第55話 逃路

 「疲れましたか?」

 ラフィカは立ち止まると、エンリクスを気遣うように問いかけた。

 屋根伝いに建物から建物へと飛び移り、もうだいぶ遠くまで来ている。

 常人であれば足がすくむような高さである。しかも屋根と屋根のあいだには少なくとも数メートルの間隔があるとなれば、幼子とはいえ人一人を抱えたまま飛び越えようというのはほとんど自殺行為に近い。

 ラフィカは軽やかにマントの裾を翻しながら、その難行をこともなげにこなしてみせたのだった。

 「だ、大丈夫――」

 エンリクスの声がすこし上ずっているのは、恐怖のためだけではない。

 胸のうちに沸き起こった興奮が恐怖と疲労を塗りつぶしている。

 この短時間のあいだに次々と起こった信じがたい体験の数々は、否応にも少年の胸を高鳴らせた。

 「空を飛んでるみたい。あなたは魔法使いなの?」

 「さあ、どうでしょう?」

 ラフィカはわざとはぐらかすと、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

 「……本当に空が飛べたらよかったんですけどね」

 続けて口にしたその言葉は、冗談めかしているようでわずかな翳がある。

 それもそのはずだった。

 眼下を見下ろせば、松明の火がいくつも揺らめいているのが見える。

 薄闇に浮かび上がる無骨な輪郭から、彼らがエンリクスを捜索している兵士たちだということは容易に知れた。

 兵士たちは大路だけでなく、家々の間隙を走る細い路地にまで入り込んでいる。文字通り草の根を分けての大捜索が展開されているのだった。

 幸いまだ気取られていないようだが、あれだけの数の兵士が鵜の目鷹の目でエンリクスを探し回っている以上、見つかるのは時間の問題だ。

 「さてさて、どうしたものか……」

 予定に狂いがなければ、ルシウスの一行はすでに市中の宿に到着しているはずだった。

 そこまでエンリクスを連れ帰るには、どうにか兵士たちの目を欺く必要がある。

 兵士たちはデキムスの別邸を起点に同心円状に配置されている。まだそう遠くには行っていないと見ているのだろう。

 裏を返せば、ここを切り抜けられさえすれば追及の手はまず及ばないということでもある。

 しばらく周囲を見回していたラフィカだが、ふとエンリクスが心配そうに見上げていることに気づく。

 「どうかしたの?」

 「いいえ――ご心配には及びません。親王殿下、すこし目をつぶっていただけますか」

 ラフィカは、屋根の縁からそう遠くないところにそびえる楡の巨木を認めていた。

 屋根の下には人の気配はない。この近辺の建物の例に漏れず、ふだんは使われていない別邸なのだろう。

 楡の枝伝いに庭へ降り、そこから脱出を図ろうという算段であった。

 デキムス邸への潜入に先立って、ラフィカは一帯の地理をほとんど頭に入れている。

 とくに人通りの少ない路地を慎重に進めば、巡回中の兵士に発見されることなく脱出出来るはずだ。

 エンリクスの手を引いて、ラフィカは屋根の縁へとまっすぐ歩いて行く。

 楡の大樹までの距離は、およそ五メートルあまり。三階建てのデキムス邸に較べればだいぶ低いとはいえ、屋根から地上まで十メートル以上はある。

 下を覗き込めば大の男でも尻込みするところを、ラフィカは躊躇いなく跳んでみせる。

 いったん枝に足を置いたかと思うと、二人分の体重に枝がたわむ前に次の枝へと飛び移っていく。

 それを何度か繰り返して地上に降りると、ラフィカはエンリクスの身体を抱えたまま生け垣まで疾駆する。

 抜剣して生け垣を切り開き、そのまま裏路地に飛び出そうとしたラフィカだったが、その足がふいに止まった。

 急制動によろめきかけたエンリクスを抱きとめつつ、ラフィカはその場に低くうずくまる。

 「……まずいですね」

 ラフィカはいかにも面白くない風に言い、舌を打つ。

 生け垣を透かしてぼんやりと浮かんだ光は、兵士が掲げた松明だ。

 捜索の手はラフィカの想定よりもずっと早く、そして緻密に張りめぐらされている。

 予想外に的確な兵士たちの動きは、あるいは邸内で剣を交えた男――シュラムが指揮をしているためかもしれない。

 この状況で迂闊に飛び出せば、十中八九発見されてしまうだろう。

 巡回中の兵士を斬殺し、強引に押し通るという手もないではない。ラフィカの卓抜した技量をもってすれば、悲鳴を上げる間もなく即死させることもできる。

 だが、エンリクスが傍らにいるとなれば話は別だ。

 状況を打開するためとはいえ、安易に流血沙汰に及ぶのはラフィカとしても避けたいところだった。

 「――困ってるみたいだね?」

 ふいに背後から声がかかった。

 つい先ほどまで人の気配すらなかった場所に、その声は突如として湧いて出たようであった。

 ラフィカは剣把に手をかけながら、ゆっくりと後ろを振り向く。

 二人からすこし離れた芝生の上に一人の少女がぽつねんと立っていた。

 青みがかった髪は、夕闇のなかでほとんど黒髪のようにみえる。背丈は小柄なラフィカよりも頭一つほど小さい。

 少女はにこにこと笑いながら、ラフィカとエンリクスを見つめている。

 「……どなたですか?」

 誰何すいかするラフィカの言葉には、あきらかな険がある。

 それも道理だった。返答次第では、すぐさま斬り捨てることになるのだから。

 「名前は教えられないけど、敵じゃないよ。だから安心してほしいな、ラフィカちゃん」

 「私の名前を知っているのですか?」

 「もちろん――それに、その男の子のこともね」

 エウフロシュネはそう言うと、エンリクスに視線を向ける。

 「怖がらなくていいよ。君のおじいさまに頼まれて助けに来たんだ」

 「おじいさまが?」

 「そう……と言っても、もう一人の方だけどね」

 エウフロシュネーがその言葉を口にした瞬間、ラフィカの表情が変わった。

 まるで潮が引くみたいに猜疑や敵意が霧消したのは、エウフロシュネーがこの場にいる意味を理解したからにほかならない。

 「分かりました――あなたを信じます」

 ラフィカの言葉に、エウフロシュネーは満足そうに頷く。

 「ところで、助けに来たと言いましたが、どうやってこの場を切り抜けるつもりです?」

 「二人とも、こっちに来て!!」

 エウフロシュネは人懐っこい笑顔を浮かべたまま手招きをする。

 「私に背中を向けて立ってくれる? その方が抱えやすいから」

 「こう……ですか?」

 「そのまま、そのまま。少しじっとしていてね」

 言って、エウフロシュネーはラフィカとエンリクスの脇腹に手を回す。

 「わ――」

 エンリクスが素っ頓狂な声を上げたのは、脇から伸びたものを目の当たりにしたためだ。

 エウフロシュネーの手指は可憐な少女のそれではなく、硬質な甲冑に覆われた異形の指へと変じていた。

 深く澄んだ空をそのまま凝結させたような蒼が、透き通る甲冑を美しく彩っている。

 (やはり、戎装騎士ストラティオテス……)

 ラフィカがわずかに顔を横に向けると、視界の片隅に異様なものが映った。

 無数の装甲板が重なり合うように集積し、一個の複雑なシルエットを形作っている。

 それが巨大な翼だと理解するまでには、わずかな時間を必要とした。

 「さあ、行くよ――落っこちないようにしっかり掴まっててね!!」

 返事をする間もなく、三人の体はその場で垂直にふわりと浮き上がった。

 ふいに沸き起こった巨大な推進力に引き上げられ、そのまま重力に逆らって上昇していく。

 だが――この時、三人は気づいていなかった。

 数軒を隔てた住宅の屋根に潜み、ひそかに事の一部始終を見届けていた者があったことを。

 夕闇の空に遠ざかる青い影を見送ると、奇怪な鉄仮面の男――ラベトゥルはその場を後にする。

 アストリカの街をすっかり夜闇が包んだのは、それから間もなくのことだった。

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