迷宮の姫 髪を梳かれる

 気持ちよく全身を洗い、髪を手で梳っている最中に気がついた。


(頭を濡らしてしまったわ……しかもここ、デュランのお部屋なのに。わたくしったら、はしたないわ)


 慌ててお湯を止め、急いで束ねた髪をぎゅぎゅっと絞って水気を取ろうとする。



 トゥラの姿でも、彼女の髪は豊かに波打って背中に流れている。

 その昔、「高貴な女性の嗜みだよ」と言って、楽しそうに父が櫛を通していたものだ。


 髪を洗って梳かして乾して――それらはかつて、全て父の担当だった。

 今思えば、きっと母の事も同じように世話をしていたのだろう。


 ファリオンの足が塔から遠のいて後、シュナはある程度、自分で自分の面倒を見る必要があった。しかし一人きりだと、髪を洗うのは大量の水を用意するのも乾かすのも大変で、なかなか気軽にできなかったものだ。


 もっとも、塔で暮らしていた頃は普通の人間のようではなかったから、さほど気にしてもいなかったのだが。


 飲食と排泄と睡眠の欠かせない身体になってからは、塔で暮らしていたときにこの不便さがなくてよかった、なんて時折こっそり噛みしめる事もある。

 一方で、毎日変わりゆく我が身の変化を感じ取るだけでも、生きるとは楽しいことだと味わってもいるのだが。


 シュナが入浴の本当の楽しさに目覚めたのは、だから汗や垢を落とす必要を知ってからなのである。


 加えて、王城の入浴設備が充実していたこともあった。

 迷宮で取れる宝器は、十分すぎるほどの水量の提供、安定した熱の供給等を可能にした。


 それらは彼女に、温かい湯にゆっくり使う楽しみと、髪をより効率的に乾かす快適さを覚えさせた。



 ……というわけで。

 どうもシュナの身体はすっかり、「城では頭までしっかり洗っていいもの」と油断するようになってしまっていたらしい。


(いつもはコレットが色々と世話をしてくれるけど……デュランに頼めば、呼んでくれるかしら?)


 浴室の隅に畳まれていたタオルで全身を拭き取る。一瞬、本当に借りて良いのか迷ったが、「シャワー浴びておいで」と言い出したのはデュランの方なのだ、ならばきっと大丈夫だろう、と考える。


 父のローブを身について部屋に戻ると、行ったり来たりしていたデュランがこちらを見てぎょっとした顔になった。


 釣られて目を丸くしたシュナは、足下に視線を下げ、自分を見つめ直してみるが、頭の状態以外先ほどと大差ないように思える。


(デュラン。あのね、髪を乾かしたいのだけど……)

「……え、髪? ああなるほど――なるほどね!?」


 不審に思いはしたが、自分では原因を見つけられなかったし、それよりもまずは濡れた髪だ。このまま突っ立っていたら身体が冷えてしまう。

 引っ張ってアピールすれば、彼はすぐ気がついてくれたようで、慌てて部屋を横切っていく。


 戻ってきた手には、見覚えのある道具が握られていた。温風を発生させる装置だ。あれで髪を乾かすのだと、コレットがいつもしている作業を思い出してシュナはにっこり微笑む。


(ありがとう!)


 早速受け取ろうとする彼女を、まじまじとデュランが見続けている。

 なんだろうさっきから、何か言いたいころがあるのかしら? と首を傾げてみれば、頬を掻きながら彼はこんなことを言い出した。


「その……手伝おうか?」


 最初はきょとんとする。

 次に、少しの間思案する。

 比較的すぐ、それが良い提案だと判断した。


「オーケー。それじゃ……どうしようかな。そこがいいかな。座って、楽にして」


 こくこく頷いた彼女に破顔したデュランが、ソファーを指さす。

 指示通りに座ってみると、彼は彼女の肩周りにタオルをかけ直してから、また部屋の中をうろうろし始めた。


「ええと……たぶんこの辺――ああ、よかった。あったあった」

(……ヘアブラシ?)


 何をごそごそしているのだろう、と首を伸ばしたシュナは、彼が片手に持っている物に思わず眉を顰めた。

 乾かす時梳くのだから櫛やブラシの類いが出てくる事自体は自然なのだが、どうも彼女の知っている――例えばコレットが湯上がりに使っているようないつものブラシと、形状が異なっているのだ。


 普通、こういうときに使うブラシは、梳かす部分と持ち手部分が別れていて、柄がついているはずである。


 ところがデュランが今持っているブラシはそうではない。例えば掃除の時、ゴシゴシ床をこすりたいときに使うような――そんな形をしているのだ。

 しかし、では実際掃除道具なのかと思えば、頑張って汚れ落としをするには毛先はもっと繊細で柔らかい……ように、見える。


「……その。試作品だけど……新品、だよ?」


 じろじろ不躾な目を向けられたデュランは、どこか言い訳のように口走った。


 別に新しいか古いかはさほど気にしてないのだけど……とどこか釈然としない気持ちを抱きつつ、ひとまず彼に任せてみることにしたシュナは、すぐに心地よさにうっとり目を閉じた。


 優しく巧みな手つきのおかげなのか、それとも妙なヘアブラシのおかげなのか、毛が抜けて痛みを感じるようなことはなく、温風を発生させる風音が時折響いては温もりを感じる。


 他人に身を任せる心地よさ。どこかで似たような事があったような……ええとコレットにしてもらっているのではなくて……と、ぼーっとしながら考えていたシュナはほわわんとした気持ちのまま思い出す。


(あ。そうか、思い出したのだわ。デュランの使っているブラシ、どこかで見たことがあったと思ったら……竜の時、騎士の方達に洗ってもらった時に使われていた道具の一つが、同じ形をしていたような……というかそれで、顔を拭いてもらっていたような……)


 んんん? と違和感がこみ上げると共に何か閃いた気配があったのだが、ちょうどその瞬間、デュランの手入れも終わったようだった。


 そして御曹司の巧みな髪捌きに半ば意識を飛ばしていた彼女は、鏡の前に連れて行かれて仕上がりについて聞かれている間に、幸なのか不幸なのか、すっかりブラシについて湧き上がった疑惑について忘れ去っていたのだった。

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