第47話 車中にて

 山あいを吹き抜ける風が早春の色を運んだ。

 街道を南へ下るにつれ、寒気は少しずつやわらいでいくようであった。

 ルシウス一行の車列が帝都イストザントを発ってから、すでに三日が経っている。

 帝都盆地は険阻な山々に取り囲まれている。

 外へ出るための道は二つしかない。

 盆地の南北に設けられた関所――南嶺関と北嶺関がそれだ。

 車列は南嶺関を通過し、一路パラエスティウムを目指して峠道をひた走っている。

 皇太子ルシウスの座乗する馬車は、長大な車列のほぼ中央に位置していた

 前後には衛兵と従者が乗り込んだ馬車が、さらに外側には騎兵が配置されている。

 どの兵士の顔にも疲労の色が差している。

 親衛隊の中から選抜された精鋭でも、一日の大半を馬上で過ごすのは並大抵のことではない。

 刺客の襲撃に備えて常に神経を研ぎ澄ましているとなればなおさらだった。

 そんな兵士たちの苦労をよそに、イセリアは馬車の荷台のなかで生あくびをする。

 「なんか拍子抜けよね。案外このまま目的地に着いちゃったりして」

 呑気な調子でそう言うと、手近な木箱に手を突っ込んでごそごそと物色する。

 よく熟れた果実をつかみ取るなり、そのままかじりついた。

 「このまま何もなければ楽でいいんだけど――」

 「……そうだね。私もそう思う」

 オルフェウスは普段と変わらない抑揚の乏しい声で応じる。

 二人の少女が乗っているのは、食料品や衣類を積んだ荷馬車だ。幌がかかった荷台には木箱や樽がいくつも並んでいる。

 そのなかでイセリアとオルフェウスは所在なさげに過ごしているのだった。

 「珍しく意見が合ったわね。……これ、あんたも食べる?」

 「私はいい」

 「そう? だったら、あたしがあんたの分も食べてあげる」

 オルフェウスが答えるが早いか、イセリアは二個目を掴み取っていた。

 「それにしても、まさかあんたと二人で過ごすことになるなんてね」

 言って、イセリアは幌をわずかに開く。

 視線はすぐ後方を追走する馬車に向けられている。

 一行の馬車は全部で五台。

 そのうち、居住設備を備えているのは三台だけだ。

 残る二台には寝台どころか椅子さえ備え付けられていない。人を乗せるには不向きな輸送用の荷馬車だった。

 三人の騎士たちは、その二台に分乗しているのだった。

 道中襲い掛かってくるであろう刺客を迎え撃つためには、幌をどければすぐに飛び出せる荷馬車の方が都合がいい。

 イセリアにとって最大の誤算は、アレクシオスがたった一人で最後尾の馬車に乗り込んでしまったことだった。

 ――殿軍しんがりが一番大事だからな。

 アレクシオスの言葉に偽りはなかったが、半分は建前だ。

 いくら任務でも、三人で一台の馬車にすし詰めにされるのは耐えられない。

 どちらか一人と乗り込むにしても、それはそれで問題だった。

 イセリアと一緒なら、馬車が動いているあいだ中しつこく絡まれるのは間違いない。

 オルフェウスの場合は、逆に気まずい沈黙に耐えなければならない。

 それなら、いっそ自分ひとりで別の馬車に乗り込んだ方がよほど気が楽だ。パラエスティウムまでの長い道のりを考えれば、戦い以外で無駄に消耗することは避けたかった。

 当初は不満たらたらのイセリアだったが、ひとたび馬車が動き出してしまえばどうすることもできない。

 気づけば、馬車は少しずつ速度を落としているようだった。

 もちろん目的地に到着した訳ではない。立ち寄る予定の街はまだだいぶ先だ。

 街道の周囲には鬱蒼とした山林があるだけだった。木々のあいだできらきらと輝いているのは、道沿いを流れる渓流の川面だ。

 「このあたりで休憩とする!!」

 隊長格の兵士が叫んだときには、すでに五台の馬車は街道を外れた路肩に停車しつつあった。

 先を急ぐ旅とはいえ、日がな一日駆け続けては馬の脚が持つはずもない。

 馬を休ませるため、一定距離を走るごとにこうして小休止をもうける必要がある。

 適度な休憩が必要なのは、なにも馬ばかりではなかった。

 待っていたと言わんばかりに、幌をかき分けて兵士や従者がぞろぞろと降車してくる。

 渓流で水を汲む者、飼葉を食ませる者、簡便な食事を済ませる者……

 誰もが思い思いにつかの間の休息を楽しんでいる。

 皇太子のお付きだけあって兵士も従者もよく統率されているが、時折楽しげに談笑する声も漏れ聞こえてくる。

 イセリアとオルフェウスは馬車から降りようともせず、相変わらず薄暗い荷室に留まったままだ。

 二人ともそうしているのは、べつに示し合わせた訳ではない。

 「あたしもアレクシオスのいる馬車に行こうかなぁ」

 イセリアは聞こえよがしに言うと、オルフェウスのほうをちらと一瞥する。

 亜麻色の髪の少女は言葉を返さなかった。仮にイセリアがその言葉を実行に移したとしても、きっと引き留めもしないだろう。

 (なによ――澄ました顔しちゃってさ)

 オルフェウスの怜悧な横顔が視界に入るたび、イセリアは訳も分からず苛立ちを覚えるのだった。

 荷室を覆っていた幌がさっと左右に開かれたのはその時だった。

 差し込んだ光を浴びて、二人分の人影が浮かび上がる。

 「二人とも大丈夫ですか? 降りてこないから心配しましたよ」

 「今のうちに外の空気でも吸ってきたらどうだ」

 案の定と言うべきか、ヴィサリオンとアレクシオスであった。

 先ほどまでとは打って変わって、イセリアの表情がぱっと明るくなる。

 が、能天気に浮かれた素振りを気取られまいとして、

 「べつにいいわよ。もう三日もこんな調子じゃない。休憩のたびにいちいち降りるのも面倒になってきたわ」

 わざと暗く鬱屈した声色を作ってみせる。

 「パラエスティウムにはまだ着かないわけ?」

 「この峠を下れば道も平坦になります。その先にある港で船に乗り換えてしまえば、あとは三日とかかりませんよ」

 ヴィサリオンの言うことには、すでに全行程の三分の一を消化しているという。

 一行の傍らを流れている渓流は、やがて『東』の版図でも最大の大河――タナイス運河に合流する。

 なにかと不便の多い馬車と違って、船は動き出してしまえば、どんな乗り物よりも速く目的地に到着する。まさしく名実ともにこの時代における最速の移動手段であった。

 事実、『東』の物流の主力を担うのは水運であり、陸上交通はあくまで補助にすぎない。

 帝都に水路が接続されていないのは、急峻な地形もさることながら、あえて交通の便を悪くすることで侵攻を防ぐためでもあった。

 「問題は、このまま無事に山を降りられるかだ。山は身を隠すには最適だからな。敵が何も仕掛けてこないとは思えん」

 「あたしたちにビビって手出しできないんじゃないの?」

 「そうだといいんだがな」

 アレクシオスは呆れたように言うと、二人の少女にそれぞれ視線を送る。

 「イセリア、オルフェウス、配置を変えるぞ」

 待っていましたとばかりに同乗を申し出るイセリアを遮りつつ、アレクシオスはついさっきまで自分が乗っていた最後尾の馬車を指差す。

 「おれが殿下の馬車に近いほうに移る。おまえたち二人は殿軍しんがりを頼んだ」

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