第121話 死糸の操手
三色の光芒が闇にまたたいた。
真紅の騎士と真っ向から対峙するのは、紫と橙色の騎士であった。
河原で激しい戦いが繰り広げられるのに並行して、アーチ橋の上でも三人の騎士の死闘が続いている。
橋面の幅はざっと十五メートルあまり。戦場としては十分すぎるほどに広い。
エリスとカドライは左右に分かれ、オルフェウスを挟撃する態勢を取る。
「エリスの姐御、まずは俺に任せてくれ」
カドライはエリスを一瞥すると、語気強く言った。
「この女に速さでは俺のほうが上だってことを教えてやる――」
言い終わるが早いか、橙色の装甲がじわりと闇に滲んだ。
加速に入ったのだ。
いったん加速に入れば、もはや目と耳は使えなくなる。
そのため、加速能力を持つ騎士は敵の動きを先読みし、あらかじめ動作を
ともに加速能力を持つ両者の戦いは、いわば先の読み合いとでも言うべきものだ。
当然、先手を取ったほうが圧倒的な優位を得る。
仮にオルフェウスがいまこの瞬間に加速を開始したとしても、カドライが有利であることには変わりない。実時間ではゼロコンマ秒単位の差でも、加速に入った騎士の体感時間においては数百倍にも引き伸ばされる。カドライがどこに身を置き、いかなる攻撃を仕掛けてくるかは、オルフェウスには見当もつかないはずだ。
オルフェウスがようやく加速に入ったとき、カドライはすでに攻撃に移っていた。
左脚のプラズマ・ジェネレーターが夜気を噛み、あざやかな電閃が迸る。超高温のプラズマ刃が接触すれば、オルフェウスの装甲は紙を裂くみたいに切り刻まれるだろう。
あらゆる事物が停止する凍てついた時間のなか、真紅と橙色の影が交錯する。
勝負は一瞬。
どちらも何も見えず、何も聞こえないまま、須臾の間に勝敗は決する。
オルフェウスとかドライはほとんど同時に加速を解いた。明暗は自明であった。
「くっ――!!」
カドライは苦しげな声を漏らすと、右肩を抑えてうずくまる。
つい一瞬前までそこにあった装甲はごっそりと消失している。損傷は装甲を消し去っただけでなく、肩の
”破断の掌”――オルフェウス最大の武器。
たおやかな手には左右合わせて十六兆もの微細な刃が敷き詰められ、触れただけであらゆる物体を消滅させる。
オルフェウスはゆっくりと振り返る。
真紅の装甲は相変わらず美しく、冴え冴えと赤光を散らしている。透き通った表層には小傷の一つも見当たらない。
わずかに遅れて加速に入ったにもかかわらず、オルフェウスは完全にカドライの攻撃を捌ききり、さらには
「オルフェウス!! テメェ、よくも……!!」
カドライは血を吐くように叫ぶ。
後手に回った不利を覆したのは、両者の演算能力の差だ。
オルフェウスはカドライの攻撃軌道を的確に予測し、最小限の動作で回避に成功した。手足をわずかに動かすだけであれば、ほんの一瞬あれば事足りる。あえて先手を取らせたことも含めて、すべてはオルフェウスの計算通りに推移したのだった。
「……あなたは私に勝てない」
玲瓏な声が紡ぐのは、どこまでも非情な宣告だった。
「このクソ
「諦めたほうがいい――何度やっても同じだから」
「ナメやがって……!!」
ふたたび加速に入ろうとして、カドライは足を止めた。
左肩に紫の指がかかっていることに気付いたためだ。
「エリスの姐御、なぜ止める!? このまま引き下がれるかよ!!」
「やめな、カドライ。さっきの戦いで受けた傷が治りきってないんだ。無理をするんじゃないよ」
「いくら姐御の言うことでも、今度ばかりは我慢がならねえ!!」
カドライは振り払おうとして、その姿勢のまま硬直した。
体格はエリスのほうが一回り以上小さい。膂力でもカドライに分があるだろう。
それにもかかわらず、カドライはまるで蛇に睨まれた蛙みたいに萎縮しきっている。
「どうしても私の言うことが聞けないのなら、従わせるまでだよ」
「ま……待ってくれ。すまねえ、姐御。俺が悪かったよ……」
「いい子だ」
エリスはカドライをぐいと背後に押しやると、
「ここからは私が相手をしよう。お手柔らかにね、お嬢さん――」
オルフェウスを真正面に見据えて、不敵に言い放った。
そして、右手を胸の高さに掲げると、誘うように手招きしてみせる。
「どこからでもかかっておいで」
オルフェウスは答えない。
真紅の輪郭が見る間に闇に溶けていく。加速に入ったのだ。
加速能力を持たないエリスは、オルフェウスの疾さに追随することは出来ない。
ただ漫然と”破断の掌”が襲いかかるのを待つだけだ。オルフェウスがその気になれば、次の瞬間にはこの地上から塵も残さず消滅していたとしても不思議はない。
と、オルフェウスがふたたび姿を現した。
エリスのやや後方で膝を突いていたオルフェウスは、右の前腕をそっとなぞる。
真紅の装甲に刻まれていたのは、なんとも奇妙な傷だった。
前腕部の装甲には賽の目状の深い切れ込みが走っている。切り立った断面は、鋭利な刃によって斬り刻まれたことを示している。
「さすがと言っておくよ。ギリギリで踏みとどまるとは、いい勘をしてる」
エリスは口惜しがるでもなく、あくまで飄然と言いのける。
そして、そのままオルフェウスに向き直ると、
「でも、二度目も上手くいくかどうか――」
さえずるように囁いたのだった。
オルフェウスの身体が沈んだのは、その瞬間だった。
意図した動きではない。何かを避けようとして、とっさに姿勢を低くしている。
そうするあいだにも、オルフェウスはほとんど這いつくばるような格好になっている。
透き通った装甲の表面に無数の線傷が浮かび上がった。一つひとつは浅いが、切り口は鋭い。硬質の装甲をものともせず、傷はひとりでに深くなっていく。
このまま放置すれば、いずれオルフェウスの五体は細片に斬り刻まれるにちがいない。
それにしても――あらゆる方向から同時に斬りつけられているのは奇妙であった。
エリスの指がかすかに動いた。
それを横目に見るオルフェウスは、むろん知る由もない。
エリスの指先から伸びた極細の鋼糸が自分の周囲に十重二十重に張り巡らされていることを。
そして、エネルギーを流し込まれたことで切断力を帯びた鋼糸がじわじわと四方から迫りつつあることを。
糸はオルフェウスを包み込むように緊密に交錯し、どう足掻いても逃れる術はない。”破断の掌”で糸を断ち切ろうにも、手を差し出した瞬間、赤く美しい繊手は原型を留めないほどに破壊されるはずだ。
まさしく不可視の檻。
ひとたび捕らえられたが最期、獲物は何が起こったかも分からないまま全身を刻まれ、惨死を遂げるしかない。
エリスが織りなす恐るべき糸の結界のなかで、オルフェウスは絶体絶命の窮地を迎えようとしている。
「いい加減に観念することね。無駄な抵抗は苦しみが増えるだけ。おとなしくしていれば、せめて楽に死なせてあげる」
哀れみと嘲りが入り混じった声色でエリスは言った。
すでに決着はついた。あとは、ほんのすこし糸を操る指に力を込めるだけでいい。
ただそれだけで、地に伏した紅騎士はたちまちに分解される。
最強の一角に数えられる騎士を殺した記念に、ひとつくらい持ち歩くのも悪くない――勝利を確信したエリスは、敗者を前に残酷な空想に興じる。
オルフェウスの無貌の面に白光が走ったのはそのときだった。
同時に、ほとんど寝転がるような姿勢で橋面に伏していた身体がさらに沈み込んだ。
石造りの橋は泥土と化したようにオルフェウスを飲み込んでいく。
「何のつもりか知らないけれど、無駄なことを!!」
エリスが糸の包囲を一気に狭めたときには、真紅の騎士の姿はすでになかった。
潜ったのだ――橋の
オルフェウスはうつ伏せになりながら、”破断の掌”を橋面にぴたりと張り付け、そのまま能力を発動させた。
さらに、加速能力を同時に使用することで、一瞬のうちに退避空間を作り出したのだった。
不審な動きを見せればすぐさま切り刻むつもりだったエリスも、加速中の動作までは追いきれない。
糸の結界に囚われてからいまこの瞬間まで、オルフェウスはじっと動きを止めていたとしか見えなかったはずだ。
まんまと謀られたことを知ると、エリスはすぐさま糸を指先に戻す。
「小癪な真似を――!!」
エリスはみずからの周囲に糸の結界を再構築する。
先手を打って不可視の刃を配置することで接近を阻もうというのだ。もしうかうかと近づけば、エリスが手を下すまでもなく、オルフェウスは自滅することになる。
蜘蛛の糸よりなお細く、研ぎ澄まされた刃よりいっそう鋭い鋼糸は、いまや遅しと獲物の到来を待ち構えている。
「エリスの姐御!! 下だ!!」
カドライが叫んだのと、二人の足下の橋面が裂けたのは、ほとんど同時だった。
建造以来、数百年の歳月に耐えた頑強な石造りの橋は、まるで木細工の玩具みたいに崩れ始めた。
オルフェウスは奇襲を仕掛けるのではなく、橋の内部に潜行したまま、アーチ橋そのものを破壊したのだった。
落下する残骸の合間を縫うように、真紅の隻影が飛び出してくる。
オルフェウスの目は、足場を失って宙に投げ出されたエリスとカドライを捕捉していた。
真紅の騎士は間髪をいれずに加速に突入する。
轟然と鳴り渡っていた破壊音も、黒く広がっていた夜闇も、宇宙創生からたゆみなく流れ続けているはずの時間さえもが等しく凍てついていく。
降り注ぐ大小の残骸は言うに及ばず、落下した破片がはね上げた水しぶきの一滴さえ、空中に固定されたみたいに動かない。
絶対の静寂と闇とが支配する氷の世界を、オルフェウスはひたすらに駆ける。
破片から破片へと軽やかに飛び移りながら、右手を掲げる。”破断の掌”を作動させたのだ。
橋の内部を掘り進んだことでだいぶ消耗しているが、カドライとエリスを葬り去るには十分だ。
加速が終わり、世界に音と光と正常な時間の流れが戻る。
すでに決着はついている。オルフェウスの攻撃は過たず二人を葬り去ったはずだ。
オルフェウスは橋の破片の上に立ちながら、周囲を見渡す。
エリスとカドライの姿はどこにも見当たらない。
”破断の掌”で塵も残さず消滅したのか? ――ありえないことだ。
二人の身体をすっかり消し去るには多大なエネルギーを必要とする。オルフェウスは力を抑制していたこともあり、身体の大部分は残っているはずであった。
「やってくれるね――」
闇の奥から声が投げかけられた。
オルフェウスのいる場所から三十メートルほど離れた川の中州に、紫と橙色の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
エリスとカドライであった。
オルフェウスが加速に入るのを見計らって、カドライもエリスを連れて加速に入り、危ういところで難を逃れていたのだった。
「私としたことが、あんたをすこし甘く見ていたようだ。まさかカドライに危ないところを助けられるとはね」
「気にするなよ――――ただ、これ以上はきついかも……しれねえ……」
絞り出すように言うと、カドライはがっくりと膝を突く。
連戦のダメージと加速によるエネルギー消耗が重なり、もはや立っていることさえままならないほど疲弊しているのだ。
「すまねえ……姐御……」
「あんたはそこでしばらく休んでな」
「だが、エリスの姐御一人じゃ……あいつには……」
「まだ奥の手があるさ」
エリスはいかにも意味深長な風に呟くと、オルフェウスに向き直る。
「さて……あんたもだいぶ疲れているみたいだね。カドライと同じであまり長い時間は戦えないんだろう?」
オルフェウスは無言のまま、エリスとカドライをじっと見つめている。
「もう少し力を使わせれば、あんたは何も出来なくなる」
言って、エリスは左手を頭上に掲げると、くいと人差し指を折り曲げてみせる。
それが合図だったのか、橋の手前に停車していた馬車の荷台から、黒い影が飛び出した。
見る影もなく破壊されたアーチ橋を駆け抜け、影はエリスとカドライのいる中洲へと降り立つ。
「ここに来る途中で面白い玩具を見つけてね。あんたにはすこしこいつと遊んでもらうよ。……さあ、行っておいで」
エリスに促され、影は無言のまま進み出る。
川面を挟んであらたな敵と対峙したオルフェウスは、我が目を疑った。
全身を覆う漆黒の装甲。
両手首からすらりと伸びた双槍。
よく見知ったその姿を見間違えるはずもない。
「アレクシオス――――」
返答の代わりとでも言うように、暗闇に虚ろな赤光が灯った。
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