第49話 狩人の間合い


 山々のあいまを縫うように伸びる峠道は、ある地点を境にがらりと表情を変えた。

 天を覆うように重くのしかかっていた山体の連なりが途絶えたためだ。

 大小ふたつの山が形作るいびつな谷間の先には、見渡すかぎりの地平線が広がっている。

 広大な平野を流れる銀の筋は、陽光を浴びて輝くタナイス運河の水面だ。

 よく目を凝らせば、川沿いに築かれた城市まちがみえる。それこそが目指す港であり、馬車の旅の終点だった。

 「やっと馬車から降りられそうね」

 幌の合間から覗く景色が変わったのを見て、イセリアははしゃいだ。

 なにしろ代わり映えのしない峠道を三日も走り続けていたのだ。

 その上、決して快適とは言いがたい馬車である。終点が近づくのを見て、おもわず小躍りしたくなるのも無理はない。

 「何も起きなくてよかった。アレクシオスはああ言ってたけど、もう峠も終わるし、街に入れば敵も襲ってこないでしょ」

 「……そうだといいね」

 オルフェウスはいつものように感情の欠如した声で呟く。

 喜び弾んでいるイセリアとはどこまでも対照的だった。

 いま、ふたりの少女は最後尾を走る四頭立て馬車の荷台にいる。

 この馬車には、護衛の兵士たちが用いる予備の兵器や防具類が積まれている。

 そのため車速は出ず、牽引する馬たちは息を切らしながら他の馬車や騎兵をどうにか追いかけているありさまだった。

 ちょっとした部屋ほどもある荷室のなかには、ざっと見渡しただけでも十数本からの刀剣に短槍、手投げ槍、弓、弩、果ては要塞に据え付ける床弩バリスタまでもが整然と並べられている。これらの兵器は、港に到着した後は荷台ごと船に載せ替えられ、一同とともにパラエスティウムまで向かうのだった。

 「それにしても、こんなにいっぱい武器があると金物臭くてイヤになるわね」

 イセリアは腹ばいになると、そこらにかかっている兜を指でかるく弾く。

 親衛隊の装備品らしく上質な鉄があしらわれた兜は、イセリアの指が触れるたびに冷たく澄んだ音を立てた。

 まるで楽器を奏でているみたいに何度も同じ動作を繰り返すイセリアを、オルフェウスは何も言わずに見つめている。

 やがて自分に注がれた視線に気づいたのか、イセリアはいかにもばつが悪そうに手を引っ込める。

 「……あんた、何じーっと見てんのよ」

 「やめちゃうの?」

 「続けたかったら自分でやればいいじゃない。簡単でしょ?」

 そう言ってイセリアは兜を差し出すが、オルフェウスは渡されたそれを両手で抱えたまま、何をするでもなくぼんやりと眺めるばかり。

 「まったく、あんたと一緒にいると調子狂うわ。早く船に乗り換えて二人きりから解放されたいわね」

 イセリアはオルフェウスから顔を背け、付き合っていられないと言うようにため息をもらす。

 つい先刻、ヴィサリオンは何事もなければ夜までには港に到着すると言った。

 船がどれほどの大きさかは知らないが、一つの荷台に押し込められるよりはマシであることは間違いないだろう。

 と――馬車の走行音に、なにか奇妙な違和感が混ざり込んだ。

 騎士の聴覚でも聴き逃してしまいそうな、それはごく小さな異音だった。

 錯覚ではないと理解したのは、数秒後のことだ。

 どこかでどさりと音がした。中身の詰まった袋を高所から落としたような音だった。

 イセリアが不審に思って後部の幌をかき分けると、落馬した兵士の姿が目に飛び込んできた。

 背中のちょうど心臓のあたりに深々と矢が突き立っている。即死であった。

 「敵襲だ! 一人やられた!!」

 護衛の騎兵にざわめきが広がり、車列はにわかに速度を増す。

 「ただちに円陣を組み、殿下の馬車を守――」

 隊長格の兵士は最後まで命令を言い切ることが出来なかった。

 喉首を矢に貫かれたためだ。物言わぬ身体が鞍から落ちる。

 どこまでも精確な狙撃であった。

 人体の急所を知り尽くしていなければこうはいかない。

 射手は依然として姿を見せぬまま、文字通り矢継ぎ早に攻撃を仕掛けてくる。

 そうして放たれた矢は、一本につき一人の兵士の生命を確実に奪っていく。

 騎兵が絶え間なく移動していることを考慮すれば、まさに恐るべき技量だった。

 「イセリア! オルフェウス! 敵を食い止めろ!! ――おれは殿下を守る!!」

 ひとつ前を走る馬車の荷台でアレクシオスが絶叫する。

 言い終わるが早いか、少年の五体は見る間に異形へと変じていった。

 一瞬のうちに少年の姿は消え失せ、頭頂から爪先まで黒曜石みたいな装甲に覆われた戎装騎士ストラティオテスが出現する。

 黒騎士は両脚の推進器を全開すると、ルシウスの馬車に飛び移った。

 「こっちは任せといて!!」

 アレクシオスを見送りながら、イセリアも戎装を開始する。

 ふと傍らに目を向ければ、オルフェウスも戦いに参加するつもりで立ち上がっていることに気づく。

 「イセリア、私が――」

 「ダメよ。あんたはしばらくじっとしてなさい。この前の戦いでバテて動けなくなったのを忘れた訳じゃないでしょうね!?」

 戎装を完了し、黄褐色の分厚い装甲を全身にまとったイセリアは、突き放すように言い放つ。

 「たしかにあんたがいれば心強いけどね。まだ敵の数も分かんないのに出ていくのは早すぎるっての。ここはあたしとアレクシオスに任せて、あんたは自分の出番が来るまで座ってなさい!! いいわね!?」

 言って、イセリアは両手で荷台を覆っていた幌をなぎ払う。

 鋭利な爪の一閃を受けた幌は骨組みごと切り裂かれ、一気に視界が開ける。

 「敵は!? どっから撃って来てるのよ!?」

 森のなかから絶え間なく飛来する矢を防ぎながら、イセリアは苛立たしげに叫ぶ。

 どうやら敵は騎兵の掃討をあらかた終え、守りが手薄になった馬車に攻撃を集中させるつもりらしい。

 「もっと速度を上げろ!! 山を降りなければ、このままいいようにやられるだけだ!!」

 馬車の屋根にしがみついたアレクシオスは、御者台に向かって叫ぶ。

 そうするあいだにも両手首から槍牙カウリオドゥスを展開し、四方八方から飛来する矢を弾くのも怠らない。

 だが――いかに戎装騎士の動体視力と反射神経を以ってしても、すべての矢を迎撃するのは至難だ。

 すでに馬車の外壁にはいくつも矢が突き刺さり、そのうち何本かは分厚い防護を貫いて車内にも達している。

 「イセリア、そっちの荷台に鉄火箭は積んでないのか!? あれなら邪魔な木ごと敵を吹き飛ばせる!!」

 「そんなこと急に言われたって!!」


 鉄火箭――

 それは『東』において五十年ほど前に開発された火薬兵器だ。

 全長およそ一メートル前後。後端には湾曲した銃床が据え付けられていることから、鉄曲杖とも呼ばれる。

 太い銃身から球状の炸裂弾を発射する、先込め式の手砲ハンドカノンであった。

 『東』では鉄火箭に先立って大砲が実用化されていたが、取り回しの悪さからあくまで特殊な攻城兵器として位置づけられるに留まっていた。

 鉄火箭は、大砲を歩兵が携行可能な大きさに縮小するという構想に基づき、弓や弩に代わる次世代の兵器として生み出されたものだ。当時最先端の技術が惜しげもなく投入された鉄火箭は、採用から二十年ほどのあいだに軍の主力兵器の一角を占めるに至った。

 やがて北方辺境で戎狄バルバロイとの戦いが始まると、鉄火箭は初めて実戦に投入された。

 そして――鋼鉄の身体をもつ戎狄に全く通用しなかったことが、この兵器の運命を決めることになった。

 そもそも銃火器自体が『東』の保守的な用兵思想と相容れなかったことに加えて、実際に戎狄と戦った前線の兵士から忌避されたことが決定打となり、ほどなくして鉄火箭は主力兵器の座を逐われたのだった。

 最終的に戎狄は戎装騎士ストラティオテスによって一掃されたことを考えれば、鉄火箭という兵器は騎士によって前途を閉ざされたと言っても過言ではない。

 なお、鉄火箭は西方にも伝来し、人間同士の争乱が絶えない同地において急激な普及と発展を遂げたが、それはまた別の話である。


 「撃てるものならなんでもいい!! 敵は森のなかだ。何人いるか知らんが、反撃すれば姿を現すはずだ!!」

 「でもあたし、弓なんて使ったことないし……ん?」

 使えそうな武器を探すうちに、荷台の片隅に置かれた床弩バリスタが目に留まった。

 床弩は、攻城戦や対陣地戦で用いられる大型の弩である。

 その名が示すとおり、床(地面)に固定して用いられる。内蔵された強力な発条バネによって通常の弩とは比べものにならない破壊力をもつ一方、射撃時の反動も凄まじく、数人がかりでなければ扱えない。

 おそらく船に乗り換えてから、船尾か舷側に設置するつもりだったのだろう。

 人間ではまず持て余す大型兵器だが、戎装騎士の力なら難なく扱うことが出来る。

 「いいもの見つけた! これならどこに隠れててもぶっ飛ばせるわ!!」

 イセリアは数百キロはくだらない巨大な床弩バリスタを軽々と持ち上げると、腰だめの姿勢で構えてみせる。

 そのあいだにも矢はひっきりなしに飛来し、イセリアの身体に次々と命中する。

 額、喉、胸、腹、下腿――

 いずれも人間の急所である。たとえ一矢でも被弾したなら致命傷は免れない。

 だが、戎装騎士であれば話は別だ。

 五体を隙間なく覆う極厚の装甲に阻まれ、へし折れた矢が荷台の上に散乱する。

 どれほどの弓の名手であろうと、腕力で矢を発射している以上、威力にもおのずと限界がある。

 分厚い装甲に鎧われたイセリアにダメージを与えるようとするのは、矢で巨岩を割ろうとするのに等しい行為だった。

 「今度はこっちから行くわよ!!」

 イセリアは巨大な矢を装填すると、床弩バリスタの後部に設けられたハンドルを思いきり引き下げる。

 発条バネ仕掛けの強力な発射機構は、本来なら大の男が数人がかりでなければびくともしないはずであった。

 イセリアはそれを苦もなく最大限に引き絞ってみせたのだった。

 頭部に刻まれたスリットに不規則に光が流れる。一見無秩序に見えるそのパターンは、やがて一つの方向に収束していく。

 感覚器から取り込んだ情報を統合し、照準を定めているのだ。

 鬱蒼とした木々の彼方、いまだ姿を見せない刺客の気配を捉えて、イセリアは引き金を引く。

 太い矢は一直線に大気を切り裂き、道沿いの森のなかへと飛び込んでゆく。

 床弩バリスタは元来攻城兵器である。矢には堅牢な城壁を穿つだけの威力がある。

 命中すれば、どれほど樹齢を重ねた巨木であろうとひとたまりもない。

 それを証明するように、森の奥で立て続けに轟音が湧き起こった。

 木々がもつれあいながら倒れ、土煙が舞う。空に向かって迸った黒い煙みたいなものは、何百羽とも知れない鳥の群れだ。

 「もう一発――!!」

 イセリアは第二射を放つべく床弩を構えなおす。

 そのとき、折り重なって倒れる木々の合間から、人馬の影が街道に躍り出た。

 馬上には狩装束に身を包み、襟巻で顔を覆った男の姿。右手に大弓を携え、左手だけで巧みに馬を操っている。

 ファザル。

 草原の狩人は、標的に向かって疾駆を開始した。

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