第120話 帝都騎士決戦

 午前二時――夜の色が最も深くなる刻限。


 蹄と車輪の音を闇に響かせながら、四頭立ての馬車は太い街道を進んでいた。

 南嶺関と北嶺関からそれぞれ伸びた二本の街道は、帝都の二十キロほど手前で合流する。

 帝都の大城門へと続くこの道も、深夜ともなれば人通りはまばらだ。


 それでも、ここまで来れば夜道を行く心細さを感じることもない。街道沿いの宿駅には夜通し人の出入りが絶えないことに加えて、彼方に見える帝都の灯を遠目に見れば、疲れ切った旅人の身体にも俄然力が沸き起るというものだった。


 いま、馬車の前方には、巨大な蛇みたいな暗黒淵やみわだがゆるゆると横たわっている。

 幅百メートルはあろうかという大河であった。

 むろん、自然の河川ではない。かつて帝都がこの地に建設された折、資材を運んだ水路がそのまま残されているのだ。

 有事の際には帝都を外敵から守る水濠として機能することは言うまでもない。


 これまで河を避けるように蛇行してきた街道は、ここに至ってようやく水の流れと交差する。

 ”フラヴィニウス帝橋”と呼ばれる石造りの長大なアーチ橋を通過すれば、帝都は目と鼻の先だ。

 普段であればこのあたりには城門が開くのを待つ商人や旅人がたむろしているはずだが、今日に限ってはやけに静まり返っているのが奇妙であった。


 と――それまで一定の速度を保って進んでいた馬車は、橋の手前でふいに停止した。

 ひとすじの光条が音もなく迸ったのは次の瞬間だった。

 馬車とアーチ橋のちょうど中間に降り注いだ光は、石敷きの路面に真一文字を刻み込んでいく。

 一瞬のうちにとろけ、湯みたいに沸騰する路面のありさまは、光の凄絶なまでの破壊力を千の言葉より雄弁に物語っている。一瞬のうちに生滅した閃光は、いったいどれほどの熱量エネルギーを帯びていたのか。


「――そこまでです」


 光とおなじ方向から投げかけられたのは、光に劣らず凛々しく、そして透き通った美声であった。


 黒一色に塗り潰されたみたいな夜空にまばゆい輝きが生じた。

 黄金色の騎士――アグライアは、アーチ橋を見下ろすように中空に浮遊している。

 八対十六基の『子機』のうち、身体の周囲に展開しているのは六基。残る十基は背中や腰に装着され、光子推進器フォトニック・スラスターとなってアグライアを支えている。


騎士ストラティオテスヘラクレイオス。そして、彼に雷同して皇帝陛下への反逆を企てた騎士たちに告げます。これより先へと進むことは罷りなりません。ただちに投降しなさい」


 神の使者が天命を告げるがごとく、アグライアはあくまで厳かな声で言い放つ。

 黄金の騎士の実力を目の当たりにしても、御者台に座る男は物怖じする素振りもない。

 それどころか、アグライアを見上げると、歯をむき出しにして破顔した。隠しようもない暴力と衝動に彩られた凶猛な笑顔であった。


「投降――だ? 笑わせてくれるぜ。この期に及んでまだそんな寝言をほざきやがるとはなあ」


 カドライは嘲笑とともに言い捨てると、


「ヘラクレイオスの兄貴、エリスの姐御、聞こえてるよな? たった一人で俺たちの相手をしようって馬鹿が一晩のうちに二人も出てきたぜ。ああ、面白え」

「ついさっき、その馬鹿に殺されかかったのはどこの誰だい?」


 荷台から返ってきた冷たい声に、カドライは面白くないというように舌打ちをする。


「あのときは油断しただけだぜ。今度はそんなヘマはしねえよ、姐御」

「それが油断だと言うんだよ。それに、あんたはさっきの戦いの傷も治りきってないだろう」

「心配するなって。敵はたった一人だ。今度こそ俺だけで十分――」


 言いかけて、カドライはそのさきの言葉を飲み込んだ。

 アーチ橋の対岸に立つ二体の異形を認めたためだ。


「あれは、まさか――」


 カドライの声はあわれなほどに震えていた。

 闇に浮かび上がった色彩いろは、凍てついた炎のごとき真紅。

 数多の戎装騎士ストラティオテスのなかでも、比類なき強さと美しさを兼ね備えた唯一無二の存在。


 オルフェウス――。

 先の戦役において三百体以上の戎狄バルバロイを屠った最強の三騎士の一人は、静かな鬼気をまとって佇んでいる。その風格は幾多の戦いを経てさらに磨き上げられ、相対した者の心胆を否応にも寒からしめる。


 その傍らには、瑪瑙色の重装甲に鎧われた騎士が、やはり橋を守るように立っている。ひときわ目を引く二つの大盾は、ここから先へは一歩も通さないという不退転の覚悟を象徴するかのように高く掲げられている。

 アグライアやエウフロシュネーとともに皇帝の警護を担う三姉妹の次姉、タレイアであった。


「どこに隠れてやがったんだ……?」


 三人の騎士を前にして、さしものカドライもすっかり余裕を失っている。

 実際に戦いぶりを目にしたことがあるのはオルフェウスだけだが、他の二人も強大な力を秘めた騎士であることは分かる。

 手負いの自分には荷が重すぎることも、また。


「こいつは……ちょっとやべえな……」

「だから油断をするなと言ったんだ。さっきのは時間稼ぎの捨て駒だったようだね」

「どうする? エリスの姐御――」


 エリスが答えるよりも早く、馬車がおおきく揺らいだ。

 馬車の重心を傾かせるほど巨大ななにかが動いたためだ。

 荷台の幌をかきあげて現れたのは、身長二メートルを超える容貌魁偉な巨漢だった。

 太く厚い筋肉を包むのは、夜闇よりもなお深い暗褐色の肌。ごつごつとした頭部には髪も眉も見当たらない。

 荒々しい戦士のようでありながら、どこか高潔な修行僧を彷彿させるその姿形は、並外れた叡智と暴力性とが等しく同居するいびつな内面を窺わせた。


「ヘラクレイオスの兄貴!!」


 ヘラクレイオスの姿を目にした途端、カドライは感極まったように叫んでいた。


「兄貴が来てくれたなら何も心配はいらねえ! あんな奴ら、兄貴がいれば怖くないぜ――」


 すっかり本来の調子を取り戻したようにはしゃぐカドライに、ヘラクレイオスはにこりともせず、


「……だまれ、カドライ」


 地の底から轟くような声で言ったのだった。

 たった一言。その一言に気圧され、心底から震え上がったカドライは、こっぴどく叱られた犬みたいに頭を垂れる。


「……エリス」


 ヘラクレイオスはカドライにはもはや目もくれず、浅葱色の髪の女に視線を向ける。


「オルフェウスは貴様とカドライにくれてやる。俺は残り二人をもらう」

「へえ――意外だね。このあいだはたった一人で全員倒したじゃないか。さすがのあんたも、あいつら三人まとめて相手にする気にはならないみたいだね?」

「どう思おうと勝手だ」


 取り合うつもりもないらしく、ヘラクレイオスは突き放すように言う。


「貴様らがしくじれば、結局俺が片付けることになる」


 言い切ったヘラクレイオスの言葉には、おのれの勝利への揺るぎない確信がある。敗北の可能性などまるで思慮の外といった風であった。


 ヘラクレイオスはゆっくりと歩き出す。

 足を前に繰り出すだけのごく単調な動作。ただそれだけだというのに、一歩ごとに世界の中心がずれていくような錯覚に囚われるのは何故か。

 最強の騎士の身体は、この惑星ほしに匹敵するすさまじい重さを秘めているようであった。実際の質量がどうあれ、見る者の胸にそんな思いを惹起させた時点で、それはひとつの厳然たる真実として存在しているのだ。

 対峙する三騎だけでなく、仲間であるはずのカドライとエリスでさえ、ヘラクレイオスの発散する尋常ならざる威圧感に押しつぶされそうになっている。


「戎装――」


 ヘラクレイオスの唇がわずかに動き、言葉を紡いだ。

 戦いの火蓋を切る言葉を。

  

***


「交渉決裂ね。分かっていたけれど――」


 アグライアはため息をつく。

 残念がっているように見えるのは、あくまで表面上のことだ。内心ではこうなることは最初から分かりきっていた。

 ヘラクレイオスはすでに追撃のために差し向けられた戎装騎士ストラティオテスを手にかけている。

 すでにその手は血に塗れているなら、今さら投降勧告に応じるはずもない。

 いずれにせよ、戦いは最初から避けられなかったのだ。


「タレイア――それに、オルフェウスちゃん」


 アグライアは空中に浮かびながら、橋の上に立つ二騎に呼びかける。


「手筈通りにやるわ。二人とも、分かってると思うけど、くれぐれも気をつけて」

「任せておけ」


 タレイアが軽く手を挙げるその横で、オルフェウスもちいさく首肯する。


「……本当に分かっているのか?」


 タレイアはオルフェウスの顔を覗き込みながら、訝しげに問う。

 イセリアと違って、オルフェウスとはまだ一度も共に戦ったことはない。完全に信頼しきっている訳ではないのだ。


「大丈夫――」

「それならいい。余計なことは考えるな。あの二人のことなら、エウフロシュネーに任せておけば心配ない」

「私はアレクシオスとイセリアのことを信じてるから」


 真紅の騎士はこともなげに言うと、アーチ橋を進む三騎に目を向ける。

 すでに彼我の距離は二百メートルほどに迫っている。戎装騎士の脚力であれば、五秒とかからずに走り抜けることが出来るはずだった。

 どちらもそれをしないのは、敵の出方を伺っているためだ。

 むろん、先手を取られる不利はある。それ以上に、どう動くか知れない敵に対して、迂闊な動きを取る危険リスクのほうが勝るのだ。


 ヘラクレイオスの歩みがわずかに速くなった。

 オルフェウスとタレイアが無意識に身構えた瞬間、灰白色の巨体は、路面を蹴って高く跳躍していた。

 数百年の風雪に耐えたアーチ橋も、ヘラクレイオスの脚力をまともに受けては無事で済むはずもない。一帯の橋面はまるで砂糖細工みたいにぼろぼろと崩れ落ち、黒い川面にいくつも水柱が立つ。


「アグライア――!!」


 巨大な拳が黄金の騎士めがけて突き出される。

 三メートル近い巨躯に見合わぬ俊敏な動作に、アグライアも虚を衝かれたようであった。

 光子推進器フォトニック・スラスターは長時間の滞空ホバリングを可能とする一方、瞬発的な動作は不得手だ。いまから回避しようにも、もう間に合わない。


 刹那、凄まじい衝撃音が一帯を震撼させた。

 膂力を叩きつけるだけであらゆるものを破壊するヘラクレイオスの剛腕は、ついにアグライアに触れることはなかった。

 タレイアがヘラクレイオスを追うように跳躍し、すんでのところで拳を受け止めたためだ。逃げ場のない空中で衝撃をまともに受けながら、タレイアはなんとか河原に着地する。


「タレイア、大丈夫!?」

「私のことなら心配ない。この程度で倒されるほどヤワではないからな」


 努めて平静を装っているが、焦燥と驚嘆は到底隠しきれるものではない。

 攻撃を受け止めた右の大盾には、くっきりと拳の形が刻み込まれている。

 大盾の表面には、斥力フィールドが常に展開されている。反発力によって弾き返し、さほど強度の高くない物体であれば、そのまま引きちぎることも可能だ。

 ヘラクレイオスの拳はその斥力場をやすやすと突破し、物体としての大盾そのものに甚大なダメージを与えたのだった。

 おのれの拳ひとつで防御を突き破るなど、タレイアにとってもおよそ信じがたいことであった。アグライアを守るという目的こそ達成出来たが、右の大盾はもはや防具としての用をなさないだろう。


 タレイアのただならぬ様子を察して、アグライアも河原へと降下する。

 ヘラクレイオスは橋桁を飛び越え、寄り添うように並び立つ黄金と瑪瑙色の騎士の前に降り立った。

 濃淡が入り混じった闇に彫琢された灰白色の巨体は、死の運命そのものであるかのように、あくまで荘重な足取りで二人に近づいていく。


「……どちらだ?」


 ヘラクレイオスはタレイアとアグライアを交互に見つめ、重々しい声で問うた。


「先に死にたいのはどちらかと訊いている」


 返答はない。沈黙が示すのは、この上なく明確な拒絶だ。


 まばゆい光条がヘラクレイオスを射たのは、次の瞬間だった。

 降下の最中にアグライアの身体を離れた十六基の『子機』は、いつのまにかヘラクレイオスの身体をぐるりと取り囲んでいる。

 それぞれ独立した推進器を備えた『子機』は、アグライアの意のままに飛び回り、全方位から標的に光の矢を注いだのだった。

 それぞれの『子機』に内蔵された光子フォトン加速砲は、標準的な戎装騎士の装甲を数秒で崩壊させる。

 それも単純な熱エネルギーによるものではなく、高速で叩きつけられた光子が原子と原子を結びつける分子間構造を強制的に破壊するためだ。

 物質の最小単位へと作用する攻撃に対して、有効な防御手段は存在しない。どれほど分厚く堅牢な装甲であろうと、光を浴び続けるうちに跡形もなく崩れ去るほかない。


 ヘラクレイオスも質量を持ってこの世に存在している以上、むろん例外ではない――そのはずだった。


 光のなかで巨体が動いた。

 ヘラクレイオスは拳を振り上げ、一気に足元に叩きつける。

 地面は河原だ。水を多量に含んだ土と砂利とが巻き上げられ、ヘラクレイオスの四囲に土色の壁がふいに出現したようであった。


「いったいなにを――」


 この期に及んで悪あがきとしか思えない行動だった。


 いかに最強の騎士といえども、死を前にしては狂わずにいられないのか。

 ひと思いに最後の一撃を加えようとして、アグライアは息を呑んだ。

 灰白色の身体が土砂のなかから猛然と飛び出してきたのだ。


 ヘラクレイオスは周囲に浮かぶ『子機』のうち最も巨大なものを掴み取ると、力任せに握りつぶす。砕けた破片をすばやく投擲し、さらに他の『子機』をも撃墜していく。

 目を瞬かせるほどのあいだに、そうしてヘラクレイオスはまたたくまに九基を破壊したのだった。

 ここまで数を減らされては、もはやヘラクレイオスの巨体を完全に包囲することは出来ない。


 呆然と見つめるアグライアの腕が横合いから強く引かれた。


「アグライア、いったん距離を取るぞ!!」


 タレイアに抱きかかえられるようにして、アグライアは後方に飛び退る。

 河原に巨大な陥没クレーターが生じたのは次の瞬間だった。

 もし判断がわずかでも遅れていれば、いまごろはヘラクレイオスの拳に圧し潰されていたはずだ。


 一瞬の判断が死を招いたのは、ヘラクレイオスにしてもおなじことだ。

 ほんの数瞬まえ、ヘラクレイオスもまた生死の境界にあった。

 水分は素粒子の通行を阻害する。ヘラクレイオスは水分を含んだ土砂の紗幕カーテンを作ることで一時的に光子の照射量を低減させ、その隙を衝いて反撃に転じたのだった。

 真に恐るべきは、窮地にあって自分自身の耐久力を冷静に見極め、対処法を見極めたヘラクレイオスの怜悧な頭脳であった。


 顔を上げたアグライアとタレイアの目に、橋の上で繰り広げられるもうひとつの戦いがちらと映った。オルフェウスはカドライとエリスを同時に相手取り、不利な状況にもかかわらず、一歩も引かない戦いを演じている。


 どちらも二対一。

 騎士と騎士の熾烈な戦いの終わりは、まだ見えない。

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