砂糖による味覚の暴力に、シュナは一口口にしてしばし硬直する。まずいわけではないむしろリーデレットが言っていた通りとても美味しいが、あまり多くは食べられなさそうだ。

 残りをデュランにそっと渡そうとして、サンドイッチの悲劇を思い出す。どうしよう、と迷ったのがいけなかった。問題に気がついたらしい竜騎士は、シュナの手から揚げ菓子をさっと取り上げると、ためらいなく口の中に放り込んだ。シュナはまた怒りを表明するが、やっぱりいまいち通じていない。


 その辺りでリーデレットも戻ってきた。


「つながらなかった?」

「残念ながら」

「仕方ない。連絡して早く迎えに来てもらおう」


 巡回の騎士にそっと渡された揚げ菓子を、ぺろりと瞬く間に二つ平らげてしまう。それにしても騎士は全員、食べるの自体が早いし量も多そうだ。もしかしてそれも適性の一つだったりするのだろうか、なんてことをシュナが考えている。


「――あ」


 その時、人混みの中ではあったが一つの声が浮いて聞こえた気がした。聞き覚えのある相手だったからだろうか。皆で一斉に顔を向けると、花を抱えた少年が釣られるように足を止めた。


「……プルシ」


 騎士の誰かがぽつりと呟く。つい先日の記憶が蘇ると、シュナは思わずデュランに身を寄せた。

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