第56話 愛憎交錯

 「揃いも揃って愚か者どもが!!」

 火を噴くような怒声が屋敷の一角にこだました。

 声の主は、言うまでもなく元老院議長デキムスである。

 とても齢六十を過ぎた老人とは思えぬ大音声に、部屋中の空気という空気がびりびりと震え上がる。

 耳のそばで雷が落ちたよう……とは月並みな表現だが、たんなる自然現象にすぎない雷とは異なり、こちらは明確な意思に基づいているだけよほどたちが悪い。

 デキムスの怒りは眼前に立つ二人――ラベトゥルとシュラムに向けられている。

 ラフィカがエンリクスを連れ去ってから、すでに二時間あまりが経過している。

 三百名からの兵士を駆り出しての大捜索にもかかわらず、エンリクスの足取りは一向に掴めていない。

 最愛の孫を奪われたデキムスはほとんど半狂乱となり、時間とともにその程度は甚だしくなる一方だった。

 留まるところを知らない怒りの矛先は、ラフィカと剣を交えながら仕留め損ねたシュラムと、エンリクスの護衛でありながらその任を果たせなかったラベトゥルに向けられたのだった。

 ところが――である。

 本来であればひれ伏して許しを請うべき立場にありながら、どちらも黙然と立ちつくすばかり。

 反駁もしない代わりに、謝罪もない。

 柳が風を受け流すように、デキムスが怒るに任せているといった風にもみえる。

 どこか超然とした態度がデキムスの瞋恚の火に油を注いだのは当然だった。

 「貴様らにはほとほと失望したぞ。賊をまんまと取り逃がしただけでなく、エンリクスまで奪われるとは!!」

 迸る激情に任せて言い放つと、黒壇のテーブルに拳を叩きつけた。

 デキムスがいかに頑強な肉体の持ち主といえども、所詮は人間である。力任せに殴りつければ、拳のほうが無事では済まない。

 握り固めた拳からはぽたりぽたりと赤いものが滴ったが、デキムスは一向に意に介する素振りも見せない。

 それも当然だった。最愛の皇子がおのれの手の届くところにいないという残酷な事実の前では、肉体的な苦痛などたやすくかき消される。

 さすがに見かねたのか、ラベトゥルが一歩進み出る。

 「僭越ながら――閣下。あまりお怒りになられては身体に障ります」

 「どの口でそれを言うか!! そもそも、貴様はエンリクスの護衛でありながら、なぜ持ち場を離れておったか!?」

 「これは異なことを。シュラムが仕留めきれないほどの手練であれば、どうして私ごときに阻止出来ましょう」

 真正面からデキムスの責めを受けているにもかかわらず、ラベトゥルの口調にはどこか他人事じみた響きがある。顔貌をすっかり覆い隠す鉄仮面と相まって、人を食ったような雰囲気を漂わせているのだった。

 「ご安心なされませ。もし皇太子ルシウスの差し金なら、エンリクス様はきっとご無事でおられるはず――」

 「なぜそう言い切れる? エンリクスを抹殺すればルシウスは確実に次期皇帝となるのだぞ。生かしておく手はなかろう」

 「閣下がエンリクス様を目に入れても痛くないほどに愛しておられることは、当然敵も承知しているはず。エンリクス様を生かしたまま連れ帰ったのは、おそらく人質として利用するため――」

 ラベトゥルは言うと、シュラムにちらと視線を向ける。

 シュラムは「拙者が敵の立場であれば……」と前置きしてから、

 「こちらに何の条件も示さぬうちにエンリクス様の御身を害することはまず考えられませぬ。人質とは、生きていると思わせてこそ価値があるものにござる」

 はっきりと断言した。

 口調こそ沈着そのものだが、おのれの見立てに対する絶対の自信が言葉の端々から滲んでいる。

 デキムスは怪訝そうに二人を睨めつけるが、先ほどまでに較べれば表情の険はだいぶ薄れている。

 エンリクスの生存に一縷の希望のぞみが持てたことで、多少なりとも腹の虫は収まりつつあるらしい。

 「……そのほうら、生命惜しさに嘘偽りを申している訳ではあるまいな」

 「滅相もない。この一件に関しては私とシュラムの意見は一致しております」

 「もしエンリクスの身に何かあった時は何とする?」

 「首を刎ねるなり、生きながら皮を剥ぐなり――ご随意のままに」

 わざと大仰な言い回しをしてみせるラベトゥルに、デキムスはふんと鼻を鳴らす。

 「その言葉を忘れるでないぞ。エンリクスが無事に戻らなんだ時は、その命はないものと思え。……首尾よくルシウスめを葬り去っても、あの子がおらねば何の意味もないのだからな」

 そして、たったいま気づいたみたいに血に濡れた拳を拭うと、二人に背を向けて立ち上がった。

 「もはや一刻の猶予もない。明朝にはパラエスティウムに向けて船出せねばならん。それまでにエンリクスを取り戻さねば、次の手にも支障さわりが出る」

 「すでにアウダースは先回りして準備に取り掛かっております」

 「今さら襲撃を中止せよとは言わぬ。あやつを葬り去る最大の好機を逃す訳にはいかぬのだ」

 「されば……閣下、よき考えがおありで?」

 ラベトゥルの問いには答えぬまま、デキムスは窓辺へと歩きだす。

 「今夜中にエンリクスを取り戻す――儂自らの手でな」

 すりガラス越しににじむアストリカの街の灯を見つめつつ、デキムスは決然と言い放った。


 同時刻、アストリカ市中の宿屋――

 親王エンリクスは顔を伏せたまま、不安げに周囲を見渡した。

 決して広いとは言えない部屋のなかには、ラフィカと三人の騎士たちがエンリクスを取り囲むように立っている。

 「……で、誰なのよ? この子」

 沈黙を破ったのはイセリアだ。

 値踏みするような視線に晒され、エンリクスはちいさな肩を強張らせる。

 少年が怯えたのも無理はない。今までの人生で、皇族である彼にそんな視線を向けた不埒者は一人としていなかったのだから。

 エンリクスの落ち着かない様子を察してか、ラフィカはそっと掌を重ねる。

 「怖がらなくても大丈夫。ここにいる人たちは、みんなあなたの味方ですから。……イセリアさんも、もう少し言葉を選んでもらえます?」

 「あんたがいきなりこの子を連れてきたからでしょ。どこの誰かくらい聞いたって罰は当たらないはずよ」

 ラフィカがエンリクスとともに宿屋に現れたのは、今から三十分ほど前のことだ。

 峠でファザルの襲撃を退けたルシウス一行は、アストリカに入城するとそのまま市中の宿屋に入った。

 もともと市内には一行が宿泊するための大邸宅が用意されていたが、ルシウスはそれを蹴り、あえて民間の宿屋を選んだのだった。

 港町だけあって、アストリカの市街地には百軒近い宿屋が存在している。その内訳も、娼館と区別のつかない怪しげな宿から、帝都の高官が地方視察の際に利用する最高級の宿まで多岐にわたる。

 ルシウスが指定した宿は、そうした数ある宿屋なかでも、せいぜい中の上といったところだった。

 宿屋の主人は突然の申し出に当初こそ難色を示したが、大金を積み上げられるとあっさりと掌を返した。

 そして、宿賃には多すぎるほどの金と引き換えにすべての宿泊客を退去させると、三階建ての宿屋はルシウス一行がまるまる借り切る格好になった。

 言うまでもなく、デキムス一派の襲撃を警戒してのことだ。

 当地の官吏にもデキムスの息がかかっていないとは言い切れない。ルシウスを歓待しているように見えて、その裏でどんな策略を巡らせているか知れたものではないのだ。

 罠が仕掛けられてることが分かっている場所にむざむざ飛び込むくらいなら、市井の宿を利用したほうがよほど安全というものだった。

 いま、ラフィカを出迎えた騎士たちは、宿の一室でルシウスが現れるのを待っているところであった。

 「イセリアの態度はともかく、その子が誰なのかは俺も気になっていたところだ」

 アレクシオスはちらとエンリクスに視線を向ける。

 敵意こそないが、訝しんでいることには変わりない。先ほどからラフィカがのらりくらりとかわしていることも不審さに拍車をかけている。

 オルフェウスはといえば、ただ一人ぼんやりと佇んでいる。

 目の前の少年が誰であるかについては、そもそも興味もないようであった。

 「あ、あのっ……私は――」

 エンリクスは何かを言おうとして、途中で言葉を詰まらせた。

 イセリアがふにふにと軽く頬を突いたためだ。

 「なーにが”私”よ。お子ちゃまのくせに気取ってんじゃないわよ」

 「ひゃ、ひゃめてくらさい……!!」

 困惑する少年を見て興が乗ったのか、イセリアは聞く耳を持たない。

 見かねたラフィカとアレクシオスが立ち上がろうとした時、背後で扉が開いた。

 よく通る声が部屋じゅうに響いたのは、ほとんど同時だった。

 「待たせたな」

 はたして、声の主はルシウスであった。傍らにはヴィサリオンが付き従っている。

 西方人のなかでも際立った長身が視界に入った途端、エンリクスの顔がぱっと明るくなった。

 それまで浮かんでいた不安の色は一瞬に払拭されたようだった。

 「ルシウス叔父上――」

 イセリアの手を振り払い、少年は感極まったように呟く。

 「はあ? 叔父上?」

 「それはつまり、皇太子殿下の……」

 アレクシオスとイセリアは互いに顔を見合わせる。

 とくにイセリアは今しがたまで非礼を働いていたためか、金魚みたいにぱくぱくと口を開閉している。

 「いかにも、そのは我が甥。亡き兄上の遺児、エンリクス・アエミリウスである」

 ルシウスはエンリクスを抱き寄せ、淡い金の髪を指で梳かしてやる。

 「またお会い出来て嬉しいです、叔父上!!」

 「それは余も同じことだ。そなたも変わりないようで安心したぞ」

 「次に会ったときは『西』のお話の続きを聞かせてくれるという約束でした」

 「勿論忘れるものか。――そなたは先に向こうの部屋で待っているがいい。余もすぐに行こう」

 あっけに取られたように見つめるアレクシオスらの前で、エンリクスはヴィサリオンとラフィカに伴われて部屋を出て行った。

 ルシウスはあらためて騎士たちに向き直ると、

 「……そなたらにもそろそろ事の真相を話しておいた方がいいだろう」

 先ほどまでとは打って変わって真剣な面持ちで語り始めた。

 「我が兄マルクス・アエミリウスの正妻ソフィアは、元老院議長デキムス・アエミリウスの娘であった。義姉はあの子の出生からまもなく、兄上も五年前に没した。『西』に養子に出されていた余が『東』に呼び戻されたのはそのためだ。余の地位は、本来の皇太子であるエンリクスから奪い取ったものとも言えるな」

 ルシウスの彫りの深い顔にひときわ濃い影が生じた。

 そして、固唾を呑んで耳を傾ける騎士たちにむかって、一語一語重い塊を吐き出すように言葉を紡いでいく。

 「デキムスの狙いは余を殺すことだけではない。みずからの血を引くエンリクスを次期皇帝の座に就ける――それこそが、あの男の真の目的なのだ」

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