第54話 薄暮の闖入者

 親王エンリクス・アエミリウスは、早めの晩餐を終えて床につこうとしていた。

 ここまでの旅の疲れもある。昼夜兼行で駆け抜けた強行軍は、少年の身体に少なからぬ負担を強いていた。

 とはいえ、めったに帝都から出ない少年にとっては、疲労よりも外の世界を直に見聞出来る喜びが勝ってもいる。

 それ以上に、平素は多忙のために邸宅を空けていることの多い祖父が四六時中そばにいてくれることがうれしかった。

 むろん、よいことばかりではない。

 エンリクスの傍らには、不気味な鉄仮面の男――ラベトゥルが常に随行していた。

 ――こやつは皇子みこの護衛だ。何も心配はいらぬ。

 祖父の言葉を疑う訳ではないが、親近感を抱けというほうが無理な相談というものだ。

 なにしろ自ら進んで口を開くこともなく、車中では石みたいに沈黙している。小休止の時もそれは変わらず、道中で水や食事を取っていた素振りもない。

 あの分厚い仮面の下には、いったいどんな素顔が息づいているのか?

 それは、ほんとうに人間の形をしているのだろうか?

 何につけても、ラベトゥルという男には得体の知れない不気味さが先に立つのだった。

 エンリクスにしてみれば、せっかくの祖父との楽しい旅行に水を差されたように感じてもいる。

 それでも、ここまでの道中、少年は不平不満のひとつも漏らしていない。

 貴人は好悪の情を表面に出してはならない――

 まして高位の皇族ともなれば、無思慮な言葉ひとつで人の首が飛ぶこともある。

 みずからが生まれながらに持っている強大な権力と責任を、聡明な少年はすでに理解しているのだった。

 いま、エンリクスは久しぶりに解放感を満喫している。

 ラベトゥルは用事があると下階に向かったきりで、まだ戻ってきていない。

 (このまま戻ってこなければいい――)

 ほんの一瞬、脳裏をよぎった言葉の列を、エンリクスは慌てて取り消す。

 不気味な男だが、エンリクスに危害を加えた訳ではない。護衛として落ち度があった訳でもない。

 そのような相手に感情の赴くまま消えろと念じるのは、貴人の行いとして相応しくないように思われたのだった。

 「ねえミレイナ、おじいさまはまだお仕事終わらないのかな?」

 エンリクスはベッドの脇に控える侍女に問いかける。

 「旦那様は大事なお話をなさっているのです。もうじき終わりますわ」

 「そう――早く来てくれるといいな」

 と、部屋の外がにわかに騒がしくなった。

 大人数の足音。ガラスや木板が割れる音。何を言っているかは聞き取れないが、時おり怒声とも悲鳴ともつかぬ声も混じる。

 前触れもなく生じた一連の騒音は、エンリクスにとってはこれまでの人生で身近に接したことのない類のものだ。少年の胸にはわずかな動揺と、それ以上の好奇心が澎湃と湧き出ている。

 心なしか音がすこしずつ大きく、また明瞭になってきているのは、その根源が徐々に近づいているからだろう。

 「……様子を見てまいります。皇子様はそこで待っていてくださいませ」

 「気をつけてね、ミレイナ」

 エンリクスの部屋の前には常時二名からの衛兵が配置されている。

 仮に変事があったとしても、彼らに任せておけば心配はないはずであった。

 それでも、形容しがたい胸騒ぎがミレイナを動かしたのだった。

 ミレイナが出ていくと、だだっ広い部屋にはとたんに寂然とした風情が漂いはじめる。大勢の人間の気配を感じていると寝付けないというエンリクスのために、側仕えの侍女は彼女ただひとりがつけられているのみだった。

 一人ぼっちになったエンリクスは、退屈しのぎに天井に設けられた採光窓に目を向けてみる。

 外部からの攻撃に備えての配慮だろう。エンリクスのいる部屋の壁には窓らしい窓はなかった。

 それでも、まったくと言っていいほど暗さや閉塞感を感じないのは、楕円形の大きな採光窓のおかげだ。

 窓にはめ込まれたステンドグラスにはあざやかな極彩色が散りばめられ、夕陽の色を透かしていっそう美しく映えている。

 沈みゆく太陽に合わせて、色合いも目まぐるしく変化する。見飽きるどころか、このまま何時間でも眺めていられそうな気さえしてくる。

 そのとき、近い場所でふいに生じた音がエンリクスの意識を現実に引き戻した。

 音の出どころは、部屋を出てすぐの回廊だ。

 どうやら何かが倒れたらしい。

 しかも、ひとつではない。

 何事かとエンリクスが身体を起こすと、それに合わせるようにドアが開いた。

 「ミレイナ――」

 侍女の名を口にしかけて、エンリクスはぐっと言葉を飲み込んだ。

 ノックもせずに部屋に入ってきたのは、幼いころから見知った侍女ではなかった。

 小柄な輪郭を覆う黒いマント、その前合わせからちらと覗く無骨な剣帯。赤銅色の髪の闖入者の特徴は、エンリクスが知っているどの人間にも符合しない。

 じっと見つめるうちに、エンリクスのちいさな心臓は早鐘みたいな鼓動を打ちはじめた。

 「エンリクス・アエミリウス親王殿下ですね?」

 ラフィカの問いかけに、エンリクスはこくんと頷く。

 「お目にかかれて光栄です。今日は殿下に大事な御用があって参りました――」

 慇懃に述べつつ、ラフィカは口元を覆っていた頭巾の切れ端を取り去る。

 そして白い歯を見せて微笑みかけると、エンリクスも少しは警戒を緩めたようだった。

 「ねえ、ミレイナはどうしたの?」

 「ご心配なく。私たちのためにすこし席を外してくれています」

 衛兵ともども剣把でみぞおちを打って昏倒させたなどとは、目の前の少年に言えるはずもない。

 とはいえ、あくまで軽い当て身だ。目覚めれば若干の痛みは感じるだろうが、命に別状はないはずだった。

 「親王殿下、私と一緒に来ていただけますか?」

 「どうして?」

 「ある方に連れてきてほしいと頼まれたのです。親王殿下にぜひお会いしたいと」

 「……だめだよ。おじいさまが来るまでここにいなくちゃ」

 「ルシウス叔父上の頼みでも――ですか?」

 ラフィカがその名を口にした途端、エンリクスの目の色が変わった。

 バネが弾けたみたいな勢いでベッドから降りると、ラフィカの元へと駆け寄っていく。

 「ほんとうにルシウス叔父上のところへ連れて行ってくれるの?!」

 「もちろん。お祖父様の許可も取ってあります。何も心配はいりませんよ」

 「それなら早く支度しなくちゃ――」

 エンリクスが子供らしい歓声を上げたのとほとんど同時に、ドアを激しく叩く音が響きわたった。

 叩いているのは、言うまでもなく庭からラフィカを追って上がってきた兵士たちだ。つい先ほどラフィカが部屋に入る際にすばやく施錠したため、ドアは堅く閉ざされて開く気配もない。

 貴人の住居だけあって、ドアは分厚く重い一枚板で作られている。一度鍵をかけてしまえば、人間の力で突破するのは容易ではない。

 なまじの剣で突いたところで刃が折れるだけだ。力ずくで打ち破るためには、大斧か破城槌を持ち出す必要がある。

 だが、あの暗器使いの男――シュラムが来れば話は別だ。

 敵地への潜入と破壊工作は暗器使いの十八番でもある。この程度の障害物を取り除くのは造作もないはずだった。

 「時間がありません。さあ、親王殿下、私と一緒に来ていただけますね」

 「でも、どうやって部屋から出るの?」

 エンリクスの居室の壁に窓らしい窓は見当たらない。

 外部との唯一の通路であるドアを塞がれては、まさしく袋のネズミも同然だった。

 「親王殿下、しっかり私につかまっていてくださいね?」

 ラフィカはエンリクスを抱きかかえると、天井の一角――採光窓に目を向ける。

 (壊してしまうのは、すこしもったいないですが……)

 逡巡は一秒にも満たなかった。

 ラフィカは腰の剣帯に手を伸ばし、鞘に収まったままの長剣を抜くと、そのまま採光窓に向けて投擲する。

 ただでさえ脆いステンドグラスである。繊細な彩色ガラスはあっけなく打ち砕かれ、無数の美しい破片となって床に降り注いだ。

 それと同時に、ガラスを介さないのままの夕映えが部屋に差し込んでくる。

 「さあ、行きましょう!!」

 ラフィカの言葉に、エンリクスはただ頷くことしかできない。

 それを確かめるが早いか、ラフィカの身体はエンリクスを抱えたまま助走に入っていた。

 だん、と強く床を蹴り、天井にぽっかりと開いた穴にむけて跳躍する。

 次の瞬間には、ふたりの身体は屋根の上にあった。遠方ではタナイス運河の川面が落陽を照り返してきらきらと輝いている。

 ラフィカは先ほど投げた剣を拾い上げると、薄々と漂いはじめた夜気のなかを駆け出した。

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