秘密持ち 緊張する

 迷宮の人々は一般的に、世界は女神によって作られたと考えている。

 古き書と人の言の葉は伝える。一度古き神々に見限られ、世界は滅びたのだ、と。幾多の光が空に瞬き、水と火が代わる代わる地を染め上げ、空は嘶き大地は戦慄いた。


 滅び行く人類を哀れんで立ち上がった神がいた。

 我が身に不動不出の呪いを刻む引き換えに、自らの領域に弱き人々を招き入れ、あらゆる外部の厄災から守護した。

 これが女神イシュリタス――迷宮の最奥にて願いを持つ人を待つ、奇跡の担い手である。


 一方、星神信仰は世界を作ったのは星神であると唱える。迷宮とはその星神が人を試すために与えた物の一つなのだ、と。星の民達は、星神は女神よりもずっと前から存在しており、あらゆる厄災は星神が人に授ける試練であると解釈している。


 迷宮の女神は対価と引き換えに願いを叶える。逆に言えば、適切な対価さえ差し出せば望みが叶う、という意味でもある。要するに女神信仰とはわかりやすい現世利益なのだ、と神官達は説明していた。


 一方、星神もまた人に報い、現世利益の側面も内包しているのだが、彼らがより重んじているのは死後の世界である。

 もちろん、現世で幸福になることがあればそれは星神からの祝福の証である。しかしたとえもし現世で目に見える報酬がなかったとしても、神に不信を抱いたり蛮行に走るのは愚の極みであるのだ。なぜならば、星神の信徒は死ぬと肉体と魂が分かたれ、魂は神の裁定を受ける。一生で何をしてきたか――善行と悪行を担当の天使が判定し、その魂の楽園行きか地獄行きかを決める。

 ちなみに異教徒の場合、どんなに善人でも楽園に行くことは難しく、通常は地獄、良くて楽園と地獄の間の辺獄という場所に送られるらしい。


 人は一生をずっと星神に見つめられ続け、死後にその行いを評価される。だからこそ、現世での目先の利益だけでなく、もっと大局的な意思を持って日々慎ましやかに生きることが大事――。


 分厚い本を机に置いてとつとつとユディスが語る内容に、シュナは聞き入っていた。

 改めて本職の人間から言葉を聞かされるのは、文字だけで知識を追うのとはまた違う。ユディスの言葉には、なんとも言えない説得力のような物があった。彼女の語る内容がなんであれ、「はい神官様、仰るとおりです」と言わせてしまえそうな、奇妙な力を感じた。耳に心地よく、深く心の中まで入り込んできてしっかりとつかまれているような――それに全身を委ねてしまえばさぞ気持ちがよいのだろうが、同時にそれは何か自分の大事な物を手放す気がして、ぞっとする。

 大柄の神官が「適当に聞き流せ」と言っていたのはこういうことだったのだろうか……意図は違うのかもしれないが、ありがたい助言と思って、時折意識して集中を断ち切り、自分の思考に集中してみる。


(迷宮の人たちは、なんというか……こうせよ、という主張は、あまり強くない気がする。侯爵一家だって、ここではこうしましょう、であって……公的な場では皆で共通のルールを守って、でも自分の所では好き勝手に……そんな意識が、根底にある気がする。でも、星神教は違う。この人達には、この人達の正しいことがあって……それに合わない物は、断固として許さない。そういう考え方で、そういう生き方をしてきた人たちなのだわ。自分たちは正しく、最後には苦労が報われる時が来る。そういう土地で生きてきた人たちなのだわ……)


 迷宮に対しても。デュラン達は「一緒に暮らしていくもの」として見ているが、ユディス達は「いずれ討伐すべき対象」と認識している。現状はあくまで途中段階であり、ゴールの形は常に変わらず、そこを見続けている――。


(ああ、だから……デュランはこの人のことを、あんな目で見ていたのかもしれない。この人にとって竜は、いつか倒すべき存在モノだから)


 不思議な気持ちだった。

 手を伸ばせば触れあえる距離にあり、一緒に同じ物を食べ、シュナの窮地をきちんと確認した上で見返りなく手を差し出してくれる――けれど同時に、その手で躊躇なく敵と断じた相手を振り払う、そんな人たちなのだと。

 きっと本質のほんの一端ではあるのだろうけど、今日ほんの少しだけ、彼らのことが理解できたような気がする。


(普通の善き人たち……だからこそ、恐ろしい)


 もし、シュナが迷宮の人間であるとわかったら……きっと今雑談している緩やかな雰囲気はかき消えて、オルテハに向けていた目がこちらに来るようになるのだろう。

 それはとてもひやりとする想像だった。


(……シュナのことはともかく。トゥラのことは、どう思っているのだろう?)


 ふと気がついてしまえば、更に体が凍える感覚が増した。

 術士というのは、通常ではできないようなことを、己の中の見えない力と引き換えに起こすことのできる人々だ。その分、通常の人間には見えない物も見通す目を持っているのだと言う。

 トゥラは一体、彼らにどう見えているのか?


(……親切が。怖いと感じるなんて。でも、だって、もしもトゥラのことを少しでもこの人が、この人達が見通していることがあるのだとすれば……わたくしは、けしてこの人達が手助けをするべき隣人ではない。なのに、気にかけてくれるそぶりを見せるのはなぜ?)


 自分だって本来、オルテハのようにユディスに杖を向けられる側の人間のはずだ。そしてユディスが全くそのことに気がついていないとは思えない。

 なのに、この扱いはなんだ? 印象が噛み合わない。なんとも気持ちの悪い感覚に、シュナは思わずほとんど無意識の間に肘の辺りをさすった。


「……カルディ。もう、時間も時間ですから」


 シュナのあまりよくない顔色に気がついたのは、ルファタの方が先だった。


「ああ……いけませんね。つい、プルシと話していると長引いてしまって。お部屋に案内しましょう」


 少しほっとした気持ちと、話しかけられて更に緊張が増したのと、複雑な思いだ。


 廊下に出ると、先を行くカルディの後ろ姿を見つめながら、こっそり弟子が囁いてくる。


「すみません……僕はいつまでもああしていられるのですけど、退屈でしたよね」


(退屈だったわけではないのよ。ただ、わたくしはここにいるべき存在モノではないのではないかしらと、そう思っただけ)


 ゆるやかに首を振ると、少年はほっとしたような面持ちになる。


「……誤解もされやすい方ですが。真面目で、芯が通っていて……素晴らしい人なんです」


 シュナにもそう思ってほしい、と言いたげだ。しかし気になるのは、少年が師を見つめる視線に、熱と好意と、同時に何か寂しげな色が見え隠れすることだ。


(きっと、この子があの人を好きなことは、わかったわ。でも、だったらどうして、いつも苦しそうなの?)


 尋ねてみたくとも、言葉がない。目的の部屋にもすぐ着いてしまった。


「プルシ、ここまでで大丈夫です。後はわたくしが。夜遅くまで付き合わせてしまいましたね」

「とんでもございません。……また、明日の朝に」


 星の加護を、とお決まりの言葉を告げ合って、師弟は別れる。

 カルディはシュナを室内に誘い、水回りの事を伝える。手元にいつの間にか着替えや歯を磨く道具類を出現させていたのも、彼女が術士だからなのだろうか。目を丸くしつつ受け取ったシュナだが、相手が手を離さないので困惑の眼差しを向ける。


「――どうされました。臣が恐ろしいですか」


 目を細め、何か見透かすように枢機卿が言った。

 受け取った物を取り落としそうになるが、堪える。

 目をそらすのも我慢した。そうしてはいけないような気がした。


 夜の静寂の中、小さな部屋の照明にゆらめく神官の黒々した目が光っている。


(大丈夫、大丈夫……不安に思うと、それが見えてしまう。大丈夫、きっと……)


 心の中で必死に言い聞かせて平静を保とうとしていると、ふっと視線をずらしたのはあちらが先だった。身を引き、口元を緩める。


「どうやら臣も、寝ぼけていたらしい。やはり夜更かしとは悪道ですね。忘れてください」


 おやすみなさいの言葉を送られて、扉が閉まった後も、動機は収まりそうになかった。シュナはしばらく渡された着替え等を抱えたまま、枢機卿が消えた方に目をこらして立ち尽くしていた。

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