第96話 紅の追憶 (五)(完)
闇が部屋を満たしていた。
天井も壁も床も黒く塗られた空間のなかで、その一隅だけが奇妙にまばゆい。
光もないのに輝く亜麻色の髪。茫と浮かび上がる透き通った雪膚。そして、宝石をはめ込んだみたいな真紅の瞳。
オルフェウス。
美しい少女は灯りひとつない闇のなかに身を沈めていた。
椅子に腰掛けたまま微動だにしない。まったくおなじ姿勢を保ったまま、もう一晩中そうしている。
暗闇のなかで何をしているのか?
何もしてはいない――ただ、じっと待っている。
だれに命じられた訳でもなく、少女はこの部屋の主が戻ってくるのを待ちつづけているのだ。
この世の万物に等しく流れるはずの時間は、いまやオルフェウスただひとりを素通りしていくようであった。
しかし、それだけでは説明がつかないこともある。飽きも倦みもせず、ただひとつの行為を継続することは、身体ではなく心に負担を強いるからだ。
辛抱や忍耐、意志力といった月並みな言葉では説明がつかないなにかが少女をそうさせている。
***
あのあと――。
オルフェウスに出撃命令が下ったのは、日没も迫ったころだった。
行き先は西北の戦線。幌馬車に乗り込み、急行する。
全速力で飛ばせば、要塞から戦場までは一時間とかからない。
雪はまだかすかに降り続いていたが、だれも気にかける者はいなかった。
戦場に到着したオルフェウスは、すみやかに
例によって、それはとても戦いとは呼べないものだ。
最初から結果は分かっている。少女にその存在を認識されたとき、すでに戎狄の運命は決しているのだ。
いかなる場合であろうと例外はない――そのはずだった。
前線からもたらされた戎狄の数と、オルフェウスが撃破した数は、何度数えても合致しなかった。
足りないのは一体。
数字の上ではわずかな誤差にすぎない。しかし、対象が戎狄であれば話は別だ。
戎狄はたった一体でも数千人の兵士を殺戮し、堅固な砦を壊滅させることができる。
戦っているうちに見失ったのか? ――そんなはずはない。
まずありえないことだ。オルフェウスが相対した敵を取りこぼすなど。
そうなると、考えられる可能性はひとつだけだった。
そいつは最初からいなかった。
いかにオルフェウスでも、視界外の敵までは追いきれない。
最初からその一体だけが別行動を取っていたなら、足取りをたどる術はない。
しかし――なぜ?
なんらかの目的を持ってその一体だけが集団を離れたのか。
陽動、偵察、撹乱……人間の戦術をもとに
知られているかぎり、戎狄が高度な戦術を用いた例は絶無だからだ。
いずれにせよ、オルフェウスが戦場に留まることが出来る時間はさほど長くない。
火消し役である彼女は、ひとつの戦場だけにいつまでもかかずらっている訳にはいかない。各地の戦線からの救援要請に応じるためにも、戦いが終わったなら早急に要塞に帰還する必要がある。
決して侮ることは出来ない存在であるとはいえ、一体だけであればオルフェウスが追跡を継続するほどのこともない。
戎狄は人間だけを狙う。北方辺境には大勢の兵士たちがひしめいている以上、はるか後方の非戦闘地域まで進出して人間を襲う可能性は低い。
もしどこかの戦線に姿を見せたなら、近傍に配置されている
オルフェウスは馬車に乗り込み、来た道を辿って要塞へ戻る。
周囲はすっかり闇に閉ざされている。彼方にぼんやりと浮かんだ要塞は、青黒い海に浮かぶ奇怪な船を思わせた。
「七体――」
正門を通り抜けたとき、オルフェウスは誰にともなく呟いていた。
出撃から戻るたび、この場所で撃破した戎狄の数を報告することになっていたからだ。
夜更けでも早朝でも、晴れた日も雪の日も、あの人はいつも出迎えに来てくれた。
寒さに耐えながら、微笑んで『おかえり』と言ってくれた。
今日はその言葉もない。
出迎えがなかったからといって、べつにどうということもない。以前はそれが普通だった。いま振り返ってみても、そうであった期間のほうがずっと長いはずだ。
馬車が停まった。オルフェウスは外套を羽織り、フードを目深にかぶる。
兵士たちの目があるところではそうするように言われたからだ。
理由は分からないが、あの人の言うことならきっと間違いないはずであった。
要塞内の部屋へ戻る道すがら、オルフェウスは考える。
――いまごろ、あの人はどこにいるのだろう?
――いつ帰ってくるだろう?
――この空の下で寒い思いをしていなければいい。
考えが一巡したあと、オルフェウスの思考を埋めたのは、まったく別の事柄であった。
ついに見つけられなかった一体の
***
ふいにドアが開いた。
つい一瞬前まで部屋を満たしていた闇がわずかに薄れた。
オルフェウスは押し黙ったまま、視線だけをドアに向ける。
足音と動作のクセから、部屋に入ってきたのがあの人ではないことは分かっている。
知っている人間だ。
「ここで一晩中奴を待っていたのか」
カルルシュは後ろ手にドアを閉めると、蹌踉とした足取りで近づいてくる。
両眼はオルフェウスの真紅の瞳を真っ向から見据えている。
つい一日前、数秒と耐えられずに視線を外した男と同一人物とは思えなかった。
「なんだ、その目は? 俺がそんなに憎いか? まあいい。
はたして、カルルシュはほとんど別人に変じていた。
頬は幽鬼のように削げ、眼窩はすっかり落ち窪んでいる。人間の面立ちは短期間でこうまで変わるものか。精神の極度の摩耗が肉体に影響を及ぼした結果であった。
「奴は――マリウスはもう戻ってこない」
オルフェウスはゆっくりと瞼を閉じる。
「なぜ――」
「……あいつの乗っていた馬車は、予定の時間になっても戻ってこなかった。不審に思って調べさせてみれば、三つめの砦を出たきり消息が途絶えていたことが分かったのさ。迂闊だった。もうすこし早く気づいていれば、もしかしたら……」
カルルシュは壁に近づくと、背中をもたせかかる。
そして、深く長い息を吐いた。
魂のすべてを身体の外に追いやるような呼吸であった。
「馬車は……街道を外れた谷底で見つかった。まったく運の悪い奴だ。視察など、べつにあいつでなくてもよかったというのにな」
カルルシュは焦点の定まらない目をオルフェウスに向ける。
「事故なんかじゃない。あいつは
「――――」
オルフェウスがなにかを言うまえに、カルルシュの拳が振り上げられた。
拳が叩きつけられたのは、少女の美しい顔ではなく、すぐ真横の石壁だった。
皮膚が破れ、赤いものが壁を伝う。カルルシュは痛みなどまるで感じていないように、あくまで淡々と言葉を継ぐ。
「……今日の戦いで一匹取り逃がしたそうだな。話は聞いている。そうでなければ、戦線の後方に戎狄が現れるはずがない」
「それは……」
「もう分かっているだろう? ――奴はお前のせいで死んだ。お前が奴を殺したんだ」
言うが早いか、カルルシュはオルフェウスの肩を力強く掴んでいた。
拳から滴った血が上衣を汚す。白く柔らかな肌に爪が食い込む。
「ああ――やはりお前は
「違う……私は……」
「なにが違う!? お前は所詮人間のなりそこない、人間になりすましているだけの薄汚い戎狄だろうが!!」
怒声とともに、オルフェウスの華奢な身体は壁に叩きつけられていた。
憔悴しきっているとはいえ、大人の男の力だ。人間であれば骨の一、二本も折れていただろう。
「よく聞け――俺が手塩にかけて育てた三百人の部下は、戎狄に一人残らず殺された。この戦いが始まった日のことさ。あいつらは俺の手足も同然だった。手足をもがれたところに、今度はお前たち
オルフェウスは言い返すこともせず、ただ悪罵を浴びている。
白い顔には斑斑と鮮血が飛び散っている。オルフェウスの血ではない。
激しい衝撃が加えられるたび、カルルシュの指の傷はますます開き、血は軍服の袖を赤く染めていた。
「俺はお前たち騎士が憎い。部下だけでなく、この世でたったひとりの
オルフェウスは何も言わない。
相変わらず無表情を保ったまま、少女はむき出しの悪意に身を晒している。
状況に適した反応を収めた引き出しはどこにも見当たらなかった。マリウスはもういない。何が正解かを教えてくれたあの人は、もう。
「どうせ自分は悪くないと思っているのだろう? 理不尽に責める俺を殺したくなっただろう? どうした、遠慮はいらない。やってみろ。お前の本性を暴けるなら望むところだ」
オルフェウスは答えず、ただカルルシュを見つめている。
そして、いまにも消え入りそうな声で呟いた。
「……えて……」
「なんだ? 言いたいことがあるならはっきり言え!!」
「……を、教えて……」
カルルシュはどこまでも澄みきった赤い瞳にそれを見た。
少女が持ち合わせているはずのない感情は、たしかにそこにあった。
「涙の流し方を……教えて……」
どれほど願っても、涙など出ない。
知っている。この両眼は、戎狄と戦うためだけのものだ。
敵を探し出し、殲滅する瞬間を確認出来さえすれば、それで事足りる。
涙を流す機能などもとより必要ない。無駄なものは削ぎ落とされるまでのこと。
最強の騎士であるということは、最強であるために不必要なものの一切を振り捨てることと同義だ。
それでも――と、オルフェウスは思う。
「マリウスは……教えてくれなかった……」
「俺はあいつじゃない。お前に教えることなどなにもない。涙を流したいだと? この期に及んで人間のふりをするな!!」
ふたたび拳を振り上げて、カルルシュは真紅の瞳に映し出されたおのれの姿に気づく。
見知らぬ顔があった。
いつのまにか、溢れた涙が頬を濡らしている。
泣き腫らした瞼、無自覚にこみ上げてくる嗚咽……。
この世で最も完成された存在である目の前の少女がどれほど
「……っ!!」
カルルシュは声にならない声を漏らす。
怒り、あるいは後悔。そのどちらでもあり、どちらでもないように思われた。
そのまま数歩後じさると、軍服の懐に手を差し入れる。傷ついていないほうの手を。
「……これはお前にくれてやる」
取り出したのは、小さく折り畳まれた紙片だった。
ところどころ赤黒い染みが付着している。ほとんど乾きかけた血液であった。
「馬車に積んであったあいつの荷物のなかから見つかった。お前に宛てたものだ。破り捨ててやろうと思ったが、どうしても出来なかった――」
オルフェウスは無言で紙片を受け取る。
「何が書いてあるかは知らん。あいつの考えていることなど俺には分からない。お前がその目で確かめるがいい。あとは捨てるなりなんなり、勝手にしろ」
それだけ言って、カルルシュは足早に部屋を出ていった。
ほとんど逃げるような素早さであった。少女の唇が動いたのを察知したためだ。
何を言おうとしていたかは分かっていた。
その言葉だけは聞きたくなかった。
聞けば、きっとすべてが崩れ去ってしまう。
熾き火のように燃えていた戎狄と騎士への憎しみも。戦友を失った悔恨を抱きながら生きるはずのこれからも。
ドアが閉ざされ、部屋にふたたび静寂と闇が戻った。
オルフェウスは先ほどまでと同じく、身じろぎもせずに闇に佇んでいる。
左肩に残るなまなましい血痕がなければ、カルルシュがこの部屋に来た事実さえ幻と思えたかもしれない。
美しい指が動いた。折り畳まれた紙片をゆっくりと開いていく。
『オルフェウスへ』
白く細い指先が端正な文字をなぞる。
紙の上に刻まれたあの人の名残りを懸命に掬い上げようとしているようであった。
『……君がこの手紙を読んでいる時、たぶん私はあまり好ましくない状況に置かれているのだろう。
だけど、君が気に病む必要はない。軍人になった日から覚悟していたことだ。
もしかしたら、私が君の前からいなくなってしまうことを考えて手紙を書いていることを不思議に思うかもしれない。
自分の口で言えばよかったのにと思うかもしれない。
出来ることなら、私もそうしたい。
けれど、思いを伝えられないまま行ってしまうよりは、あらかじめ書き残しておいた方がずっと後悔が少なくて済む。
もし私がいなくなっても心配はいらない。
私の力などたかが知れているが、それでも君についていろいろと手を尽くしたつもりだ。
何があっても以前のような扱いはさせないと約束する。
君は誰よりも強く、そして優しい子だ。
誰かを傷つけるよりも、自分が傷つくことを選んでしまう。
けれど、それは必ずしも正しいことだとはかぎらない。
どうか自分を大切にしてほしい。
他人に傷つけられたり、嫌な思いをさせられたときは、自分を守るために戦ってほしい。それは決して悪いことなどではないのだからね。
私は君に心があることを知っている。
たとえ表情には出さなくても、私たちと同じように悲しみや苦しみを感じているはずだ。
どんな理由があっても、私は君が傷つけられることを望まない。
もし自分のために戦うということが分からなければ、それでもかまわない。
そのときは君を大切に思っていた者がいたことを思い出してほしい。
少なくともここに一人いる。これからもっと増えるだろう。
自分自身を愛することが出来るようになるまで、君を大切に思っている誰かのために戦えばいい。
誰かのためなら君は戦えるはずだ。
この手紙を読むために必要なことはすべて君に教えたつもりだが、もし理解できないことがあれば、そのままにしておいてほしい。
君は毎日成長している。多くのことを学び、それまで出来なかったことも少しずつ出来るようになっている。
私がそばにいなくても、君は一人の人間として前へ進んでいけるだろう。
だから、きっといつか分かる時が来る。
そのとき、まだこの手紙が君の手元に残っていたら、どうかもう一度読み返してほしい。
十年後でも、二十年後でもかまわない。私はずっと待っている。
どんなに遠く離れても君を見守っている。
君の人生がいつも幸せとともにありますように。
――マリウス』
気づけば、部屋を満たしていた闇はすっかり薄くなっていた。
不純物をたっぷり含んだ板ガラスを通して差し込んだ陽光はにぶく、やわい。
気まぐれな朝の光はたえまなく揺れ動き、手紙の上にぽつぽつと不揃いな斑を落とす。
冷たい紙に宿ったわずかなぬくもりは、陽射しを受けたためか。少女の掌はそうではないことを知っている。
オルフェウスは手紙を胸に押し付ける。
見えない引き出しはもはやどこにもない。言葉は心の奥底からひとりでに湧き上がってくる。
「……ありがとう」
いつまでも、いつまでも、少女は小さな紙片を抱きしめていた。
***
はるか天上で星がまたたいていた。
いま、またひとつの戦いが終わった。
少なくない犠牲と引き換えに、人間は今日も薄氷を踏むような勝利を重ねたのだった。
一つひとつは小さな勝利にすぎない。
この戦争に終わりがあるとすれば、日々の勝利を積み重ねていくことでしか辿り着けないはずだった。
雪原に横たわる
その傍らに佇むのは、真紅の装甲をまとった異形の騎士であった。
遠くから数人の兵士たちが近づいてくるのがみえた。
「……あんた、おれたちを助けてくれたのか?」
年かさの兵士の声はわずかに震えていた。
真紅の異形は否定も肯定もせず、ただ踵を返しただけだ。
「おかげで助かった。もう駄目かと思ってたが……」
異形の背中は、兵士の目の前で少女の姿に変わっていった。
「なあ、礼を言わせてくれ! これでまた家族に会える!」
少女はやはり答えない。
戦場からすこし離れた道で待機する馬車にむかって、ただ黙々と歩きつづける。
少女の任務はこれで終わりではない。次の戦場が彼女を待っている。
兵士たちの歓呼の声は次第に大きくなった。口々に感謝の言葉を叫んでいる。
彼らが興奮しているのも当然だ。戎狄によって蹂躙され、もうすこしで部隊は全滅していたところなのだから。
絶望に覆われた戦場に降り立った真紅の騎士は、まさしく神が差し伸べた救いの手だった。
「あんたはおれたちの命の恩人だ! せめて名前を教えてくれないか!?」
少女は足を止めた。
身体は前を向いたまま、顔だけで振り返る。
亜麻色の長い髪が揺れた。装甲とおなじ真紅の瞳が兵士たちを見つめている。
呆けたように立ちつくす彼らにむかって、少女は短く告げたのだった。
「――オルフェウス」
美しい後ろ姿が遠ざかっていくのを、兵士たちはただ呆然と眺めていた。
馬車に揺られながら、オルフェウスは夜空を見上げる。
満天に散りばめられた無数の星のなかでも、ひときわ明るい星がひとつ。
この世界は小さなものが寄り集まって出来ていて、その一つひとつには名前がある。あの人が教えてくれたことだ。
あの星にも、きっと名前はあるのだろう。
けれど、あの人に尋ねることはもう出来ない。
それでもいい。
一人の人間として生きていくこと。自分の力で前へ進むこと。
もう昔の自分ではない。変わってしまったのだ。そして、これからも変わってゆく。
――ありがとう。そして、さよなら。
――私を人間にしてくれたひと。
【完】
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