第57話 遠くにありて思うもの

 「……エンリクス殿下はよくお休みになられています。よほどお疲れだったのでしょう」

 ヴィサリオンは部屋に戻るなり、三人の騎士たちに向かってしみじみと言った。

 ルシウスとエンリクス、ラフィカ、そしてヴィサリオンの四人がいったん部屋を出ていってから、すでに一時間あまりが経過している。

 かねてからの約束通り『西』の土産話を語って聞かせたあと、まだ起きていたいと食い下がるエンリクスに対して、ルシウスは半ば強引に休むように命じたのだった。

 刺激に満ちた一日は、それに見合うだけの負担を幼い身体に強いる。当の本人は若さと興奮のために無自覚だったとしても、長旅で蓄積した疲労とともに着実に肉体を消耗させていることは疑いようもない。

 なにより、明日の朝には船に乗り込まねばならないという旅程の都合もある。

 タナイス運河を下ってパラエスティウムに入るまで、少なくとも三日三晩のあいだは船上で過ごすことになる。

 道中に存在するいずれの寄港地も経由しない強行軍である。

 揺れる船の上では、大人でも十分に休息を取るのは難しい。まして子供であればなおさらだった。

 陸にいるうちに少しでもエンリクスに休息を取らせてやりたいというのは、ルシウスなりの思いやりでもあった。

 敬愛する叔父が近くにいるという安堵感からか、エンリクスがすやすやと寝息を立てはじめるのにさほどの時間はかからなかった。

 「……しかし、どうも腑に落ちないな」

 アレクシオスは腕を組みつつ、眉を寄せて思案顔をつくる。

 「元老院議長は親王殿下を次期皇帝として担ぎ出そうとしているのだろう。言ってみれば敵にとって一番大事な人間だ。それがおれたちのところにいるとは、一体どうなっているんだ?」

 「私も詳しいことはわかりません。皇太子殿下の意向であることは間違いないようですが……」

 ルシウスもラフィカもろくに説明しなかったため、ヴィサリオンもこれまでの詳しい経緯は把握していない。なにより、当のエンリクスがいる前であれこれと詮索するのは憚られたのだった。

 イセリアはしばらく二人のやり取りを聞いていたが、やがて何かに気づいたように「もしかして……」と小声で呟いた。

 部屋中の視線が自分に向けられるなか、イセリアは片目を閉じると、

 「……ラフィカが元老院議長のところからさらってきちゃったんじゃないの?」

 内緒話をするみたいに声を潜めて言った。

 わずかな沈黙のあと、すっかり呆れ返った様子で応えたのはアレクシオスだ。

 「口を慎め、イセリア。そんな人さらいのような真似をするはずが――」

 「いえ、あながち有り得ないとも言い切れないかもしれません」

 「ヴィサリオン! お前までなにを言い出すんだ!!」

 アレクシオスの抗議を受け流しつつ、ヴィサリオンはさらに続ける。

 「親王殿下は元老院議長にとってかけがえのない存在です。どれほど皇太子殿下を憎んでいても、エンリクス殿下が一緒にいるとなれば、今日のような荒っぽい真似は出来ないでしょう。あの方まで巻き込んでしまっては元も子もありませんからね」

 「つまり、これ以上刺客を送り込ませないように親王殿下をこちらに引き込んだ……という訳か?」

 「そう考えるのが妥当でしょう」

 あくまで推論にすぎないとはいえ、ヴィサリオンはみずからの見立てに自信を持っているようだった。

 ここまでの道中、ルシウスと同じ馬車のなかで時間を過ごすうちに、彼の思考の一端を汲み取れるようになったということもある。

 最も信頼を寄せる人間にそのように言われては、アレクシオスとしても納得せざるをえない。

 「よく分かんないけど、もう敵が襲ってこないなら安心じゃない? あたしたちも肩の荷が下りたわね」

 「それは……どうでしょう」

 「ちょっと!! どうでしょう――って、どういうことよ!?」

 どこまでも能天気なイセリアとは対照的に、ヴィサリオンの声は明るくない。

 「このまま元老院議長がおとなしく引き下がるとは思えないのです。あの方にしてみれば、親王殿下が私たちと一緒にいるのを見過ごせるはずもありません。どんな手を使ってでも奪還を企てることでしょう」

 「……たしかにな。いままで二度も刺客を送り込んできたような連中だ。このまま指をくわえて見ているとは思えん」

 「とにかく、パラエスティウムに到着するまで油断は禁物ということです。――私が言うまでもなく、皆さんご承知とは思いますが」

 安堵しかけたところに水を差され、うんざりした面持ちでアレクシオスとヴィサリオンの耳を傾けていたイセリアだが、

 「その時は今日みたいに返り討ちにしてやればいいだけだわ。――ほら、あんたもなんとか言いなさい!!」

 先ほどから一言も発することなく佇んでいたオルフェウスの腕をつかみ、座の中心に引き出したのだった。

 オルフェウスはなぜ自分にお鉢が回ってきたのかさっぱり理解出来ていないようだったが、やがてゆっくりと口を開いた。

 「……さっきの男の子――」

 「なによ? 言いたいことがあるならはっきり言いなさいな」

 急かすようなイセリアに対して、オルフェウスはあくまでマイペースだった。

 例によって無表情を保ったまま、整った口唇はあくまで訥々と言葉を紡ごうとする。

 「何か変わったことに気づいたのか、オルフェウス」

 こくりと小さく頷いたのは、アレクシオスへの返答の代わりだ。

 「……なんだかさびしそうだったよ」

 

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