第51話 猟人散華
「……馬車を止めろ! 早く!」
アレクシオスは屋根の上から御者台にむかって叫ぶ。
驚き振り向いた二人の御者の顔はどちらも青ざめている。先ほどからのべつまくなしに矢を射掛けられているのだから当然だ。
御者はアレクシオスに抗弁するでもなく、かといって命じられるままに馬車を止めるでもなく、依然として街道を駆け続けている。
護衛の騎兵がほとんど全滅しかかっているなかで、彼らがかろうじて生き残っているのは、単に刺客より前を走っているからにすぎない。もしわずかでも速度を落とせば、敵はたちまち距離を詰めてくるだろう。
戦場と化した街道上に残された貴重な安全圏をみすみす放棄するのは、皇太子の身の安全という意味でも首肯しかねる提案だった。
アレクシオスもそんな御者たちの不安を察してか、
「心配するな。見たところ、矢を放っているのは一人のようだ」
言って、ちらと後方を見やる。
弓を構えた青黒い隻影は街道から森へ、森から街道へ、絶えまなく位置を変えながら疾駆している。
思いきって姿を晒したことで、ファザルの挙動はそれまでにも増して大胆不敵になったようだった。
イセリアも接近させまいとしきりに
「こちらが動きを止めれば、奴も多少動揺するはずだ。そのあいだにおれたちが奴を仕留める。殿下の馬車には指一本も触れさせはしない!!」
力強く言い切ったアレクシオスに、怖気をこらえていた御者たちも多少は勇気づけられたらしい。
馬車は少しずつ速度を落とし始めた。
後続車との衝突の危険を低減し、安全に停止するため、馬車は街道の路肩へと近づいていく。
そのとき、アレクシオスの視界の下方を銀色の光が流れていった。
ごろんと何かが落ちる音がした。
馬車の前部からふたつばかり血柱が吹き上がったのは、次の瞬間だった。
とっさに御者台を覗き込んだアレクシオスは言葉を失った。
御者台に座っているのは首のない死体だ。二人の御者は、一瞬のうちに首を刎ね飛ばされていた。
状況を把握する間もなく、またしても銀光が視界をよぎった。
戎装騎士の動体視力でなければ、それが矢であることを看破することはまず不可能だったはずだ。
矢は本来なら決してありえない軌道を描いて飛んでいた。まるでそれ自体が意思を持っているかのようにうねり、ひとたび標的に命中すれば骨さえたやすく食いちぎる。
ファザルが放った矢は縦横無尽に空中を駆け巡り、二人の御者の生命を一瞬のうちに奪ったのだった。
アレクシオスがそれを理解したところで、馬車は急激に安定を失いはじめた。
御者を仕留めたファザルが次に狙ったのは、馬車を牽引する馬だった。六頭の馬のうち、四頭までもが一矢のもとに脳髄を貫かれていた。
二人の御者と四頭の馬は、自分が死んだことにも気づかなかっただろう。
それはファザルのせめてもの温情だったのかもしれない。確実に言えるのは、狩人の技量は神業と呼べる領域に入っているということだ。
四頭の死骸は折り重なるように馬車の下に潜り込み、前後の車輪がそれに乗り上げる。
四輪が石畳を離れ、馬車は空中に投げ出される格好になった。
アレクシオスは屋根にしがみつきながら、全身を伝う衝撃が過ぎ去るのを待った。
皇族が使用するだけあって、馬車の車体はきわめて堅牢に作られている。着地の衝撃でも脱輪や外装の剥落は生じなかった。
だが、二頭の馬と馬車とを繋いでいた馬具が衝撃に耐えかねて外れ、ついに馬車はすべての駆動力を喪失した。
それだけではない。
操縦者である御者と、動力源であると同時に制動装置も兼ねていた馬を失い、馬車は予期せぬ速度で路肩に突進している。
このまま進めば、路肩の木立への衝突は不可避だ。そうなれば、いかに頑丈な馬車といえど無事では済まない。
「やらせるか!!」
アレクシオスは屋根を蹴り、馬車の前面に飛び降りる。
両手で暴走する馬車を押し止めようというのだ。
街道の石畳と足底が摩擦し、激しく火花を散らす。あたりにはきな臭いにおいが漂い始める。
両脹脛の装甲が大きく展開し、推進器がせり出す。轟音とともに吐き出された青白い噴射炎が石畳を焦がした。
そのあいだにも、ファザルは着々と距離を詰めている。
巧みな手綱さばきでイセリアとオルフェウスの乗る最後尾の馬車をやり過ごすと、ルシウスの馬車に向かって急迫する。
(――これで終わりにしてやる)
ファザルが取り出したのは、通常の征矢とは明らかに異なる矢だった。異様な太さの箆は空洞で、内部には可燃性に富んだ樹脂がみっちりと充填されている。
着弾と同時に発火し、さらに飛散した樹脂を伝って延焼することで広範囲を焼尽させるものだ。その威力は、通常の火矢の比ではない。
ひとたび命中すれば、矢を通さぬ堅牢な車体はそのまま火葬棺と化すだろう。
それだけに重量と大きさも嵩み、ファザルは予備を含めてわずかに二本を携行しているだけだった。
まず御者と馬を殺し、足を止めた上で確実に標的を葬り去る――それがファザルの必殺の戦略だった。
と、横合いから猛然とファザルに肉薄するものがある。
護衛の騎兵のうち、幸運にも難を逃れていた一騎であった。
「ちっ……雑魚が、まだ生き残っていたか!!」
長剣を抜き放って迫る騎兵に、ファザルも応戦の構えをとる。
鞍から幅広の山刀を引き抜くと、そのまま騎兵が振り下ろした長剣を受け止める。
馬上で数合打ち合い、激しい鍔迫り合いさえ演じたが、勝負はつかない。
どちらも一歩も譲らない戦いのなかで、先に身体を離したのはファザルだった。
「よくも俺に刀を使わせたな!!」
騎兵をやりすごしながら、ファザルは忌々しげに吐き捨てる。
草原の狩人が頼みとするのは弓だけだ。刀はもっぱら仕留めた獲物を解体する時だけに使用される。
自衛のためとはいえ、戦闘で刀を用いるのは狩人として恥ずべき行いであった。
それきり騎兵には目もくれず、ふたたびルシウスの馬車へと猛進する。
馬車を押し止めることに集中していたアレクシオスは、近づいてくる馬蹄の音に意識を引き戻される。
すでに矢はつがえられている。とても今から迎撃に向かって間に合う距離ではない。
ただひとりを除いては――
「オルフェウス!!」
アレクシオスはありったけの声をしぼり出す。
次の瞬間、亜麻色の髪の少女は、真紅の
戎装と同時に加速に入ったのは、アレクシオスの叫びにこめられた意味を汲み取ったからにほかならない。
オルフェウスの身体はまたたく間に超高速域に到達する。
周囲のあらゆる事物が動きを止める。普段は意識すらしていない大気はにわかに粘性を帯び、ねっとりとした水飴の海をかき分けるような感覚だけが表皮へと伝わる。音もなく、光さえ届かない世界へとオルフェウスは没入していく。
そして――万象が凍てつく静けさのなかで解き放たれた”破断の掌”は、ファザルの両腕ごと弓矢を消し去っていった。
異形へと変じた少女の両掌には、不可視の刃が整然と配置されている。
刃の数は、およそ十六兆と二千億。
血の一滴も噴出させることなく、木片ひとつ残すこともない。
まるで最初から存在していなかったみたいに、触れたものすべてを無へと回帰させるのだった。
ファザルがどれほど弓馬の才に秀でていようと、それは人間という枠の中でのことだ。
オルフェウスの前では、天下無双の弓術も、神がかった手綱さばきも、何の意味も持たない。
ひとたび彼女に殺意を向けられれば、もはや何人にも抗う術などないのだから。
凍りついていた時間が、ゆるゆると溶けはじめた。
オルフェウスの感覚器にも少しずつ音と光が戻る。大気がさらさらと流れ出す。
真紅の騎士は、ようやく見知った世界への帰還を果たしたのだった。
その傍らで、転がるように落馬したのはファザルだ。
手綱ごと両腕を失っては、いかに馬術の名手でもこうなるのは道理だった。
聡明な狩人も、自らの身に何が起こったかは見当がつかないようだった。
腕の切断面から堰を切ったみたいに鮮血があふれだす。呵責なく神経を灼く痛みだけが、これが夢などではないことを示している。
他の馬車も次々に停止し、降車してきた兵士がまたたく間にファザルを取り囲む。
「オルフェウス、殺すな!!」
アレクシオスが叫ぶ。
「そいつには山ほど聞きたいことがある。黒幕が誰か、仲間はどこに何人いるのか、洗いざらい吐いてもらうぞ」
「……見くびってもらっては困るな」
「なんだと?」
ファザルは激痛に苛まれながら、呵呵と笑い声を上げる。
「あまり甘く見るなよと言っているんだ。殺されても口は割らん」
「強がりを言うのはよせ。素直に言えば、その傷の手当をしてやってもいい。今ならまだ助かるはずだ」
「ほざけよ、バケモノ――」
アレクシオスを嘲笑するように、ファザルはへらへらと笑ってみせる。
大量の血を失ったためか、整った顔には死相が浮かんでいる。どこまでも豪胆な末期の笑みだった。
「見ての通りだ、俺はしくじった――あとは、頼む」
顔を上げたファザルの眉間を、するどい銀光が貫いた。
銀の一閃は後頭部から侵入し、勢いもそのままに額へと突き抜けていった。
それは極細の針であった。常人には目視すら困難な針は、石畳に激突すると、誰に気づかれることもなく砕け散った。
血溜まりのなか、ファザルは前のめりに倒れ込む。
アレクシオスが駆け寄ったときには、すでに事切れたあとだった。
血まみれの凄絶な最期を遂げたにもかかわらず、その顔は不思議と安らかでさえある。
生命尽きるその瞬間、どのような思いが狩人の胸に去来したのか。物言わぬ死者のほかには知る者もない。
「……終わりましたか?」
アレクシオスの背後で馬車の扉が開いた。
ゆっくりと顔を出したのはヴィサリオンだ。衝撃のためか前髪は乱れ、女と見まごうような細面にははっきりと憔悴の色が見て取れる。
「ヴィサリオン! 殿下はご無事か!?」
「それは……」
戎装を解いて駆け寄るアレクシオスに、ヴィサリオンは言葉を濁す。
アレクシオスがもしやと思って車内を覗き込もうとしたそのとき、ふいに背後から声がかかった。
「――余ならば大事ない」
そこに立っていたのは、今しがたファザルと鍔迫り合いを演じた騎兵だった。
頭部全体を覆う兜を着用しているため顔は見えないが、その声はたしかにルシウスのものに間違いなかった。
「殿下!?」
「山道を抜けるまでに敵の襲撃があると分かっているなら、いっそ護衛の兵に紛れたほうが安全であろうと思ってな。そうだな、ヴィサリオン?」
ルシウスは兜をかぶったまま、くいと顎をヴィサリオンに向ける。
「私はお止めしたのですが、殿下がどうしてもと仰せられるので……」
「こうして生き延びることが出来たのだからよいではないか。そなたも影武者の大任ご苦労であった」
「だいぶ寿命が縮まった心地がいたしますが、お役に立てたなら光栄です」
ルシウスは苦笑しつつ兜を脱ぎ、アレクシオスへと顔を向ける。
「そなたら騎士も見事な働きだった。余はまたしても命を救われたな。礼を言う」
「あの二人のおかげです。俺は何も……」
アレクシオスの言葉を受けて、ルシウスはオルフェウスとイセリアのほうを見る。
そうなれば、当然、街道上に点々と横たわっている護衛兵の亡骸も視界に入ってくる。
ファザル一人のために帝都から随行していた騎兵はほとんど全滅しかかっている。馬車一台を失ったことも含めて、被害は決して軽いものではない。
「兵の亡骸の回収を急ぐとしよう。ここに留まっていては、いつまた襲撃を受けるかもしれん」
そう言って踵を返したルシウスの背に、アレクシオスははっと思い出したように問いかける。
「そういえば殿下、ラフィカはどこに? こんな時だというのに、先ほどから姿が見えませんが――」
「あいつには別命を与えている」
ルシウスの返答はそっけない。
ともすれば冷たく聞こえるその言葉には、その一方で隠しきれない情が滲んでもいる。
「……無事に戻ってきてくれればいいのだがな」
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