第53話 暗闇の末裔


 暗器術。

 その名が古色蒼然たる色合いを帯びるのは、この時代においてすでに滅び去った武術と見做されているからにほかならない。

 『帝国』が進出する以前、東方は大小の国々が割拠する戦国時代にあった。

 各国の王はみずから天下の盟主となるべく、時に離合集散を繰り返しつつ、いつ果てるとも知れない戦いに明け暮れていた。

 暗器術が生まれたのは、諸国のなかでもひときわ貧しく劣弱な一国だった。

 国土は狭く、人口は乏しい。十分な兵器を購うだけの財力もない――

 そのような国が富強の国々と渡り合うには、正攻法を逸脱する必要がある。

 すなわち、勝ち目のない戦場での正面対決を避け、間者を用いた裏工作によって自存を図ろうとしたのだ。

 痩せて貧しい国土に鍛えられたのか、国民はおしなべて頑健で忍耐強かった。過酷な任務に耐え、時には死すらも厭わない間者を生み出すには最高の資質だ。

 国民のうち、とくに優れた資質を持つ者は幼いころに親元から引き離され、間者となるための厳しい訓練を施された。

 十人のうち八、九人までもが途中で死ぬか、あるいは不具者となる過酷な選別である。

 選別をくぐり抜けた一握りの精鋭は、成人を待たずに近隣の国々へと送り込まれた。

 賄賂による調略に始まり、内乱の扇動、流言飛語の拡散、閨房での籠絡……多岐に渡る間者の活動のなかには、自国にとって好ましからざる人間の暗殺も含まれている。

 暗器術とは、彼ら間者が暗殺のために編み出した技術体系の総称だ。

 間者が外国においてもっぱら暗器使いと呼ばれていたのも、彼らが例外なく暗器術を会得していたからに他ならない。

 剣術、槍術、弓術、棒術、杖術、拳法……いちいち列挙すれば限りないが、その技術体系は東方に存在したほぼすべての武術を網羅しているといってよい。

 自然、扱う武器は広範に及び、さらには武術のみならず医術や工芸の領域までも包摂するため、ともすれば散漫で曖昧な印象さえ与える。

 だが、その根底にはただひとつの目的――殺人への飽くなき追求だけが、古い大樹のように根を下ろしている。


 ――その身に寸鉄も帯びていないように見せかけて標的の油断を誘い、ひそかに隠し持った凶器で確実に暗殺を遂行する。


 これこそが暗器術の不変の本質であり、術者は目的の完遂以外のなにものにも価値を見出すことはない。

 暗器術が蛇蝎のごとく嫌悪された要因には、使い手が積み上げた錚々たる『実績』に加えて、彼らが一切の精神性をかなぐり捨てて技術のみに傾倒したことも無関係ではない。他の武術が建前とはいえ経世済民を謳い、程度の差こそあれ精神修養を取り入れたのに対して、暗器術はひたすらに殺人技術としての究極を追い求めたのである。

 やがて時代は下り、権謀術策の限りを尽くしてかろうじて命脈を保っていた祖国がついに滅びると、主を失った暗器使いたちは各国に召し抱えられた。

 打ち続く戦乱のなか、彼らの技術は各国にますます重宝されたが、それも長くは続かなかった。

 『帝国』が西方より大侵攻を開始し、大陸東部に割拠していた国家はことごとく滅亡の途を辿ったからだ。

 天下を巡る諸国の闘争は、皮肉にも天下の外からやってきた敵によって終止符を打たれたのだ。

 かくして、東方に数百年来となる泰平の世が到来した。

 それは乱世の寵児たる暗器使いの存在意義が消え失せたことを意味していた。

 日々の糧に窮した暗器使いたちは、新たに大陸の覇者となった『帝国』への仕官を画策したが、その努力はついに実らなかった。

 それどころか、当局からはもっぱら危険な異能者の集団と認識され、排斥の対象とされたのだった。

 新たに東方の支配者となった『帝国』が暗器使いの力を恐れたということもある。

 何より、彼らはもはや時代から必要とされなくなっていた。

 乱世の血溜まりのなかで産声を上げた暗器術は、乱世の終焉と共にその役目を終えたのだ。

 行き場を失った術者たちは、あるいは自決し、あるいは市井の民へと身をやつし、まもなく歴史の表舞台から完全に姿を消した。そして、彼らのあいだで受け継がれてきた暗器術もまた、歴史の闇へと消えていったのだった。

 それが『帝国』の史書が記す暗器術の末路であり、その全てである――はずだった。

 

 ラフィカは剣を手の中で回し、シュラムの出方を伺う。

 刃筋を寝かせたのは、敵から見える面積を最小限に抑えるためだ。こちらの挙動を敵に読ませないだけでなく、意識を剣に向けさせることで無言のプレッシャーにもなる。

 ここまでの戦いで見せた身のこなし、そして仕込み弩を用いた見事な奇襲。

 シュラムが暗器使いであるならば、最大限の警戒を払ってもなお油断は禁物だった。

 (もうすこし付き合ってあげようかと思いましたが――)

 目に見えない軸があるかのように、ふたりの身体がきれいな円を描く。

 どちらも間合いを測っているのだ。

 先ほどまでとはあきらかに異なる気が一帯に満ち満ちている。

 次の一太刀で決着がつく――

 べつに示し合わせたという訳でもないが、どうやらシュラムもそのつもりらしい。どちらが生き残るにせよ、戦いはそれで終わりだ。

 結局は意思の問題だった。漫然と剣を交えればいつまでも剣舞を演じられるが、生命を擲つ覚悟があれば一瞬で勝敗は決する。いま、ラフィカとシュラムはその決断を下したのだ。

 じり……と、どちらともなく一歩を踏み出したときだった。

 「いたぞ! 曲者はあそこだ!」

 場にそぐわない胴間声に続いて、複数の足音が近づいてくる。

 「おとなしく武器を捨てろ! さもなくば……!!」

 庭になだれ込んだ兵士たちは、またたく間にラフィカとシュラムを取り囲む。

 親衛隊の兵士であることは、身にまとっている甲冑を見れば一目瞭然だ。

 ざっと見て十五人はいる。

 隊長と思しき男は長剣、残りの兵士は手槍を構えている。

 シュラムは相変わらず口を一文字に結んだまま沈黙しているが、その表情には不満の色がありありと浮かんでいる。

 凡百の兵士が束になったところで、彼ひとりの武技に遠く及ばないのだ。

 ことにラフィカのような手練が相手である場合は、味方の加勢は戦いの邪魔でしかない。ありがた迷惑とはこのことだ。

 「……余計な真似をしてくれた」

 ぼそりと漏らしたその言葉は、はたして本人以外の耳に届いたかどうか。

 と、ラフィカが動いた――シュラムとは真逆の方向である。

 後ろに向かって押し出されたように見えたのは、膝下のバネを活かして地面を蹴ったためだ。

 中空で身体の前後を入れ替えると、それは強烈な飛び蹴りになった。

 「ぐあっ!!」

 ラフィカの蹴りを食らった兵士はたまらず雄叫びを上げる。

 爪先が思いきりみぞおちに食い込んだのだから、恥も外聞もなく悶絶するのも当然だ。

 うずくまる兵士には目もくれず、ラフィカは両隣の兵士に狙いをさだめる。

 二人の兵士はとっさに防御の構えを取るが、もう遅い。鋭く突き出された鞘がかれらの顎をしたたかに打っていた。

 刃は納めているとはいえ、剣の重量が乗った打撃をまともに受けて無事で済むはずがない。

 脳天を激しく揺さぶられ、今度は絶叫する間もなく、二人の兵士はどうとその場に転がった。致命傷ではないものの、その分苦痛はとびきりだ。

 兵士たちが包囲を完了してから、まだ数秒と経っていない。

 周りの兵士たちは、仲間が次々に倒されるのを目の当たりにしても、何が起こったのか理解出来ていない風だった。狐につままれたようにラフィカの動作を見つめている。

 「な、何をしている! さっさと賊を捕らえろ!!」

 はたと我に返ったのか、隊長が怒声を張り上げる。

 兵士たちも一斉に槍を突き出し、ラフィカの動きを封じようとする。

 その瞬間――

 赤銅色の髪の端々が風にそよいだかと思うと、ラフィカは猛然と疾走を開始していた。

 ネコ科の肉食獣みたいに敏捷な、それでいてどこか余裕のある動作で、槍と槍の間隙を器用にすり抜けていく。

 そうして屋敷の壁際まで来ると、ぐっと膝を曲げて跳躍の姿勢をつくる。

 視線の先には二階のバルコニー。

 みずからの背丈の三倍はあろうかというその場所に、ラフィカはみごとに飛び移ってみせた。

 呆気にとられた兵士たちに見送られながら、小さな後ろ姿は邸内へと消えていった。

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