神官 法王に会う 前編

 どこかで誰かが星歌を歌っていた。ユディス=レフォリア=カルディはしばし足を止め、信徒の祈り、あるいは純粋な音楽の趣味、そうでなければ懸命な練習の途中に耳を傾ける。


 曲名はすぐにわかった。賛美歌第十六番。通称羊飼いの歌。

 今日はいい天気だから放牧が気持ちいい。神様に感謝しよう。明日もまた晴れるといい。

 ――それだけの内容と言ってしまえばそれまでだが、単純であるが故に共感も生みやすいのだろうか。星歌を習う時、最初の歌として採用されることも多いから、法国の人間であれば誰もが知っている。


 旋律はさほど巧みと言えなかったが、歌い手が気持ちよさそうに、心を込めているのがわかる。方角からして上の方――もしかすると屋根に誰か上っているのだろうか。遅い時間だが、ひょっとしたらだからこそ、なのかもしれない。たまに公衆浴場の蒸し風呂で、一人きりで貸し切りなのをいいことに、気持ちよく歌っている信徒がいる。弟子からそんな話を聞いたことがあったのを思い出す。


 ふと、枢機卿は考える。

 彼女には何かを楽しむという感覚が薄い。やるべきことだからやる。常にその意識で動いているから、どうも遊び心というものが圧倒的に不足しているらしい。


(お前は真面目なのはいいが、固く尖りすぎているのが難点だ。いくら他国と比較して敬虔かつ真面目と言われている星の信徒とても、人間という生き物はそこまでストイックにできていないのだよ。大抵はね、誰にも無駄で、ろくでもないことをこそ生きがいにしているのだ。それに対してどう思うかはお前の自由かもしれないが……そういう者達の方が遙かに世の中に多いと言うことは、心に留めておおき。それもまた、きっと創造主たる星神様の意図の一つなのだから)


 ちょうど見習いから正式な階級を得た直後ぐらいだったろうか、言われた言葉が頭をよぎる。

 似たような経験は何度もあり、どうやら自分の当然は他人と随分異なっているらしい、と言うことは自然と理解した。


 ――わたくしは、間違っているのでしょうか。

 ――いいえ。人と異なっている……それは貴方の得がたい素質であり、美徳です。誇りなさい、星の民よ。


 ふっと口元が緩んだのを感じた。あの短いやりとりが、彼に忠誠を誓う事となったきっかけ、だったろうか。

 出会ったのは自分がまだ十二の子供だった時。十歳程度年上の男は、そのときまだ枢機卿――しかし二十代前半にして、既に次の法王候補、いや内定済みと、誰もが信じて疑っていなかった。実際、三十になった途端、待ちかねていたように前法王が退位し、次代法王を決めるための大選挙はかつてないほど迅速に終了した。


 そもそも二十代で枢機卿に上り詰めた事から前例がなかったのだ。枢機卿就任最年少記録の方は、ユディスが打ち破ることになったのだが、それはさておき。

 彼もまた、特別な素養を持った人間――それは同時に、周囲からの孤立をも意味する特徴だったから、同じく浮きがちだったユディスと合う所もあったのだろう。


 気がつけば、歌は止んでいた。立ち止まって耳を澄ませてみるが、気配もうかがえない。ぼんやりと自分の思考に集中している間に、寝所の方に引っ込んだか、布団の中に潜り込んだのだろう。

 しんとした夜の静寂の中を、首を振り、枢機卿は歩き出す。皆もうすっかり寝静まっている頃合いだ。あまり長引くようなら夜更かしを咎めに行かねばならないだろうかとも考えていたが、歌の主も眠りに誘われたのなら、彼女もまた当初の目的通りに動くのみだ。


 この星院にもすっかり慣れた。初めて迷宮領を訪れたのは、確かちょうど二十歳の年。それから十二年になるだろうか。人生の半分、とまでは行かないが、三分の一ぐらいはこの地で生きていることになる。

 星都に比べれば格も規模も落ちるが、思っていたよりしっかりしているし、手入れも行き届いている――そんな風に感心したことを覚えている。他の信徒ほど辺境の宣教について偏見を持っていたわけではなかったが、実は想定よりも楽な任務なのかと考えた。そしてすぐその考えを改めることになった。


 ――はあ、まあ、迷宮は便利ですが明らかに危険物でもありますからな。儂は構いませんぞ、閉鎖しても。ただ、民が納得するでしょうかなあ。既に生活の一部になっている物をなくすのは難しいですぞ。よっぽど魅力的な代替案が出てくれば安易に人は流れますが……貴方達の信仰では、既に堕落している人間は救えないかと。というか、切り捨てる範囲でしょう? なら、切られる方としては、残念ながら、としかお返事できなくなるのでは。誰しも幸福な今を手放したくはないのですからね。


 ほんのり、やんわり、それでいて瞳の奥底に、断固とした意思の光をたたえ。へらへらと笑った迷宮管理人の顔を見て、これは確かに一筋縄ではいかない――百年間進展がなかった理由を、漠然と、けれどはっきりと衝撃と共に感じ取った。


 不思議な場所だ、ここは。

 敵意を持つ人間すら丸めて飲み込み、一部にする。そんな気質と力を持つ人達の住まう所。


 ユディスは廊下をいくつか曲がると、とある部屋に入り、部屋の隅の暖炉に近づく。念のため用心深く、部屋に入る前も入ってからも、油断せず人の目がないか確認している。


 弟子にすら詳しくは伝えていないのだ。今夜訪れる場所と、目的は。


 ようやく異常なしと判断した神官が石壁の一部をぐっと押し込むと、音がして暖炉が動き、地下への階段が姿を現す。月明かりのある夜だが、さすがに暗い。けれど当代最高の術士、いかなる悪をも見通す目を持つと謳われる女には、この程度の暗闇は全く障害にならないようだった。

 隠し通路が通じているのは法国の国境付近だ。星院は迷宮領に再び万が一があった時、信徒と無垢なる民草を守る最後の砦となる。

 砦というのは滅ぶために存在しているのではない。星院のこの通路は、死なせてはいけない人間がいた場合の最後の頼みの綱、脱出路なのである。

 だが今使いたいのは、通路自身ではなく、通路の途中にある小さな部屋だ。保存食と水、それから少しばかりの路銀など、身一つで逃げ込んできても最低限その後旅ができるように荷物が用意されている。もっとも、ただの一般人ではなく、ある程度術に長けた者を想定しての装備なのだが。

 この場所の存在を知っている階級は限られている。備品点検は枢機卿の重要な任務の一つだ。


 いつものように点検を済ませてから、カルディは部屋の中央の机を隅によせ、無骨な土の地面にローブのポケットから取り出した砂を撒いていく。淡い光沢を放つ砂はまもなく一つの魔法陣を描き出した。


「――闇を灯せルメナス


 最後に部屋の隅にある燭台のような場所に手を向けたカルディが呟くと、そこに明かりが灯り、部屋の中を照らす。


 全てが終わった彼女が魔法陣の正面に跪くと、砂で作られた幾何学模様の中からゆらりと煙が沸き立ち、すぐに人の姿を描く。


『星が美しい夜です。ファルタが一際喜んでいらっしゃる。貴方にもこの恩寵が滞りなく届いているといいのですが』


 ぽつりと放たれた言葉は空を打ち、余韻を残した。

 ユディス=レフォリア=カルディもよく通る声をしているが、魔法陣の中に浮かび上がった人物は更に独特だ。落ち着いていて、それでいてずっと聞いていたくなるような、不思議な響きを孕んでいる。まるで清水のような、とでも例えようか。

 指を組み、恭しく頭を垂れて、カルディは声の良く通った若い男に話しかけた。


法王猊下ヒエロ=メジェにおかれましては、ご機嫌麗しゅう。こちらも曇りなき満天の星空でございます。しかし、御身の穏やかな夜を妨げる我が身の不徳についてお許しください」

『はい、正義の槌ムエロニルカ――いえ、レフォリア=カルディの方が良いのでしたか? わたしは貴方に合った呼び名だと思うのだけれど、そう言われるのは不服なのでしたっけ』


 親しみを込めた口調。微笑み、いたずらっぽく口に指を当てる。


『大丈夫、今日は気持ちのいい晩ですから、ちょうど星を見ていたのです。世話係ペイジャ達には秘密ですよ、ほどほどの夜更かしはなかなか楽しいものなのですから。さ、顔を上げて。話をしましょう』


 枢機卿に平伏されたその男は、神聖ラグマ法国の最高位の序列のみにしか許されぬ、金糸の入った紫色の衣とやや重たげな冠を身にまとっていた。

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