第46話 波乱への出立
もうじき夜明けだというのに、一帯は濃い闇に包まれていた。
夜半から吹き荒れた風は止んでいるが、凍てつく夜気は容赦なく肌を刺す。
暦の上では冬も盛りをすぎたはずだった。いまだ寒気が去ろうとしないのは、降り積もった雪のためだ。家々の屋根にはうっすらと白いものが残っている。
出歩く人もまばらな夜明けの帝都――
静まりかえった市中で、時ならぬ活況を呈している一角がある。
帝都イストザントの玄関口である大城門に隣接するように作られた広場には、数十台の馬車が所狭しと並んでいる。
この時間帯にしては異例のことだった。
人も馬も吐く息は白くけぶり、広場は靄に包まれたような景観を呈している。
よく見れば、集まった馬車はいくつかの集団に分かれている。
それぞれの集団はつかず離れずの距離を保っている。そのことがかえって互いの微妙な事情を感じさせた。
「ホント、朝早くからご苦労さまって感じよねー……」
馬車の荷室にもたれかかりながら、イセリアは他人事みたいに言った。
「準備が出来たならさっさと出発すればいいのに。いつまでこうしてればいいのかしら?」
イセリアが身にまとうのは、上流家庭に仕える
パラエスティウムへ出立するにあたって急遽支給されたものだった。当然イセリアにはその種の衣服を着用した経験などない。
慣れない着付けに悪戦苦闘しつつ、どうにか自力で身支度を整えてみせたのだった。
と、荷台の幌をかき分けて亜麻色の長い髪がちらと覗いた。
オルフェウスだ。イセリアと全く同じ服装に身を包んでいるが、着こなしはどことなく不格好だった。
「イセリア、これでいいかな……?」
「よくない! あんたって本当に不器用よね。ちょっとじっとしてなさい」
言うが早いか、荒っぽい手つきで衣服を直していく。
「……ありがとう、イセリア」
「こんなことしてあげるのはこれっきりよ。それと――」
そう言って、イセリアは拗ねたようにぷいと横を向くと、
「あんた、その格好ぜんぜん似合ってないから。あたしがご主人様だったら絶対雇いたくないわ」
いつものように悪態をついてみせる。
似合わないと思っているのは偽らざる本心だった。
女中は貴人の奥方や娘の外出に付き従うものだ。イセリアも何度か街中を連れ立って歩く主従の姿を見かけたことがある。
主人にしてみれば、自分よりも端正な顔立ちの使用人など好ましいはずがない。
美貌もいいことばかりとは限らない――もっとも、当のオルフェウスは何がいけないのかさっぱり理解していないようだった。
「それから、その長い髪もまとめる! いつもと同じ格好じゃ変装にならないでしょ!!」
「……ごめんね」
オルフェウスは抑揚のない声で言うと、腰まである長髪をリボンで束ねはじめる。
あまりに不器用な手つきを見かねたイセリアが手を伸ばそうとしたその時、
「おい――もう準備は出来たのか」
前触れもなく背後から声がかかった。
振り返れば、そこには鎧に身を固めた兵士の姿。
頭全体をすっぽりと覆い隠すような兜をかぶっているため顔は見えない。
「……アレクシオス?」
「見れば分かるだろう。そんなことより、もうじき日が昇る。二人とも支度が出来たならさっさと馬車に乗れ」
「やっと出発ね。いつまで待たされるかと思ったわ」
イセリアはさっさと馬車に乗り込むと、アレクシオスをしげしげと見つめる。
「いつもと違う服ってなんか新鮮よね。アレクシオスもそう思わない?」
「遊びでやっているんじゃないんだぞ」
浮かれ気味のイセリアに、アレクシオスは憮然とした様子で応える。
オルフェウスは相変わらずおぼつかない手つきで髪を束ねながら、二人のやり取りを横目で見ている。
三人の騎士が揃って変装しているのには、もちろん理由がある。
皇太子ルシウスが直々に騎士庁の詰め所を訪れ、パラエスティウムまでの護衛を依頼したのは一昨日のことだ。
アレクシオスたちとしてはルシウスに同行したいところだが、元老院には帝都への残留を厳命されている。
ルシウスもそれを理解していたからこそ、あえて強引に騎士たちを駆り出すことはしなかったのだった。
皇位継承者が権力に飽かせて横車を押すことは、いずれ自分が支配する『帝国』の権力基盤を揺るがせにすることにほかならない。ルシウス自身、それがどれほど危険な行為であるかよく承知している。
皇太子と元老院のあいだで板挟みになっていた騎士たちに思わぬ転機が訪れたのは、昨日の夜のことだ。
ラフィカが二人の少女と一人の少年を伴って詰め所を訪ねてきたのだった。
少年少女の年の頃は騎士たちとさほど変わらない。
まだあどけなさの残る顔には、歳に不相応な覚悟が漲っている。
それもそのはずだ。彼らは幼いころから皇帝一族に仕えてきたエリートだった。
ひとたび主に命じられれば、一命をなげうつことさえ辞さないだろう。
「皆さんには殿下とともに出立してもらうことになりました」
怪訝そうな面持ちのアレクシオスたちに、ラフィカは至極にこやかにそう伝えた。
「騎士のお三方には、この三人と入れ替わってもらいます」
「入れ替わる……?」
「オルフェウスさんとイセリアさんは二人は殿下お付きの女中、アレクシオスさんは護衛の兵士として同行してもらいます。皆さんが出払っているあいだ、この三人が代わりにここで仕事を続ます」
ラフィカは騎士たちに向かってそれだけ言うと、ヴィサリオンを見据える。
「あなたは風邪をこじらせてしばらく寝込んでいるということにしておきましょう。殿下はぜひ連れていきたいとおっしゃっていますから」
「私も……ですか?」
驚いた表情を浮かべるヴィサリオンに向かって、ラフィカは静かに頷く。
「騎士の皆さんを信じていない訳ではありませんが、まとめ役は必要でしょう? 長旅になるならなおさらね」
ラフィカの言うとおり、帝都からパラエスティウムまでの道のりは長い。
いくつもの峠を越え、河を下って海に出る必要もある。
道すがら敵の襲撃も予想されるとなれば、厳しい旅になるのはまちがいない。
長期に渡る過酷な任務をこなすためには、騎士たちを細やかにサポートする人間が不可欠だった。
「本当にそれで本当に元老院の目を欺けるのか?」
「彼らもそこまで厳しく皆さんを監視している訳ではありません。ちゃんと仕事をしているように見せかければ大丈夫です」
ラフィカは「……多分」と言いかけて、慌てて言葉を飲み込む。
「もしおれたちが留守のあいだに騎士の力が必要になったらどうする」
「殿下の身の安全以上に重大なことなどありません――と言いたいところですが、それもちゃんと手を打ってありますので、ご心配なく」
ラフィカのよどみない返答に、アレクシオスはなんとも微妙な表情を浮かべる。
騎士たちにいちいち報告する義務はないとはいえ、何もかもが水面下で進められていたことに少なからず面食らっている。
ルシウスの護衛として同行すること自体は望むところだったが、自分たちの与り知らないところで事態が動いているのは複雑だった。
「では、出立は明朝の夜明け前――正門前の広場で待っています」
そう言って、ラフィカは連れてきた三人を置いてさっさと帰っていった。
詰め所は上を下への大騒ぎになったのは言うまでもない。
旅の準備だけではない。身代わりに詰め所に残る三人に教えることも山ほどある。
「留守番をしているあいだ、ここにあるものは好きに使っていい。どうせ大したものはないからな。みんなもそれで構わないな?」
アレクシオスに問われて、ヴィサリオンとオルフェウスは是非もなく首肯する。
イセリアだけは一瞬ぎくりとした表情を浮かべたが、すぐにぶんぶんと首を縦に振った。
とにもかくにも一行は大急ぎで旅支度を整えると、夜更けの帝都を走りに走って、約束の広場に到着したのだった。
アレクシオスたちがまず驚いたのは、皇太子であるルシウスの馬車が他の皇族のそれと比べてもひときわ小さく、さらには護衛の数も少ないことだった。
最も大きな集団が百人近い護衛を引き連れているのに対して、ルシウスが従える兵士は三十人にも満たない。
目立たないように敢えて小さく地味な馬車を選び、護衛の人数も最小限に留めているのだ。
承認式が開催されることは部外者には伏せられているとはいえ、皇帝の余命が幾許もないことはだいぶ前から市中の噂になっている。この時期に皇太子が帝都を離れれば、余計な憶測を呼ぶにちがいない。
ただでさえ皇位継承に絡んで問題山積のこの時期だ。
無用の混乱を招きかねない要因は極力排除したい――ルシウスのそんな考えから、少人数での出発が決まったのだった。
「一万人の兵士よりも皆さんの方がずっと頼りになりますから」
ラフィカはそう言って笑っていたものの、心底から楽観している訳ではないことはあきらかだった。
気づけば、早暁の空はだいぶ明るさを増している。
山々の稜線は少しずつ日の色に染まりつつある。夜明けまであと三十分足らずといったところだろう。
と、ふいにルシウスの車列の前方に集まっていた人だかりが真っ二つに割れた。
誰もが我先に道を譲っているのだ。
そうして出来た道をまっすぐに進んでくる一団がある。
重装備に身を固めた衛兵だけでなく、文武の高官と思しき姿もぽつぽつと混ざっている。
その中心には一人の男がいる。
三十人からの集団にあって、その男の存在感は水際立っていた。
何の事情も知らない人間がこの場に居合わせても、男が只者ではないことはすぐに分かるはずだ。
男はそれほどの覇気を漂わせている。周囲の人間が哀れなほど萎縮しているのも無理はない。
「元老院議長デキムス・アエミリウス閣下のお出ましである! 道を開けよ!」
先導する兵士は喉も枯れよとばかりに声を張り上げる。
デキムスという名を耳にして、アレクシオスたちはとっさに馬車から飛び出る。
もっとも――飛び出たところで、今の時点で何が出来る訳でもない。
ただ、前触れもなく姿を見せた”敵”の動向から目を離さずにいるのが精一杯だった。
デキムスに率いられた一団は、ルシウスの馬車の手前で立ち止まると、その場で一様に跪いてみせる。
「デキムス・アエミリウス、罷り越してございます。皇太子殿下にはご機嫌うるわしく――」
力強く張りのある声だった。年齢こそ老人の域に入っているが、肉体はまだまだ老いていない証拠だ。
「元老院議長か。わざわざの足労、大儀だった」
ルシウスは馬車の後部にかかっていた
血縁上は叔父と甥であるとはいえ、皇族の序列においては皇太子であるルシウスのほうが上位にある。臣下に対しては車を降りる必要はないのだ。
理屈の上では納得していても、デキムスの内心は穏やかではなかった。
小童も同然と侮っていたが、ルシウスはすでに帝王としての風格を身につけている。
どこまでも忌々しい甥だった。
玉座に座る姿を想像するだけで
デキムスは胸のうちで燃えさかる憎悪を噛み殺し、あくまで忠実な家臣を装う。
「このたびの道中、僭越ながら我らが先導申し上げます。もし殿下に万一のことがあっては、皇帝陛下に顔向け出来ませぬ。どうぞご安心くだされ」
「相分かった。首尾よく務めるがいい」
熱っぽく語るデキムスに対して、ルシウスの態度はあくまでそっけない。
「ときに元老院議長、エンリクスは息災か?」
ルシウスの口からその名が出ると、デキムスはわずかに眉根を寄せた。
周囲の側近でさえも気づかないほどわずかな兆候。
それもすぐに消え失せ、デキムスは何事もなかったかのように声色をつくる。忠義者の声色を。
「今は馬車で休んでおります。いずれ改めてご挨拶を――」
「つつがなくあるなら結構。このたびの承認式には、亡き兄上の遺児であるエンリクスにも同席してもらわねば困るからな」
デキムスは平伏したまま身じろぎもしない。
どれほど業腹であっても、本懐を遂げるまで殺意の片鱗も覗かせてはならない。
この旅がルシウスにとって死出の旅になることを悟られてはならないのだ。
「では、いずれパラエスティウムにて……」
デキムスは配下をぞろぞろ引き連れて自分たちの馬車に戻っていく。
ルシウスは下車することなく、遠ざかるその背を見送った。
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