第119話 天翔ける不死鳥(後編)

 そらを渡る風の色は蒼かった。


 はるかに見下ろす景色も、また――。

 気温は真冬よりもなお低く、大気は限りなく薄い。

 人間ならばたちどころに死に至る環境だが、戎装騎士ストラティオテスには関係のないことだ。


 いま、エウフロシュネーと戎装巨兵ストラティオテス・ギガンティアは、八万メートルの上空にいる。

 戎装巨兵に掴み取られたエウフロシュネーは、推進力の限界まで加速し、一気にこの高度まで昇り詰めたのだった。

 むろん、上昇したところで状況が変わる訳ではない。

 戎装巨兵の腕は、相変わらずきつくエウフロシュネーを締め上げている。

 それでも、たったひとつだけはっきりと変わったことがある。

 巨人の腕がエウフロシュネーを掴むのは、破壊のためではなく、ただ振り落とされまいとするためであった。


「何をするつもりだ?」


 問いかけた二人分の声には、隠しようのない不安が滲んでいた。

 当然だ。飛行能力を持たないラケルとレヴィにとって、これほどの高度は全く未知の世界だった。

 ほんのすこし前まで足をつけていた大地は遠く、地上から見上げるばかりだった雲さえ、いまははるか下方に位置している。

 いかに頑強な戎装巨兵でも、落下すればまず助からないだろう。


「見てわからない?」


 エウフロシュネーはわざと意地悪げな声を作る。

 上昇速度は徐々に緩やかになっている。この高度では十分な推力を生み出すだけの酸素が存在しないためだ。あらかじめ体内に取り込んだ酸素が払底したとき、エウフロシュネーの上昇は停止する。

 その先に待ち受けているのは、推力を失った状態での自由落下――墜落だ。

 推進器を作動させなければ、はもつれあったまま八万メートルの高さから真っ逆さまに地表に叩きつけられるだろう。

 もっとも、そうなればエウフロシュネーも無事では済まない。


「馬鹿な真似はやめろ。おまえも死ぬぞ」 

「どうかな――やってみなくちゃ分からないよ」

「よせ!!」


 先ほどとは打って変わって、二人の声はあきらかに動揺している。

 推進器を再始動させるかどうかは、エウフロシュネーの胸三寸なのだ。どれほど脅しつけたところで、当人が拒めばそれまでだ。


 数秒後、ついにエウフロシュネーの上昇が停止した。

 高度十万メートル。すでに熱圏を飛び越え、宇宙との端境に達している。

 惑星ほしの地平ははてしなく広がり、彼方でゆるやかな曲線を描く。自分たちが住む世界のすべてを一望するのは、至天の頂に到達した者だけに許された特権だ。人間がこの景色を目にするには、さらに数百年の歳月を要するだろう。


 一切の推力を失ったエウフロシュネーは、案の定、重力に引かれて降下を開始する。

 しばらく何も感じなかったのは、大気がきわめて希薄だからだ。

 やがて空気抵抗を全身に感じるようになったとき、ラケルとレヴィは地上へと近づいている現実を否応にも突きつけられた。

 落下の果てに待つのは、致命的な破局だ。


「仕方がない――」


 戎装巨兵の腕がエウフロシュネーの身体を離れた。

 巨大な体躯に裂け目が生じたかと思うと、一瞬のうちに二体の戎装騎士へと分離する。

 ラケルとレヴィは互いの手を取り、二騎は手を繋いだまま落下していく。


「まさかこんなことになるとは。まったく計算外だ」

「どちらのせいでもない……そうだな?」

「分かっている」


 ラケルは同じ顔をしたをじっと見つめる。


「私を踏み台にしろ――レヴィ」

「本気か? ラケル」

「癪だが、おまえの方が私よりも戦闘能力が高い。より価値のあるほうを生かすのは当然だ。もともと私の仕事はおまえを守ることだ」


 赤の騎士は、まるで世間話でもするみたいに淡々と言葉を継いでいく。

 恐怖を感じていない訳ではない。

 むしろ、その逆だ。

 避けられない死を前にしたとき、恐怖や動揺を取り繕うために、人は自分の使命に忠実であろうとするものだ。ラケルの場合はレヴィを守ることであった。


「どちらか一方しか助からないなら、そうするのが正解だ」


 レヴィは何も言わなかった。

 何を言ったところで、ラケルの決意は揺るがないだろう。二人とも地上に叩きつけられて砕け散るよりは、一方を犠牲にして、もう一方が生き延びるほうが賢明な判断であった。


 しかし――。


「決めつけるのはまだ早いんじゃないかな?」


 ふいに声がかかった。

 戎装飛鳥ストラティオテス・ヒエラクスから人型へと戻ったエウフロシュネーは、やはり重力に身を任せながら、二人に近づいてくる。


「私と一緒なら、二人とも助かるよ」


 言って、エウフロシュネーはレヴィとラケルに手を差し伸べる。


「何を言っている?」

はおまえの敵だぞ」


 怪訝そうに問われて、エウフロシュネーは一瞬戸惑ったようだった。


「関係ないよ――私がそうしたいと思っただけ」


 はっきりと言い切ると、蒼翼の騎士はあらためて二人に手を伸ばす。

 そうすることが当然であるかのように。


 ラケルとレヴィは互いに顔を見合わせ、わずかに逡巡する。

 それも一瞬だ。頷きあったかと思うと、どちらともなくエウフロシュネーの手を取っていた。


「君の行動は非合理的だ。自分が攻撃を受ける可能性もあったはずなのに、なぜ私たちを助けようと思った?」

「本当に悪い人なら、自分を犠牲にしてでも兄弟なかまを助けたりしないよ」

「……そうか……」


 レヴィはだまって顔を伏せた。ラケルの行動が結果的に二人を救ったことになる。


 雲海を突き抜けると、蒼茫たる大地が視界いっぱいに広がった。

 一面夜の色に染め上げられた世界にあって、ひときわ目立つ光がある。帝都イストザントの灯りであった。世界最大の都市も、この高度からは文字通りの光点としか見えない。


 反動が三人の身体を伝播していったのは次の瞬間だった。

 エウフロシュネーが推進器を作動させたのだ。

 背中の噴射口から青白い炎を吐き出しながら、エウフロシュネーは減速に入る。

 広げた翼がエアブレーキの役目を果たし、三人はゆるゆると速度を落としながら、元いた場所へと降下していく。

 

***


 空を見上げながら、イセリアは目を皿みたいに見開いていた。


「うそ……」


 ぼそりと呟いたのは、エウフロシュネーが戻ってきたからではない。

 その両手に、今しがたまで死闘を繰り広げていた相手――ラケルとレヴィを吊り下げているためだ。

 エウフロシュネーは最後にひときわ大きく推進器から炎を吹き出すと、イセリアから百メートルほど離れた場所に着地した。

 着地する直前、三人はほとんど同時に戎装を解いていた。


「エウフロシュネー!! あんた、どういうつもりよ!?」

「どう――って、助けてあげたんだよ」

「助けてあげた……じゃないわよ!! こいつら、あたしたちを殺そうとしたのよ!?」


 イセリアはラケルとレヴィを睨めつける。


「そんな奴らに情けなんかかけて、いつ襲いかかってくるか分かったものじゃないわ!!」

「……そんなことはしない」


 レヴィは相変わらず落ち着いた声で、はっきりと断言した。


「白々しいわね。そんなこと言われて、はいそうですか――なんて信じると思うわけ?」

「私たちがおまえたちと戦ったのには理由がある」

「なによ、その理由って? 言ってごらんなさいな」


 ラケルとレヴィはまじまじと互いの顔を見つめたあと、


「……ヘラクレイオスが恐ろしかったからだ」


 声を揃えて、全く同じ言葉を、ほとんど同時に口にした。


「はあ? ヘラクレイオスが恐ろしいからあたしたちと戦ったって言うの?」

「そうだ。従わなければ殺される。私たちも死ぬのは怖い」

「呆れた――そんな理由であたしたちを殺そうとしたなんて、いい迷惑だわ」


 イセリアは長い溜息を漏らす。

 すっかり戦意を失った様子の二人に拍子抜けしただけでなく、これ以上戦わずに済むという安堵も多少は混じっている。あのときエウフロシュネーが現れなければ、いまごろはイセリアも無事では済まなかったはずだ。


「ていうか、それならなんで戦いをやめるのよ? 戦わないとヘラクレイオスに殺されるんじゃないの?」

「……生命を助けられたからだ」


 ラケルとレヴィは示し合わせたようにエウフロシュネーに視線を向ける。


「私たちはなによりも死を恐れる。ヘラクレイオスとともに行動していたのも、そうしなければ生き残れなかったからだ」

「だからこそ、生命を助けられた恩義の重さも理解している。その恩を仇で返すつもりはない」


 エウフロシュネーは二人の顔を交互に見つめたあと、イセリアにふっと微笑みかける。


「そういうことだからさ。お姉ちゃんも許してあげてほしいな」

「許すもなにも、あたしはどっちにしろこれ以上戦えないわよ。腕もこんなになっちゃったし……」


 イセリアが右腕に手を添えると、肘下がぼろぼろと崩れ落ちた。

 芯まで炭化していたにもかかわらず、よくここまで持ちこたえたと言うべきだろう。


「ま、放っておけばそのうち生えてくると思うけど」


 利き腕を失ったにもかかわらず、イセリアの声に悲観の色はない。

 戎装騎士の強力な再生能力をもってすれば、失った四肢を復元する程度は造作もない。腕一本程度なら、一週間もすれば元通りになっているはずだ。


「……ていうか、あんたたち、なんか言うことないわけ? 乙女の身体をキズモノにしてくれちゃってさ。いくら治るって言っても、不便なのには変わりないわよ」

「悪かった――」

「すまない――」


 二人の口からほとんど同時に発せられた謝罪の言葉に、イセリアは鼻白む思いがした。すこし前まで殺し合いを演じていた相手とはいえ、これでは敵愾心を抱き続けるほうが難しい。


「あんたたち、変なところで聞き分けがいいっていうか……」

「そうか?」

「まじめに付き合ってるとこっちまで調子が狂いそうだわ」


 うんざりしたように呟いたあと、イセリアははたと我に返ったように顔を上げる。


「……アレクシオスは大丈夫かしら」


 『帝国』を裏切った五人の騎士のうち、二人は目の前にいる。となれば、残る三人は別行動を取っているはずだ。

 そのなかには、おそらくヘラクレイオスも含まれているはずだった。

 最強の敵と遭遇しなかったことはイセリアにとっては幸運だが、もしアレクシオスと出くわしていたなら話は別だ。


「あんたたち、他の連中がどこにいるか知らない?」

「帝都に向かったこと以外は分からない」

「私たちは別行動をするように言われただけだ。予定では帝都で合流する手筈になってい……る……」


 言い終わるが早いか、ラケルとレヴィは糸の切れた人形みたいに膝を突いた。


「ちょっと、あんたたち、どうしちゃったのよ!?」

「……心配ない。力を使いすぎただけだ」

「さっきの戦いで身体を壊されすぎた。再生が終わるまでは動けない……」


 イセリアは肩をすくめながら、傍らの少女に顔を向ける。


「アレクシオスが心配だわ。エウフロシュネー、こいつらはあたしが引き受けるから、ちょっと様子を見てきてくれる?」

「ごめんね、お姉ちゃん。私も無理しすぎたみたい。すこし休まないと――」


 憔悴しきった声で言うと、エウフロシュネーはイセリアの胸にもたれかかるみたいに倒れ込んだ。

 脱力しきった身体を左腕で抱きとめながら、イセリアは長く息を吐き出した。


「……まったく、揃いも揃って世話焼かせてくれるわ」


 イセリアは三人を脇に抱えたまま、人気のない野原へと移動すると、


「もう動けないのはあたしも一緒だけどね」


 手足をおおきく投げ出し、草のうえに大の字に寝転がったのだった。

 見上げた夜空には無数の星が散りばめられている。戦いの最中には気づかなかったが、月のない夜はいつもより星がきれいに見える。


(アレクシオスなら、きっと大丈夫よね)


 黒髪の少年の身を案じながら、激闘を終えた少女騎士はゆっくりと瞼を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る