第48話 襲撃序曲

 (本当にあいつらに任せて大丈夫なのか……)

 アレクシオスは心中でつぶやく。

 配置転換は納得ずくだが、それでも不安がない訳ではなかった。

 イセリアとオルフェウスの実力は確かだ。どちらも戦闘能力にかけてはアレクシオスの及ぶところではない。

 それでも、互いに足を引っ張るようなことになれば、刺客につけ入る隙を与えかねない。

 たとえ刺客を倒すことが出来たとしても、ルシウスの身に危害が及べばその時点でこちらの負けなのだ。

 荷台に乗り込もうとしたとき、ふいに背後に気配を感じた。

 アレクシオスはとっさに振り返る。

 気のせいではなかった。

 馬車から少し離れた場所に一人の少女が立っている。

 年の頃は十二、三歳といったところ。華奢な身体つきから、イセリアやオルフェウスよりひと回り歳下なのは間違いない。

 二つ結びにした髪の房が風に揺れている。東方人に特有の青みがかった黒髪。

 「――気づかれちゃったね」

 少女はいたずらっぽく微笑む。

 「この辺りの子供か? ここは遊び場じゃない。叱られないうちに帰れ」

 「知ってるよ――とっても偉い人が乗っているんだよね?」

 少女はやはり微笑を浮かべたまま、ルシウスの馬車を指差す。

 アレクシオスはとっさに身構える。

 「……何者だ?」

 「そんなに怖い顔しないでよ。私は敵じゃないんだから」

 少女は物怖じするどころか、軽い足取りでアレクシオスへと近づいていく。

 ぶつかる寸前で立ち止まると、アレクシオスの顔を下からのぞき込んだ。

 藍色のつぶらな瞳には一片の曇りもない。

 無邪気そのものだからこそ、底知れぬものが潜んでいる

 「いいこと教えてあげる――気をつけた方がいいよ」

 「なに?」

 「そろそろ何か起こるかも……ってこと」

 言って、少女はくるりと身体を回す。

 アレクシオスはおもわず少女の肩を掴もうとするが、伸ばした手は空を掴むばかり。

 少女はそんなアレクシオスを翻弄するように、つま先立ちでひらひらと舞ってみせる。

 まるで体重を感じさせない軽やかな体捌き。類まれな平衡感覚がなければ出来ない芸当であった。

 「大事な人を守るのがお兄ちゃんたちの仕事なんでしょ? ……頑張ってね」

 「何故おまえがそれを知っている? おまえは誰だ!?」

 「そのうち分かるよ。またね、お兄ちゃん」

 少女はからからと笑うと、やはり舞うようにして馬車の側面に回り込む。

 アレクシオスもすぐさま後を追う。

 視界から消えてから三秒と経っていない。すぐに追いつけるはずだった。

 アレクシオスは小さく声を上げた。驚きの声だった。

 馬車の側面には何もない。

 ただ、むき出しの土に荷車の影が落ちているだけであった。

 まるで蒸発でもしたみたいに、少女の姿は忽然と消え失せていた。


 奇妙な場所だった。

 めったに人の立ち入らない山の中腹にあって、そこだけはがらんとした空き地が広がっている。

 小さな家ならすっぽり収まってしまうほどの面積がある割には、遠目には森に埋もれて見える。

 背の高い広葉樹だけを天蓋のように残し、周囲の景観と同化するように欺瞞カモフラージュしているためだ。

 いま、薄暗い空間にひしめく影は五つ。

 ファザル、エフィメラ、ザザリ、アウダース――そして、シュラム。

 デキムスの屋敷を後にしてから数日、それぞれの準備を終えた暗殺者たちは、ふたたびこの場所に集合したのだった。

 眼下には渓谷がさらさらと流れ、その向こう側には街道が見える。

 「……あと少しで馬車が来る」

 誰にともなくぽつり呟いたのはシュラムだ。

 ルシウスの前を走る一隊がつい今しがた眼前の峠道を下っていったところであった。

 シュラムの見立ては、そこから逆算したものだ。

 複数の馬車が連なって移動するのは否応にも目立つ。まして騎兵まで連れているとなれば、一般の馬車とは容易に見分けがつくはずだった。

 「しかし、ルシウスという男も哀れだ。まさかこんな冴えない場所で死ぬことになるとは思ってもいないだろうにな」

 弦の張りを指で確かめながら、ファザルは心底同情しているみたいに言った。

 「なまじ高貴な家に生まれたのが運の尽きね――」

 エフィメラは薄く笑う。

 なまめかしい微笑は花がほころんだようだ。美しい毒の花であった。

 「風向きも上々。これならよく広がってくれるわ」

 「お……おいらは、もう少しあったけぇほうがよかった……な……」

 エフィメラが言い終わらぬうちに、消え入りそうな声を重ねたのはキュウマだ。

 醜怪な短躯に違わず、潰れたカエルみたいな汚い声だった。

 ザザリは先ほどから体中から下げた大小の壺を愛おしげに撫でつつ、心配げにちらりちらりと峠道に目をやっている。対岸とのおおまかな距離を測定しているようだが、その目的はむろん当人のほかに知る者もない。

 「ちょいと待ちな」

 頭上から胴間声がかかった。一斉に振り向けば、眉間に皺を寄せたアウダースが仁王立ちになっている。

 「まさか全員でひとつの的にかかろうって肚じゃねえだろうな?」

 「そうだ――と言ったら、どうする?」

 不平不満を隠そうともしないアウダースに、シュラムは鋭い視線を向ける。

 アウダースも鷹みたいな目に睨めつけられてなお怯む様子もなく、シュラムの倍以上はあろうかという体躯をそびやかせて威圧する。

 「ハッ――冗談じゃねえ。てめえらと仲良しこよしで仕事が出来るかよ」

 「アウダースの旦那、この期に及んで仲間割れは勘弁してくれないか。的はもうすぐそこまで来てるんだ」

 「仲間割れだあ? ……違うな、ファザル。俺が言いたいのはその逆よ」

 アウダースはくいと顎を動かし、対岸の峠道を指し示す。

 「よく考えてもみろ。俺たちの武芸わざはどう考えても集団戦向きじゃねえ。一斉にかかるより、一人ずつ的を殺りにいくほうがずっとマシだろうぜ」

 「そんな建前はいい。本音を言え、アウダース」

 シュラムは巨漢の目を見据えて問うた。

 「分け前だ。ラベトゥルの言うことにゃ、あの報酬は五十億ディナルはあるって話だ。五人で山分けしても、一人頭十億。あのジジイが言ってたように一生遊び暮らすにゃ困らねえだろう」

 そして、訝しげに見つめる他の面々の顔にねちっこく視線を巡らせたあと、

 「だが、貰えるならもっと欲しくなるのが人間の性ってもんよ。なにしろあんな大金、この機会を逃したらまず拝めやしねえからな。そこで俺にひとつ考えがある」

 アウダースは薄汚く黄ばんだ、しかし整った歯列をむき出しにして破顔する。

 「奴を殺った奴が四十億銭を頂くってのはどうだ? そして残った十億銭を四人で山分けするんだ。これなら苦労せずに二億五千万銭は手に入る。少なく聞こえるかもしれんが、並の人間にゃ一生かかっても稼げん大金だぜ」

 アウダースは「どうだ?」と言わんばかりに一同を見る。

 それぞれの顔に呆れや軽蔑、驚嘆といった表情が一瞬に浮かんでは消えていく。

 ただひとりシュラムだけは顔色も変えず、黙然と腕を組むばかりだった。

 「……俺は賛成だ」

 わずかな沈黙のあと、ファザルが口を開いた。

 「たしかに全員で一斉にかかれば成功率は上がるだろう。だが、的を殺るまでに誰かが死ねば、それだけ生き残った奴らの分け前が増える。あんたたちは仲間を囮にしないと言い切れるか?」

 心中に湧いた疑念を隠すことなく、弓使いの青年はあくまで切々と語りかける。

 「あんたたちには悪いが、俺は絶対にしないとは言い切れない。だから、アウダースの旦那に従うことにする」

 「……私もそれでかまわないわ」

 「お、おいらも……」

 ファザルの言葉にエフィメラとザザリも雷同する。

 となれば、四人の視線がシュラムに集中するのは当然だった。

 「――好きにしろ」

 シュラムは言い捨てると、一同に背中を向ける。

 元より他力によらず、自分ひとりで標的を仕留めるつもりでいた男である。

 単独で暗殺を遂行することになったとしても、やるべきことには何ら変わりはない。

 「さて、となると問題は誰から行くかだが……」

 「まずは俺に行かせてくれ。山の中での狩りは得意中の得意だ」

 ファザルは虚空に弓を構えると、まだ見ぬ標的に向け、びいんと弦を弾いてみせる。

 「四十億の的はこの俺がいただく」

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