第52話 剣鬼二人

 タナイス運河のほとりに、その城市まちはある。

 名をアストリカという。

 河の湾曲に沿うように三日月状のゆるやかなカーブを描き、しかも川面に向けて大胆に開かれた城壁が目を引く。

 一辺がまるまる欠けた城壁は、外敵に対する防衛設備としては用をなさない反面、港湾としてはこれほど合理的な形状もない。

 それを証明するように、城市から運河に向けて大小の埠頭が突き出し、無数の船が舷を連ねている。港には荷揚げされた物資を一時的に保管する倉庫街や、傷んだ船を補修する工房が付随し、その規模は運河沿いの港湾としては申し分のない水準にある。

 そして、ひとたびその外周に目を向ければ、この城市まちでしか見られない光景が広がっている。

 港を覆い包むように市街地がせり出し、道路に至ってはまるで定規で線を引いたみたいにまっすぐ城門と港を結んでいる。

 それは陸に揚げられた荷物をすみやかに馬車に載せ替え、帝都イストザントをはじめとする各都市へ輸送するための工夫の産物だ。

 悠久の歴史のなかで自然に人が集住し、いくつもの段階を経て発展を遂げた街ではこうはいかない。『東』には古帝国時代より前に建設された古都がいくつも存在するが、それらの都市構造はいずれも入り組み錯雑として、およそ整然とはほど遠いありさまだった。

 帝都がそうであるように、アストリカもまた人為的に設計された新興都市だった。

 いにしえの昔、このあたりは草木がまばらに生い茂る原野であった。

 古帝国時代も状況にさして変化はなく、せいぜい漁業によって生計を立てる小集落が点在するに留まった。

 やがて時代が下り、興祖皇帝によって『東』の政権が樹立されると、状況は一変した。

 峠を越えた先の盆地にあらたな首都みやこの建設が決まったのだ。

 さしあたって必要とされたのは、運河を用いて各地から運ばれる大量の資材を降ろすための大規模な港だった。そこに資材を一時的に集積・保管するためのさまざまな施設、さらには人夫とその家族が居住する家々が付帯すれば、一個の都市の姿が浮かび上がってくる。

 人跡もまばらだった原野はまたたく間に拓かれ、帝都の祖型プロトタイプとでも言うべき都市計画が実行に移された。

 およそ三百年ほどまえのことだ。

 帝都の建設が完了したのちも、アストリカは帝都盆地の玄関口にあって、交易の要衝として殷盛を保っている。

 そして、いま――夕刻。

 昼と夜の端境にあって、川沿いの街並みは朱とも黒ともつかない色に染め上げられている。

 港での過酷な労働を終えて家路につく屈強な男たち、もうじき出る最後の船便に乗り遅れまいと道を急ぐ旅人、ひと目でそれと分かる盛装に身を包んだ夜の住人たち……通りを行く人の横顔はさまざまだった。

 街のなかでもひときわ高くなっているその場所からは、そんな市街の様子が手に取るように一望できた。

 巨大な邸宅がずらりと軒を連ねるそこは、アストリカ随一の高級住宅地だ。段丘のうえに寄せ集まった壮麗な建造物群は、遠目にはまるで巨大な宮殿みたいにみえる。

 元老院議長デキムスの別邸もそのなかにある。

 住宅街の中心にあって、ひときわ目立つ三階建ての豪邸がそれだ。

 元老院議長という職分の常として、帝都をめったに離れられないデキムスであったが、実際に利用するかはさておき、高位高官にある者がこのような別邸を複数所有するのはけっして珍しいことではない。

 単に富と権力の象徴であるというだけではない。しばしば政敵から生命を狙われる立場の者にとって、一種の隠れ家としての価値をもつのだ。

 もっとも――デキムスは元老院議長としての職権を最大限に活用し、百人からの兵士に常時身辺を警護させている。

 かれはあくまで獲物を狩る側の人間であり、狩られる懸念とは無縁のはずだった。

 庭園の片隅にもうけられた瀟洒な四阿あずまやにひとり佇み、冷涼な川風が頬を撫ぜるのを楽しんでいるのも、そんな余裕からだろう。

 デキムスの馬車がアストリカに到着したのは、いまから二時間ほど前のことだ。

 城門をくぐるや否や、一行は一目散に別邸へと駆け込んだのだった。

 同じころ、後続の馬車の多くはまだ峠を走っている最中だった。そのなかには当然ルシウスの車も含まれている。デキムスが万が一にも襲撃に巻き込まれないように先を急がせたのは、あえて言うまでもない。

 先だってシュラムが知らせてきた予定時刻は、もうとうにすぎている。

 首尾よく事が運んでいれば、ルシウスはもうこの世にはいないはずであった。

 憎悪してやまない仇敵は、すでに物言わぬ屍に成り果てている――

 数年来の悩みの種が消え失せた喜びに、デキムスはひとりほくそ笑まずにはいられない。

 (この儂の邪魔をしたのが運の尽きだ。身を引けば永らえることも出来たであろうに、おろかなやつよ……)

 快哉を叫びたくなる衝動を抑えつつ、デキムスは酒盃を口に運ぶ。

 極上の美味をもたらすはずだった祝杯は、飲み干されないままテーブルに戻された。

 「……御前」

 シュラムの声であった。

 デキムスの背後に黒い影が忽然と湧き起こったのは次の瞬間だ。

 あくまで気配を消していただけだが、常人であるデキムスにとっては何もない空間からぬっと這い出てきたとしか思えない。

 デキムスは努めて平静を装いつつ、ゆっくりとシュラムのほうへ振り向く。

 「何の用だ、シュラム? 奴の首ならば届ける必要はないと言ったはずだが」

 「襲撃は失敗しました。こちらはファザルを失い、的はいまだ存命……」

 「なんだと――」

 デキムスの顔が高潮したのは、口に含んだ酒のためではない。

 「仕損じたというのか!? お前たちほどの手練が、五人がかりで若造ひとりの生命も取れなんだと!?」

 「面目次第もござらん」

 「申し開きがあるなら言え。聞くだけは聞いてやる!!」

 シュラムはデキムスの前で膝をつくと、峠での一部始終を語りはじめた。

 やがて、話はルシウスを護衛する異形の騎士たちに及んだ。

 「……この道に足を踏み入れて二十余年、諸国を巡りあまたの技を見聞して参りましたが、あれほど面妖な存在はついぞ見たことがありませぬ。人の姿からまたたく間に鉄の怪物へと変じるとは、いかに――」

 「戎装騎士ストラティオテスか……?」

 デキムスは唸りとも驚嘆ともつかぬ声を漏らした。

 戎装騎士は最高機密である。かつて戎狄との戦いに従事した辺境軍の兵士を除けば、その姿を実際に目撃した人間はごくわずかな関係者に限られる。

 当然デキムスも直接目にしたことはない――が、シュラムの語る異形は戎装騎士以外には考えられそうもない。

 「……奴らは帝都に釘付けにしたはずだが、ルシウスめ、どこから手を回したか?」

 「いずれにせよ、敵方にあのような者がいては的を仕留めるのは至難……。ファザル一人の犠牲で済んだのは不幸中の幸いでござった」

 「よかろう。今回の失敗は不問に付す。戎装騎士がいることを掴めなかったのは儂の不手際よ。だが、このまま奴を生かしておく訳にはいかぬ。それはおぬしらも分かっているな?」

 「むろん承知の上――ひとたび結んだ契約は、たとえ何があろうと履行するのが我らの掟にござる」

 シュラムは恭しく頭を垂れると、三白眼をぎょろりとデキムスに向けた。

 「時に御前、ラベトゥル殿はいずこに?」

 「奴ならばエンリクスの護衛についておる。あの子は気味が悪いと嫌がっているようだがな。せっかくここまで来たのだ、奴にも事の顛末を聞かせてやるがいい」

 一礼をして踵を返そうとしたところで、シュラムはふいに立ち止まった。

 そして、デキムスから顔を背けたまま、まるで独り言みたいに言葉を紡ぐ。

 「御前、今しばらくそこを動かれぬよう……」

 「なに?」

 「失礼仕る――」

 言うが早いか、シュラムは右の袖をすばやく振る。

 立て続けに三度、ごく短い間隔をおいて異様な音が沸き起こった。

 それは硬質の物体が空気を切り裂く音だ。

 シュラムは、目にも留まらぬ速さで、人差し指ほどの長さの薄い刃物――飛苦無クナイを投擲したのだ。

 三本の飛苦無クナイはデキムスの顔を掠め、背後の植え込みに吸い込まれていった。

 「何事だ!?」

 「動かれぬようにと申し上げた。勝手な真似をされては、お命の保証は出来かねますぞ」

 「ぬうう……」

 不服げなデキムスには目もくれず、シュラムは植え込みをじっと睨めつけている。

 そして細心の注意を払いながら、一歩、また一歩とにじりよる。

 もうすこしで手が届きそうな距離にまで近づいたとき、それまで寂然と静まり返っていた植え込みの奥でなにかが動いた。

 「――!!」

 先ほどとは逆に、シュラムに向けて三本の飛苦無クナイが襲いかかる。

 命中まではひと呼吸の猶予もない。シュラムは上体をそらし、たたらを踏むようにして身体の位置を瞬時に入れ替える。

 飛苦無クナイの直撃はすんでのところで回避できたが、しかし安堵する暇はなかった。

 間髪をおかず、植え込みのなかから黒い影が猛然と跳躍したのだ。

 影は人間離れした敏捷さで四阿あずまやの屋根に飛び移ると、そのまま庭園を突っ切って逃走を図ろうとする。

 「逃さん――!!」

 短く叫び、シュラムは左の袖を振る。

 袖口から銀の雨がさらさらとこぼれた。音もなく射ち出されたそれは、細く短い針だ。シュラムは手首のスナップひとつで、数百本の針を一斉に放ったのだった。

 針の群れはシュラムの手元を離れると同時に拡散し、ついには四阿あずまやの屋根全体を射界に収めた。

 視界いっぱいを埋め尽くしながら殺到する銀の弾幕は、影を正確に射抜いた――はずであった。

 (……避けられまい)

 命中の直前、影はまとっていた黒いマントをみずから脱ぎ捨てた。

 そのまま横薙ぎに振るうことで、飛来する針に対する即席の防壁としたのだった。

 飛苦無クナイとは異なり、投げ針はひとつひとつの弾体が小さく、そして軽い。

 それだけに、布切れ一枚でもあいだに差し込まれれば、大きく威力を殺がれてしまう。足止めを意図してわずかに手加減をしたのも裏目に出た。

 とはいえ、影もすべてを防御できた訳ではないらしい。

 喉から顔にかけてを覆っていた襟巻には大きな裂け目が生じている。

 襟巻がひとりでに解けたのと、影が屋根を降りたのは、ほとんど同時だった。まるでましらみたいに身軽な動作。

 影はそれまで頭を覆っていた頭巾をぐっと喉元まで下げ、もはや用をなさなくなった襟巻の代わりにする。

 赤銅色の髪がさらさらと風にそよいだ。

 「き、貴様は――!?」

 デキムスの誰何には答えず、ラフィカは脱兎のごとく駆け出そうとする。

 その行く手を塞ぐように立ちふさがる黒影がひとつ――シュラム。

 彼我の間合いは、まさしく目睫の間に迫っている。

 ラフィカはとっさに剣把に手を伸ばす。ほとんど無意識の反射といってよい。

 音もなく銀閃が迸った。

 大仰な予備動作も、裂帛の気合もない。対象を斬り殺すという目的のみに特化した、それは最短にして最速の一撃であった。

 シュラムの痩躯を真一文字に裂くはずの斬線は、しかし、本来の軌道を大きく逸れた位置をむなしく通過した。

 むろんラフィカが意図的に外した訳ではない。剣刃がシュラムの身体に触れると思われた瞬間、わずかに加えられた外力によって狙いを逸らされたのだ。

 「名乗れ、刺客」 

 シュラムは暗く燃える眼でラフィカを見据え、問うた。

 いつ取り出したのか、右手には細身の長剣が握られている。

 「もう一度言う……名乗れ。これほどの腕の持ち主、殺してしまう前に名を聞いておきたい」

 「問われて名乗る刺客があるとでも?」

 ラフィカは不敵な微笑で応じると、右八双の構えをつくる。

 一方のシュラムはといえば、長剣を携えたまま両の腕をだらんと垂らし、何をするでもなく攻撃を待つばかりだった。

 傍から見れば、その姿は敵の気迫に呑まれてすっかり意気阻喪しているようでもある。

 「御前、急ぎ屋敷にお入りくだされ。そこにいては、我らの戦いの巻き添えを食いますゆえ――」

 シュラムが言い終わるまえに、ラフィカが動いた。

 ラフィカは一呼吸のうちに間合いを詰めると、勢いもそのままに猛烈な速攻をかける。

 流水のごとく千変万化しつつ、いずれも電閃の疾さで繰り出される技の数々。それをシュラムは文字通り紙一重で防いでいく。

 熾烈にせめぎ合う剣と剣のあいだに、刹那の火花が咲き乱れる。

 鍔迫り合いとは言うものの、直接刃筋と刃筋をぶつけ合えば、どちらの剣も致命的な刃毀れをきたす。それを避けるため、剣の腹で巧みに受け止めているのだ。

 戦いが始まってから、すでに一分あまりが経つ。

 休む間もなく攻め続けているにもかかわらず、ラフィカは一向に息を切らす様子もない。シュラムも恐るべき集中力を保ったまま、いまだに直撃を許していない。

 ふたりの剣士の技量は、ほとんど同等の水準にある。

 ここからシュラムが攻勢に転じるにせよ、攻守を入れ替えただけの同じ構図が出現するのは間違いない。

 それほど伯仲した実力の持ち主同士が戦えば、戦況が千日手のごとき様相を呈するのは自明だった。

 このままでは埒が明かないと踏んだか、どちらともなく示し合わせたように後じさる。逃走とは無縁の後退だった。視線は敵に固定したまま、あくまで仕切り直しのために間合いを確保したにすぎない。

 ラフィカが正眼の構えへと移行するために剣を立てた、まさにその瞬間だった。

 「……!!」

 ラフィカの頬にひとすじ生暖かいものが流れた。

 舌を這わせると、かすかな鉄と塩の味が口腔にじわと広がった。

 それは、この戦いでラフィカが受けたはじめての傷だった。

 剣の間合いではない。飛苦無クナイを投げた形跡もない。互いに距離を取ったときから、シュラムは微動だにしていなかった。

 素早くシュラムの全身に視線を巡らせたラフィカは、下衣の右膝のあたりが小さく破れていることに気づく。

 破れた布地の下から発射口のようなものが覗いている。

 いしゆみ――それも、衣服の下に目立たずに隠し持てるほど小型のものだ。

 後退の動作が引き金となったのだろう。まったく予想外の位置から音もなく発射された矢は、ラフィカの頬を浅く抉ったのだった。

 むろんシュラムとしては過たず眉間を射抜くつもりであったが、ラフィカがふいに剣を立てたことで狙いを逸らされたのだ。それは無意識のうちに危機を察知した肉体が取った防御行動であった。

 「暗器術――まさか、こんなところで使い手にお目にかかれるとは」

 ラフィカは流れる血を拭いもせず、猫みたいな目をいっぱいに開いて、シュラムをまじまじと見つめた。

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