第122話 私が守るから
「どうして――」
オルフェウスの声はかすかに震えていた。
アレクシオスはやはり押し黙ったまま、ゆっくりと一歩を踏み出す。中洲の近辺には浅瀬が広がっているらしく、水は膝下を洗うばかりであった。
そのまま数歩進んだところで、水面が激しく乱れた。
アレクシオスが
黒騎士は轟音とともに川底を蹴り、オルフェウスめがけて躍りかかる。
闇に銀光を散らして
鋭い槍先が紅の装甲を抉る直前、オルフェウスはとっさに川の中に飛んでいた。
着地の際に姿勢が崩れたのを好機と見たか、アレクシオスは畳み掛けるように猛攻をかける。
オルフェウスは反撃に転じることもないまま、じわじわと後じさる。いかに最強の騎士といえども、大小の石や流木が散乱する川の中では、本来の機動力を発揮することは出来ない。
それ以上に、アレクシオスの真意が明らかでないことがオルフェウスを躊躇わせているのだった。
――なぜ?
問うたところで、答えが返ってくるとは思えなかった。
激しく水を蹴立てて、黒と紅の騎士は終わりの見えない攻防を繰り返す。
アレクシオスの攻めは苛烈を極めた。
槍牙が猛然と突き出されたかと思えば、拳と蹴りとが同時に襲いかかる。
正確無比で強力な攻撃。すべての動作が闘技場で戦ったときよりもずっと洗練されている。
それでも、その一挙一動には強烈な違和感がつきまとう。
絶えまなく仕掛けられる攻撃を捌くオルフェウスの心中には、ふつふつと疑念が湧き上がっている。
ひとことで言えば、「らしくない」のだ。
戦い方には各人の個性が反映される。
オルフェウスにはオルフェウスの、イセリアにはイセリアの、そして、アレクシオスにはアレクシオスの特有の身のこなしがある。
手足の動かし方ひとつ取っても、身体に馴染んだ癖は一朝一夕に変えられるものではない。たとえ相手の顔が見えなくても、体捌きを見れば誰と戦っているかの見当はつく。
一度戦ったことのある相手であればなおさらだ。
いま対峙している相手は、アレクシオスであってアレクシオスではない。オルフェウスは、そんな奇妙な感覚を抱かずにはいられないのだった。
とはいえ、その疑念を裏付けるなんらの確証がある訳ではない。
アレクシオスを力ずくで抑え込もうにも、単純な膂力に関してはオルフェウスが不利だ。一時的に制圧に成功したところで、そう長くは持たないはずだった。これまでの戦いでエネルギーが払底しかかっていることを考えれば、消耗を避け、ひたすら回避に徹することこそが最善策であった。
「いつまで踊っているつもり? ――時間稼ぎをしようというなら、無駄なことだよ」
二騎の戦いを眺めながら、エリスは嘲弄を隠そうともせずに言い放つ。
その瞬間、紫の指が奇妙な動きを示したのをオルフェウスは見逃さなかった。
――操られている。
根拠など何もない。
身も蓋もなく言ってしまえば、たんなる勘だ。
しかし、アレクシオスの不可解な行動を説明するには、それが最も腑に落ちるように思われた。
エリスはなんらかの方法でアレクシオスを操り、自分と戦うように仕向けている。オルフェウスは、もはや自分の直感を疑おうとはしなかった。この状況ではわずかな逡巡が命取りになる。
外部から身体を操られているのであれば、アレクシオス本来の戦い方からかけ離れた動きを見せているのも合点がいく。
ならば――と、オルフェウスはエリスのほうに向き直る。
アレクシオスを傀儡の
加速能力と”破断の掌”を同時に使用するだけのエネルギーはまだ残っている。正真正銘、最後の一回であった。
幸いカドライはいまだ膝を突いたまま動けずにいる。オルフェウスがその気になれば、エリスを葬り去ることは十分に可能なはずだった。
「残念だが、あんたが何を考えているかくらいお見通しだ。……よく見るがいい」
エリスの右腕がふいに動いた。
オルフェウスはおもわず身構えるが、エリスは相変わらず凝然と立ち尽くすばかり。
金属と金属がかち合う軽妙な音が生じたのはそのときだった。
ゆっくりと振り返ったオルフェウスの目に映ったのは、槍牙を自分の胸に当てたアレクシオスの姿だった。
鋭い槍先はわずかに装甲を抉っている。もう少し力を込めれば、たやすく胴体を貫くだろう。
胸郭内には
騎士がおのれの胸を貫くことは、とりもなおさず死を意味するのだ。
「これで分かっただろう? ……もし私が死ねば、そいつは自分で自分の胸を貫く。そういうふうに命じてあるんだよ。嘘だと思うならやってみるがいい」
凍りついたみたいに身動きひとつ取れなくなったオルフェウスにむかって、エリスはなおも嘲りの言葉を投げかける。
「そいつがあんたの大事なお仲間だということは分かっている。記憶を読ませてもらったからね。そいつはあんたを殺せるが、あんたにそいつは殺せない。」
言い終わる前に、紫の騎士は手首を返していた。
それが攻撃再開の合図だと理解したのは、アレクシオスが飛びかかった後だ。
アレクシオスの手はオルフェウスの両肩を引っ掴み、そのまま力任せに押し倒す。
消耗しきった身体で加速能力を使う訳にもいかず、真紅の騎士は為す術もなく川底に叩きつけられる。
暦の上はすでに初夏とはいえ、川を流れる雪解け水はいまなお真冬の名残りを留めている。オルフェウスの脳裏をよぎったのは、やはり冷たく暗い水のなかに沈められた遠い日の記憶だった。
いつのまにか、アレクシオスはオルフェウスの両肩を押さえ込むように馬乗りになっている。
オルフェウスは両手の自由を完全に封じられた格好になる。”破断の掌”はおろか、振り払うことも出来そうにない。
澄んだ水を隔てて赤光が不規則にまたたいた。
そのさまは何かを必死に訴えているようであり、自分ではどうすることも出来ない殺意に狂っているようでもあった。
――泣いている。
無貌の面を流れていく赤色は、オルフェウスの目には少年の流す血の涙として映った。
アレクシオスは自分の意志を封じられ、戦いの道具として使役されている。その悔しさ、その無念さは、オルフェウスにも痛いほどに分かる。
――おなじだ。あのときと。
それは忘れもしない、東方辺境の闘技場でのこと。
あの夜、邪悪な思惑が充溢した殺戮遊戯の盤上で、二人は初めて出会った。
あのとき、アレクシオスは州牧パトリキウスの傀儡として望まぬ戦いに赴いていた。オルフェウスもまた、州牧の真の目的など知る由もないまま、ただ命じられるままに見世物に甘んじていた。
本来なら戦う理由など何一つない少女と少年は、どちらも卑劣な策略に踊らされ、命がけの死闘を演じたのだった。
闘技場の一件で忸怩たる思いを抱いたのは、アレクシオスだけではない。
もう一方の当事者であるオルフェウスの胸にも、静かな
エリスによって操られるアレクシオスを目の当たりにしたことで、くすぶっていた心の熾火は、激しい炎となって少女の身を灼いている。まさに尽きようとしていた力さえ、身体の奥底から沸き起こってくるようであった。
――待っていて。
水中に沈められたまま、オルフェウスはちいさく呟く。
アレクシオスの耳に届いているかどうかは問題ではなかった。
自分の胸に槍牙を突き立てようとする黒騎士を見据えて、オルフェウスはなおも宣誓する。
――いま、私が助ける。
***
「何をするつもり?」
エリスは水中の二人に訝しげな視線を向ける。
実際に目にするまでもなく、視線の先で何が起こっているかは手に取るように分かる。
アレクシオスの視覚器を通してオルフェウスの姿をはっきりと視認しているためだ。
エリスが作り出した極細の糸はアレクシオスの神経伝達システムを
アレクシオスの視界のなかで、真紅の騎士は奇妙な動きを見せている。
身をよじって槍牙の刺突を躱しているのは先ほどと同様だが、オルフェウスの身体は徐々に川底に沈み込んでいるようであった。
砂泥のなかに身を隠そうというのか?
つい先刻もオルフェウスは橋の
それだけはなんとしても阻止しなければならない。
あと一歩というところまで追い詰めておきながら、二度までも取り逃がしたとなれば、エリスとしてもヘラクレイオスに顔向けが出来なくなる。
自分一人がいれば十分だと言わんばかりのヘラクレイオスの鼻を明かすどころか、その言葉の正しさを裏付けることになるのだから。
エリスはカドライのようにヘラクレイオスに心酔している訳ではない。たとえ最強の騎士でも、あからさまに見下されることは耐えがたい屈辱だった。
「悪いけど、あんたの思い通りにはさせないよ」
冷えきった声でエリスが呟くと、アレクシオスの腕が動いた。
今度こそ槍牙をオルフェウスの胸に突き立てようというのだ。
最強の一角といえども、
この期に及んでなおアレクシオスへの攻撃を躊躇っているのも好都合だ。
反撃を恐れることなく、一方的に攻撃を仕掛けることが出来る。
「――これで終わりにしてあげる」
オルフェウスの身体が砂泥に沈んだのを見計らって、エリスはあくまで冷酷に命じる。
手応えはあった。
アレクシオスの感覚は糸を通してエリスにも伝わっている。
突き込んだ槍牙の先端は、たしかに硬質の物体を貫いたはずであった。
戦果を確認しようにも、巻き上げられた砂泥が
濁った水中に白光が浮かび上がったのはそのときだった。
「なに――!?」
アレクシオスの顔に真紅の腕が伸びる。
エリスが避けようと思ったときには、もう手遅れだ。糸を介したわずかな
オルフェウスは
派手な水音を立てて落下したアレクシオスを、エリスとカドライは呆然と見つめている。
「エリスの姐御、ありゃどうなってるんだ!?」
「そんな……馬鹿な……!! たしかに仕留めたはずなのに、なぜ動いている!?」
あのとき――。
オルフェウスは、背中越しに川底に埋没した巨岩を察知していた。
背面の装甲を振動させ、砂泥に身を沈めていったのは、アレクシオスから逃れるためではない。
むしろその真逆だ。
オルフェウスは巨岩が露出するぎりぎりのところで回避に転じ、槍牙を岩に突き込ませることに成功したのだった。
すべてはエリスを欺くために。
そして、アレクシオスを傀儡の呪糸から解放するために。
計略は奏功し、エリスはまんまとオルフェウスを倒したものと錯覚した。
両肩への拘束が緩んだ一瞬を衝いて、オルフェウスはアレクシオスを投げ飛ばすことに成功したのだった。
「……私を謀ったのか? やってくれるじゃないか!!」
怒声とともに、エリスは右手を突き出す。
アレクシオスに攻撃を命じたのだ。エリスの指先から伸びた見えざる糸は、黒騎士の五体に決して抗えない命令を送る。
刹那、轟音とともに川面があかあかと染まった。
大きく展開した装甲の下、むき出しになった両脚の
エリスに操られるがまま、アレクシオスは再度の攻撃を敢行する。
一方、浅瀬に上がったオルフェウスは避けることもせず、呆けたように立ち尽くしている。
体内のエネルギーは完全に底をついている――力なく両腕を垂らしたオルフェウスの姿は、エリスの目にそのように映った。
槍牙が届くかという瞬間、オルフェウスの腕が動いた。
それに同調するように、周囲のあらゆる事物がことごとく動きを止めていく。
加速能力を用いたのだ。止まった時のなかで実行される神速の挙動は、オルフェウス以外の誰にも認識することは出来ない。
紅の繊手はアレクシオスの胸部装甲に触れると、さしたる抵抗もないまま胸郭内に侵入していく。
やがてオルフェウスが加速を停止すると、紅と黒の騎士はふたたび通常の時の流れに回帰する。
どちらもほんの一瞬前とはまるで異なる姿勢を取っていた。
アレクシオスの身体はオルフェウスの腕に貫かれ、百舌の
目の前の信じがたい光景に、エリスとカドライも驚きを隠せないようだった。
「へえ、殺したの? ……仲間同士の情も大したことはなかったようだね」
「……違う」
「何を言って――――」
言いさして、エリスはおもわず右手に目を落とす。
はっきりと違和感を自覚したためだ。糸を通して完全に掌握していたはずのアレクシオスの身体感覚は、急速に遠ざかっていくようであった。
糸が断ち切られた――ありえないことだ。
「こんなことが……あるはずがない……!!」
エリスは右手を力強く握り込む。
アレクシオスに今度こそとどめを刺すように命じているのだ。
オルフェウスは加速能力と”破断の掌”を同時に使用したことで、いよいよエネルギーが払底したようだった。力なく膝を折り、腹のあたりまで川に浸かっている。
アレクシオスはずるりと腕を引き抜くと、あらためて槍牙を構え、オルフェウスめがけて振り下ろす。
風を巻いて急迫する槍先を前にしても、オルフェウスは微動だにしない。
端然たる佇まいは、避けようのない死を従容と受け入れているようでもあった。
眇眇たる風が川面を吹き渡っていく。
風鳴りをかき消すように、金属と金属を打ち合わせる音が響きわたった。
「なぜ……!? どうやって私の支配を……!!」
エリスの声には驚愕と狼狽が滲んでいる。
それも道理であった。
オルフェウスの胸を深く穿孔するはずだった槍牙は、虚しく空を切った。
命中の寸前、アレクシオスは左右の腕を交差させるように叩きつけ、強引に軌道を修正したのだ。
むろん、エリスがそうするように仕向けた訳ではない。
一連の動作を引き起こしたのは、まぎれもなくアレクシオス自身の意思だ。
エリスは知る由もない。
あの瞬間、アレクシオスの胴を貫いたオルフェウスの手は、
生命を奪うためではなく、絡みついた縛めの糸を断ち切るために。
アレクシオスの全身を侵したエリスの糸は、最終的に最も重要な一点に集約されることをオルフェウスは見抜いたのだ。
いずれにせよ、危険な賭けであることには変わりない。わずかでも手元が狂えば、アレクシオスの全機能は永遠に停止していただろう。
「アレクシオス……」
オルフェウスは水中にへたり込んだまま、消え入りそうな声で呼びかける。
返答はない。
まだ声を取り戻すには至っていないようであった。
それでも、アレクシオスの身体に兆した変化を、オルフェウスはたしかに認めていた。
ゆるやかに無貌の面を流れる赤光は、もはや血涙ではなかった。
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