第118話 天翔ける不死鳥(前編)
「あんた、それ本気で言ってるの!?」
自分を庇うように立つエウフロシュネーにむかって、イセリアは声を荒げる。
「あいつの強さは半端じゃないわ。あたしでもやられたのに、あんたにどうにか出来る訳ないでしょ!! さっさと逃げなさい!!」
「お姉ちゃん――」
エウフロシュネーは振り返らず、
「私が本気で戦うところ、見たことある?」
あくまで不敵な声色で言ったのだった。
「それは……ない、けど……」
「だったら、私が勝てないなんて断言出来ないはずだよね」
エウフロシュネーはイセリアの顔の前に人差し指を突き出すと、軽く左右に振ってみせる。
これ以上の口出しは無用と、言葉ではなく身振りで伝えているのだ。
「大丈夫――私、そう簡単に敗けたりしないよ。お姉ちゃんはそこで待っててほしいな」
エウフロシュネーは
もともと戎装騎士のなかでも小柄なエウフロシュネーである。差し向かいになった両者の体躯には、比喩でなく巨人と小人ほどの差がある。
「話は終わったのか?」
二人の声が入り混じった奇怪な声が問うた。
いままで手を出さなかったのは、言葉を交わす時間を与えてやろうという気遣いのためではない。
破壊された左腕を再生するためには時間が要る。巨人はいたずらに戦闘を再開するよりも、すべての力を再生に振り向けることを選んだのだった。
「待たせちゃったかな。さっきも言ったとおり、ここからは私が相手だよ」
「無駄だ。おまえたちは私には勝てない」
「どうかな――そんなの、やってみなくちゃ分からないよ」
言い終わるが早いか、蒼騎士が動いた。
だん――と地面を蹴り、エウフロシュネーは一気に戎装巨兵の頭上まで跳躍する。
翼や推進器を使用していないにもかかわらず、ほとんど飛翔するような勢いであった。
むろん、戎装巨兵もその動きを座視していた訳ではない。
エウフロシュネーの跳躍が最高潮に達したのを見計らって、巨腕を伸ばす。空中では身動きが取れないことを知っているのだ。
巨大な掌に覆い包まれる刹那、エウフロシュネーは翼を展開し、さらに高く飛び上がっていた。
まるでみずからの身体を一片の羽毛と化したような軽快な身のこなし。
華麗な挙動はそのまま踵落としへと変わり、戎装巨兵の頭部を震撼させた。
エウフロシュネーはその反動を利用してさらにもう一度飛び上がると、数十メートル後方に軽やかに着地する。
「――こんな攻撃で私は倒せない。何度仕掛けても同じことだ」
戎装巨兵はゆっくりと振り返る。
脳天に痛烈な一撃を見舞われながら、蚊が刺したほどにも感じていないようだった。
敵の健在ぶりを目の当たりにしても、エウフロシュネーはとくに驚いた素振りもみせない。効果が薄いことは承知の上なのだ。
「分かってるよ。いまのは小手調べってとこ――」
エウフロシュネーは翼を大きく広げる。
「本番はこれからだよ!!」
その言葉は、はたして巨人に届いたかどうか。
直後、耳を聾する爆轟が夜の大地を揺さぶった。エウフロシュネーの胴体に内蔵された推進器が作動し、周囲の大気を貪欲に取り込みはじめたのだ。
エウフロシュネーの推進器は、吸入した大気を燃焼させ、推進力に変換するという
アレクシオスがせいぜい跳躍に留まるのに対して、エウフロシュネーは完全な飛行が可能であるという事実からも、両者の性能差が窺える。この世界に酸素が存在するかぎり、その気になれば永遠に空に留まっていることさえ出来るだろう。
いま、エウフロシュネーは力強く大地を蹴り、高く飛び上がろうとしている。
青白い炎が夜空にあざやかな軌跡を描く。
蒼翼の騎士は、またたく間に五百メートルの上空へと駆け上がっていった。
エウフロシュネーは翼を器用に操り、いったん空中で静止する。
足首から先が音もなく変形を開始したのは次の瞬間だった。
人間の脚から、猛禽を彷彿させるするどい鉤爪へと。
足底はぱっくりと裂け、整然と並んだ
「行くよ――!!」
脚先の変形が完了したのを見計らって、エウフロシュネーは急降下に移った。
夜気をつんざいて蒼い影が走る。
音の壁を超えたのは、降下に入って数秒と経たないうちだ。エウフロシュネーは一向に減速することなく、戎装巨兵めがけてまっすぐに突き進む。
迫りくる敵を叩き落とそうと巨腕が動いた。
それよりも疾く、蒼騎士の鉤爪は戎装巨兵の装甲を抉っていた。
地面に激突する寸前で逆噴射をかけたエウフロシュネーは、すばやく敵を見やる。
「……無駄だと言ったのが理解出来なかったのか?」
戎装巨兵は平然と言い放つと、ゆっくりとエウフロシュネーに近づいてくる。
エウフロシュネーの一撃はたしかに装甲を抉ったが、それ以上の
表層をどれほど傷つけられたところで、戎装巨兵は痛痒も感じない。巨人にとっては文字通りのかすり傷であった。
「エウフロシュネー、やっぱり無理よ!! あんたの手に負える相手じゃないわ!!」
背後で叫んだのはイセリアだ。
エウフロシュネーは戎装巨兵から距離を取りつつ、イセリアに顔を向ける。
「私のこと心配してくれるの?」
「当たり前でしょ!! あんたに何かあったら、あんたの姉さんたちになんて言えばいいのよ」
「ありがと、お姉ちゃん。でも、大丈夫。私にはまだ奥の手があるからさ――」
いままで仕掛けた攻撃がことごとく通用していないにもかかわらず、エウフロシュネーの声はどこか余裕さえ漂っている。
たんなる虚勢や出まかせでないことはイセリアにも分かる。その言葉の裏に確固たる自信を感じ取ったからこそ、イセリアはそれきり口を噤んだのだった。
エウフロシュネーは折りたたんでいた翼を展開し、推進器を作動させる。
そして、先ほどと同じように、やはり天高く舞い上がったのだった。
「学習能力がないのか? そんな攻撃で私を倒すことは……」
戎装巨兵はそこで言葉を切った。
というよりは、言いさして飲み込んだというほうが正確だろう。無貌の面に走る二色の光芒は、驚愕の色を映している。
上空を飛ぶエウフロシュネーに生じた異変を認めたためであった。
ほんの一瞬前まで人型であった蒼い騎士は、いまやほとんど人の形を失い、未知の異形へと変わりつつある。
ただでさえ巨大な両翼がさらに大きく張り出す一方、腕は胴体に引き込まれてすっかり消失している。脚は膝から逆に曲がり、頭部と入れ替わるようにせり出した背中の装甲は、剣の切っ先みたいな鋭角の
いま、青白い炎を噴き上げて夜空を駆けるのは、もはや有翼の騎士ではない。
蒼い翼を広げた鋼鉄の鷹――
エウフロシュネーのもうひとつの姿にして、普段はけっして見せることのない真の切り札。
次の刹那、先ほどまでとは比べ物にならない轟音と、空中で爆発が生じたと錯覚するほど巨大な火柱が生じた。体内の構造を組み替えたことで最大効率を発揮するようになった推進器は、平時の三倍ちかい推力を吐出する。
早くも防御態勢に入った戎装巨兵と、あっけに取られたように見つめるイセリアの前で、エウフロシュネーは垂直に上昇していく。
異形の鳥は、見る見るうちに
それから数秒と経たないうちに、戎装巨兵の視覚器は、視界の中心に光るものを認めた。
微小な銀片のようなそれは、一秒後にははっきりと鳥の形を取っていた。
近づくにつれて、闇があかあかと色づいていく。
ほんの一瞬前まで蒼かったはずのエウフロシュネーの身体は、真逆の色――あざやかな赤に彩られている。
大気との摩擦で装甲表面が燃え上がり、凄まじい高温を帯びて赤熱化しているためであった。
エウフロシュネーは装甲表面をあえて毛羽立たせ、空気抵抗を最大限に増大させたうえで、莫大な推力によって高温状態へと導いたのだ。
燃えさかる炎をまといながら、決して燃え尽きることのない姿は、まさしく伝説上の
闇空を裂いて、エウフロシュネーはまっすぐに敵へと飛ぶ。
「そんな見掛け倒しの攻撃など――」
戎装巨兵はエウフロシュネーにむかって左腕を掲げる。
イセリアに手ひどく傷つけられ、さらにエウフロシュネーによって壊滅的な被害を受けた左腕の砲は、全力を注いだ修復の甲斐あって、どうにか武器としての機能を回復したのだった。
とはいえ、本調子にはほど遠く、せいぜい一発の射撃が限度だ。
それで十分だった。発射された「無」が掠っただけでも、エウフロシュネーの身体は跡形もなく吹き飛ぶだろう。
わずかな躊躇いもなく、戎装巨兵はエウフロシュネーにむかって砲を放つ。
音もなく、閃光もなく、見えざる光条は、炎の鳥を確実に撃ち落とすはずであった。
一瞬、炎がゆらいだ。
紅蓮の不死鳥はそのまま地に堕ちることもなく、まっすぐに飛翔を続けている。
エウフロシュネーは不可視であるはずの「無」の軌道を発射される前に見切り、ぎりぎりのところで回避に成功したのだ。斥候として優れた視力を持ち合わせていなければ、いまごろは夜空の塵と消えていたにちがいない。
戎装巨兵はすかさず防御の構えを取るが、もう遅い。
「――――!!」
衝撃と炎があたりを覆った。
声にならぬ叫びとともに、戎装巨兵の巨躯が崩折れたのは、次の瞬間だった。
分厚い胸のちょうど中心には、ぽっかりと大穴が穿たれている。穴の縁はひどく焼け爛れ、高温のために溶解した装甲がぽたぽたと垂れ落ちる。
エウフロシュネーは胸部前面から突入し、巨人の
「こんな……ばかな……」
装甲の下から二人分の呻吟が漏れた。
「やった!! ……エウフロシュネー!! そのままあいつにトドメ刺しちゃいなさい!!」
欣然と叫ぶイセリアの見つめる先で、エウフロシュネーは大きく旋回する。
すでに炎は消えている。蒼い翼は冷たく美しい輝きを湛え、ほんの数瞬前まで燃えていたとはとても信じられない。
エウフロシュネーは鉤爪に変形した両足を突き出し、最後の一撃を叩き込むべく、戎装巨兵に襲いかかる。
「……まだだ……」
苦悶に混じった囁きは、はたしてイセリアとエウフロシュネーにも聞こえたのか。
最後の一撃を与えるべく、背後から鋭い鉤爪が迫る。
瀕死の状態にあると思われた戎装巨兵がふいに背後を振り向き、エウフロシュネーを掴み取ったのは、そのときだった。
「エウフロシュネー!!」
イセリアの叫びをよそに、巨人は容赦なく両腕に力を篭める。
エウフロシュネーの身体が軋りを上げる。飛行のために最低限の装甲しか持っていないのだ。戎装巨兵の膂力をまともに受ければ、十秒と持ちこたえられないはずであった。
と、青白い炎がエウフロシュネーと戎装巨兵を照らし出した。
間髪をおかずに轟音が響いたかと思うと、エウフロシュネーを抱えたまま、戎装巨兵は天高く上昇していった。
声をかける間もないまま、暗い空へと遠ざかっていく三人の姿を、イセリアはただ呆然と見つめることしか出来なかった。
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