第50話 草原の貴公子

 草原の民――

 彼らがいつからそう呼ばれていたのか、正確なところは誰にも分からない。

 そもそも、草原の民と一口に言うが、実際は百をゆうに超える遊牧民の集団の総称である。

 その名が『帝国』の史書にはじめて現れるのは、今から千年あまり前に遡る。

 時の皇帝が大陸東方に派遣した遠征軍と最初に遭遇し、激しい抵抗を示した集団。それこそが彼らの先祖だった。

 史書によれば、彼らは西方のいかなる民族よりも馬術に長け、騎射を得意としたという。

 それは敵を称賛することで、その強敵さえ討ち平らげた『帝国』の偉大さをより際立たせる迂遠な修辞法レトリックでもある。

 史書につきもののその種の筆法を差し引いても、彼らの驍勇果敢な戦いぶりが東方遠征軍に多大な出血を強いたことは紛れもない事実だった。

 その後、敗北を経て『帝国』への臣従を誓った草原の民は、大陸全土の統一に多大な貢献を果たしたと伝えられている。

 あるいは、彼らが馬術や弓術以上に卓越していたのは、時勢の先を読む能力であったのかもしれない。

 古帝国の最後の時代、東方属州に流謫された興祖皇帝が挙兵した際にも、彼らはまっさきに加勢したからだ。そうして『東』の建国を支えたことが今日の草原の民の地位を確固たるものにした。

 歴代の皇帝から広汎な自治権を与えられた草原の民の居住地は、『東』の最西端でほとんど独立国のような様相を呈している。

 今なお大小さまざまな部族が混在する草原の民だが、実際の権力は十二の名家によって独占されている。

 ファザルが生を受けたのは、そうした草原の貴族のひとつだった。

 生まれながらに弓馬の才能に恵まれていたファザルは、九歳の頃にはもはや師匠を必要としなくなった。

 そして十二歳になる頃には、凄腕の狩人として各部族に広く名を知られるようになった。

 父母もファザルの才能を愛し、ゆくゆくは一族を背負って立つ大器として一方ならぬ期待をかけたのだった。

 早熟の天才は長じてからは知勇兼備の美男子となり、その前途には何の不安もないように思われた。

 だが――豊かすぎる才覚は、時として自分自身に牙を剥く。

 十七歳になったばかりの冬の日、ファザルは人妻と姦通した容疑で捕縛された。

 悪いことに、相手は諸部族のなかでも指折りの名門の正妻であった。

 ただちに部族会が招集され、長老衆による詮議の場が持たれた。

 各部族の代表者に囲まれるなか、ファザルはあっさりと自身にかけられた容疑を認めたのだった。

 先に誘惑したのは女の側であった。女は後妻に迎えられたばかりで、夫とは祖父と孫娘ほども年齢が離れている。若く才能にあふれた年下の美男子に惹かれたのは自然のなりゆきだった。

 それだけに、男性としてのプライドを完膚なきまでに踏みにじられた夫の怒りは、想像を絶するほどにすさまじかった。

 女はすぐさま斬首され、ファザルも見せしめとして馬車に轢き殺されることが決まった。

 大地を神聖視し、おのれの血が大地に流れることを忌避する草原の民にとって、これは何よりも屈辱的な処刑方法であった。

 親族による懸命の助命嘆願もむなしく、いよいよ処刑の日が訪れた。

 各部族の立会人が見守るなか、処刑は古式に則って執り行われる。妻を寝取られていまだ怒りの冷めやらぬ夫も臨席している。

 憎悪してやまない間男の最期を特等席から見届けようというのだ。

 ファザルは杭に身体をくくりつけられ、念には念とばかりに刑の執行まで監視役がつけられた。

 角笛が吹き鳴らされ、それを合図として馬車が走り出した。

 地鳴りみたいな蹄の音が大地を揺らし、哀れな犠牲者に最期の時が来たことを告げる。

 それまで覚悟を決めたように瞼を閉じていたファザルだったが、馬蹄の音が一定距離に近づいたのを察すると、かっと目を見開いた。

 ファザルは爪をみずからの掌に食い込ませる。あらかじめ掌に埋め込んでおいた刃の欠片をえぐり出し、血まみれのそれで縄を切ると、そのまま監視役の喉に突き立てた。

 「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げて絶命した監視役には目もくれず、ファザルはそのまま馬車へと飛び乗った。

 すかさず馭者の顔面に強烈な裏拳を叩き込むと、そのまま手綱を奪い取ったのだった。

 時間にしてわずか十秒にも満たない、ほんのわずかのあいだの出来事であった。

 立会人たちは何が起こったかも分からず呆然と立ち尽くしていたが、ファザルの操る馬車が自分達のいる天幕に突っ込んでくるのを目の当たりにして、ようやく事態を理解したようだった。

 いまや処刑する側とされる側は完全に逆転した。

 誰もがぎゃあぎゃあと獣じみた絶叫を上げ、蜘蛛の子を散らすみたいに四分五裂して逃げ惑う。

 ファザルは恐慌状態に陥った立会人たちには一瞥もせず、ただ一人を執拗に追い回す。

 不貞を働いたとはいえ、一度は妻に迎えた女をあっさりと殺した夫は、ファザルにとって到底生かしておけない相手だった。

 馬蹄と車輪は老いさらばえた夫の身体を容赦なく踏みしだき、無残に蹂躙した。それは本来ファザルが迎えるはずだった、屈辱にまみれた惨たらしい死であった。

 ファザルは悲痛な断末魔に笑い声で応じると、そのまま馬車を東へと走らせた。

 三日後――ファザルの追撃にあたった部族の男たちが見つけたのは、小川のほとりに乗り捨てられた空の馬車だけだった。

 大人ならば一跨ぎで越えられそうな小川。

 それは、草原の民と『帝国』の領域を隔てる境界線だ。

 一歩境界を踏み出せば、ファザルの処置は『帝国』の司法に委ねなければならない。独断で私刑を下せば、逆に彼らの方が罰せられる。それが数百年来の双方の暗黙の了解だった。

 かくしてファザルはまんまと追討の及ばぬ場所へと逃れ、また草原の民の側でも醜聞を外に漏らさぬようにとの配慮から、一連の事件は闇へと葬られた。

 それでも事件の影響がなかった訳ではない。ファザルのしでかした不祥事のために、彼の生家はほどなくして取り潰された。

 ファザルがそれを知ったのは、弓を使う暗殺者として裏の世界で多少名が売れ始めていた頃だった。

 (これでいい――)

 もはや帰る場所も、顧みるべき人もない。

 天涯孤独の身の上になったことを、ファザルはむしろ前向きに捉えていた。

 暖かな家も安らぎもいらない。弓と自分の腕ひとつを頼りに日々の糧を得る。

 狩人の血が真に欲していたのは、そんな生き方ではなかったか? ――ファザルはそう自問しては、曖昧な笑みを浮かべたのだった。

 (この仕事の報酬を手に入れたら、どこに旅に出ようか)

 命尽きるまで、この世の果てまで旅をしたとしても、おそらく使い切れないだろう。

 それでよかった。見たいものを見、行きたいところに行って死ねるなら、それ以上の幸福はないのだから。

 もっとも、それもあくまで仕事を成功裏に終えられたならばの話だ

 しくじれば、夢想は夢想のまま、まさしく取らぬ狸の皮算用に終わる。

 (妙な連中もいるようだが、俺は俺の仕事を果たすだけだ)

 騎士たちを視界の片隅に捉えつつ、真正面から彼らと対峙する愚は犯さない。

 狙うはあくまでルシウスの乗る馬車ひとつ。

 「ルシウス・アエミリウス・シグトゥス――お命頂戴する!!」

 先頭をゆく馬車が射程内に収まったことを確認すると、ファザルはたすきがけにした矢筒から新たな矢をつがえた。

 そのまま弓をほとんど水平に寝かせる。それはデキムスの屋敷で披露した曲射の構えだった。

 狩人の瞳に冷たい炎が灯った。

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