第123話 黄金の剣(前編)
巨拳が振り下ろされるたび、風は悲壮な叫び声を上げた。
黄金と瑪瑙色の装甲が闇に踊る。間一髪のところで破壊を免れた二騎は、ほとんど同時に後方に飛び退いていた。
戦いが始まってからまだ五分と経っていない。
それでも、タレイアとアグライアにとって永遠にも等しく感じられるのは、ヘラクレイオスを前にしている威圧感のためだ。
ヘラクレイオスの全身からは凄まじい鬼気が絶えまなく発散されている。
けっして見えないはずの気は黒々と渦を巻き、時に業風となって激しく吹き荒れる。
その瞬間、対峙する者の胸裡をよぎるのは、まぎれもない死の予感だ。
いかに
「……いつまでそうしているつもりだ」
重々しい声でヘラクレイオスが呟いた。
姉妹は攻撃を躱しながら、五十メートルあまりも離れた川岸まで後退している。
アグライアの『子機』がことごとく破壊されてからというもの、どちらも攻撃に出ることなく、ひたすら回避に徹しているのだった。
恐怖に気圧されたゆえの逃亡ではない――それはヘラクレイオスにも分かっている。
一見すると無軌道にみえるタレイアとアグライアの動作から、最強の騎士は策略の匂いを嗅ぎ取っていた。どちらもただ逃げ回っているのではなく、なんらかの目的を持って間合いを取っているのだ。
「逃げ回ったところで勝てる訳ではあるまい」
「どうかな」
タレイアは一歩前に進み出る。
音もなく構えを取ったあと、ヘラクレイオスをまっすぐに見据えると、
「あいにくだが、そうやすやすと倒されてやるつもりはない。楽に勝てるなどとは思わないことだ――」
言い終わるが早いか、タレイアは勢いよく地面を蹴っていた。
まさしく飛ぶような疾駆。彼我の距離をものともせず、瑪瑙色の騎士は一気に間合いを詰める。
ヘラクレイオスの内懐まであと一歩というところで、タレイアは真横に飛んだ。
ほとんど反射的な動作であった。もしあと一呼吸でも反応が遅れていれば、横薙ぎに襲いかかった拳の直撃をもろに受け、五体は跡形もなく破壊されていたはずだ。
いかに盾の騎士とはいえ、ヘラクレイオスの攻撃を受け止めるのは愚策中の愚策だ。
すでに大盾の一つを破壊されている。幸いにもその程度で難を逃れたが、次は盾一つの犠牲で済むという保証はない。
たたらを踏むようにすばやく後じさりながら、タレイアの目は依然としてヘラクレイオスに向けられている。
あえて見比べるまでもなく、両者の体格差は歴然たるものだ。
タレイアも戎装騎士としては決して小柄なほうではないが、ヘラクレイオスがあまりにも常識はずれの巨躯を持つがゆえに、まるで子供と大人みたいにみえる。
身体の大きさだけで膂力を推し量ることは出来ないとはいえ、タレイアの不利は誰の目にもあきらかだった。
まともに戦えば、まず勝ち目はない。
「――行くぞ!!」
先の動いたのはタレイアだ。
大盾を身体の前面に掲げながら、ヘラクレイオスめがけて猛然と突進する。ほんの一瞬まえ、危うく死の淵を覗いたとは思えない果敢な動きであった。
もっとも――この場合、タレイアの行動は蛮勇と言うべきだろう。
いくら防御を固めたところで、ヘラクレイオスの攻撃を防ぐことは不可能だ。
かといって、攻撃に際してなんらかの方策を講じた形跡も見当たらない。
何の手立てもないまま、いたずらに拳の制空権に飛び入る行為は、まさしく自殺行為というほかない。
ヘラクレイオスの右腕が動いた。
五指を硬く握り込み、ただ無心に目の前の敵へと振り下ろす。
華やかな技や驚天動地の能力とはおよそ無縁の一撃は、しかし、他のどんな騎士が繰り出す攻撃よりも重く、そして
巨拳が叩きつけられた瞬間、タレイアの身体は微塵に粉砕され、瑪瑙色の残滓となって夜の河原に降り注ぐはずであった。
「――――」
一瞬のちに
ヘラクレイオスの拳は、タレイアの身体に触れる寸前で静止している。
奇妙な構図であった。
タレイアは拳に触れることなく、両手はヘラクレイオスの手首を包み込むようにゆるやかな円を描いている。
風が何度傍らを吹き抜けても、二人の騎士はやはりおなじ姿勢を保ったままだ。
言うまでもなく、みずからの意思でそうしている訳ではない。
山を抜き、大地を割るヘラクレイオスの桁外れの怪力をもってしても、タレイアにはそれ以上近づけないのだった。
「どうだ? ヘラクレイオス。いくら貴様でも、こうなっては一歩も動けまい!!」
タレイアは巨体を前にしても一向に物怖じすることなく、凛とした声で大喝する。
「貴様はまんまと私の術中に嵌った。もう逃さん」
「……ほう……」
「私の真の力、とくと味わえ!!」
タレイアは両手の円を徐々に狭めていく。
ごきり――と、何か硬質の
ヘラクレイオスの拳から生じた音であった。
灰白色の装甲に覆われた五指からは、血よりもなお赤黒い液体が漏れ出している。堅牢極まりない巨拳は少しずつ、しかし確実に圧潰しているのだ。
「ぬう……」
タレイアの両腕には、斥力
互いに反発しあう力場を司るタレイアは、いま、その能力をまるで逆に作用させているのだ。
両手が描く円の半径内に強大な引力圏を発生させることで、その中間に存在する物質を押し潰す。質量を持たない力場であるがゆえに、いかなる防御も素通りして、ヘラクレイオスの重装甲を圧し潰そうとしている。
これこそがタレイアの秘策であった。
ヘラクレイオスの攻撃を真正面から受け止め、その動きを完全に封殺する。
”盾”のタレイアがもつ最大の防具は、最大の武器へと用途を変え、眼前の敵に牙を剥いたのだった。
みずからの腕が破壊されつつあるにもかかわらず、ヘラクレイオスは慌てる素振りもない。
こともなげにもう一方の腕を振り上げると、タレイアめがけて叩きつける。
ヘラクレイオスは引力圏が両手の間だけにしか存在しないことをはやばやと見抜いている。円の半径に立ち入らないかぎり、自由を奪われる心配はないことも、また。
なにより、この体勢で身動きが取れないのはタレイアもおなじだ。
左腕が動かせる分、ヘラクレイオスのほうがまだしも有利とさえいえる。
左の拳が叩きつけられようかという瞬間、タレイアの両肩を覆う大盾が同時に上がった。
耳を聾する衝突音が響きわたり、盾を支持する副腕がみしみしと悲鳴を上げる。
すでに大盾の一方はほとんど破壊されている。残る一方も、ヘラクレイオスの攻撃を受け止められるのは、多く見積もってあと数回が限界であるはずだった。
ヘラクレイオスにしてみれば、腕一本を犠牲にして敵を葬り去ることが出来るなら躊躇う理由はない。たとえ隻腕になったとしても、灰白色の巨人の戦闘力には寸毫ほどの影響もないはずだった。先ほどから呆然と戦いを見つめているアグライア、そしてオルフェウスを葬り去るには、左腕だけで事足りる。
絶望的な戦いに差し込んだ一筋の光明は消え失せ、戦況はふたたびタレイアの不利へと傾きつつある。
「……勝ったつもりか? ヘラクレイオス――」
大盾の下から聞こえてきたタレイアの声は、しかしあくまで不敵だった。
「もしそう思っているなら、大間違いだ」
挑発するような物言いは、避けられない敗北を前にして捨て鉢になっているためか。
虚勢ではないことは、戦いのもう一方の当事者であるヘラクレイオスにははっきりと分かる。
タレイアの言葉には、おのれの勝利を確信した者の自信と余裕が滲んでいた。
「ヘラクレイオス、貴様が相手にしているのは二人だということを忘れたのか?」
タレイアの言葉に、ヘラクレイオスはちらとアグライアを見やる。
「アグライア!! いまだ!!」
その言葉が引き金であったように、巨人の目交をまばゆい光芒が染め上げていった。
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