第58話 戦嵐の予兆
アストリカの歓楽街がにわかに騒がしくなった。
時刻はすでに夜半をすぎている。
港の街の朝は早い。城市の住民の大多数を占める港湾労働者たちは、まだ日があるうちから飲みはじめるかわりに、宵っ張りはほとんどいないのが特徴だ。
そうした事情から、ここアストリカでは帝都のような夜通しの乱痴気さわぎが演じられることはなく、酒場は客足が引けるのを見計らって早々に店じまいをするのが常だった。
そうして人気が失せた真夜中の通りは、火が消えたように寂蒔とした風情を漂わせる。
路上には痛飲のあまり前後不覚に陥った酔客と、かれらの財布を狙うこそ泥、それに加えてねぐらを持たない物乞いや、稼ぎあぐねた私娼などがわずかに徘徊しているにすぎない。
ところが――今日に限って、夜更けの歓楽街は時ならぬ喧騒に沸き立っている。
沿道に居並ぶ人々の格好も尋常ではなかった。
寝間着を身に着けているのはまだましなほうで、薄い肌着やほとんど素っ裸にちかい姿の者も少なくない。
誰も彼もが眠っているところを叩き起こされたのだ。
彼らの視線を追っていけば、その理由はおのずと分かる。
馬蹄の音を轟かせながら、馬車が何台も連なって大通りを走ってくるのがみえる。
それも、ただの馬車ではない。
道幅いっぱいを占有する大柄な車体は、馬車というよりは車輪のついた家とでも言った方が適切だ。車体の四方には絢爛な金銀細工が施され、燭台の灯りを浴びてきらきらと輝いている。
アストリカは交通の要衝として栄えているとはいえ、人口の大多数を占める庶民の生活水準は知れたものだ。
きらびやかに飾り立てられた豪奢な馬車は、路傍の人々の目にはおとぎ話の情景が突如立ち現れたように映ったのだった。
「ありゃあ一体、どこのお大尽だ!?」
そこかしこで驚嘆の声が上がったのも当然だった。
と、走行中の馬車から転がり落ちたものがある。
群衆の一人が手に取ってみれば、それは
たまたま車体を飾る宝石が剥がれ落ちたのではないことはすぐに知れた。
馬車の上から宝石が続けざまに放られたのだ。それも、一つや二つではない。
夜更けの
転がる宝石を拾うだけでは飽き足らず、ついには馬車に飛びつこうとする者まで現れたが、そのたびに御者台から容赦なく鞭が飛んだ。鋭い音が走るたび、悲痛な叫び声が夜の街にこだまする。
「さあ! もっと欲しければついてこい! いくらでもくれてやるぞ!」
御者は煽り立てるような調子で叫ぶと、手にした袋から光るものをばら撒いた。
整った形状と、冴えわたる銀光は、あきらかに宝石とは様相を異にしている。
まごうかたなき銀貨であった。
表には『帝国』の国章が刻印され、表面は艶めかしい光沢に濡れている。それは、国家が鋳造した正規の貨幣の証だ。錫や銅が成分のほとんどを占める粗悪な私鋳銭との違いは素人目にもはっきりしている。
そんなものが盛大にばら撒かれたのだから、人々がますます狂奔したのも当然だった。
息せき切って馬車の後を追いかけてくる群衆を冷ややかに眺めつつ、デキムスは車中でひとりほくそ笑む。
「……卑しく愚かな下賤の者ども、せいぜい騒げ。そして、もっともっと集まってくるがいい」
吐き捨てた言葉は、心底からの軽侮に満ち満ちている。
現皇帝の実弟として、また元老院議長として多年に渡って『帝国』の権力を掌握し続けたデキムスにとって、爵位も持たぬ庶人は家畜に等しい存在だった。かれにとって政治とは、そうした家畜を飼いならす技術にほかならない。
もっとも――家畜の群れを掌のうえで自在に転がしていくという、かつてはこの上ない愉悦を覚えた行為も、いまとなってはどこか精彩を欠くのも事実だった。
夜明けまでにエンリクスを取り戻さねばならないという重圧のためでもある。
歓楽街を抜けた車列は、目抜き通りから一本入った脇道をひた走っている。
やがて馬車は速度を緩めると、通りに面した三階建ての建物の前で停止した。
「ここだな? ルシウスの滞在しているという宿は――」
「間違いございません」
間髪をおかずに答えたのはラベトゥルだ。
隣ではシュラムが唇を一文字に結び、押し黙ったまま首肯する。
どちらも本来であれば元老院議長の馬車に陪乗出来るような身分ではないが、今回は特別だった。エンリクスを守れなかった責任を取らせるためにデキムスみずから引き連れてきたのだ。
「それにしても――この街の住民を扇動して敵の退路を塞ぐとは、さすがは閣下。駐留軍を動かせば
「見え透いた世辞はよさぬか」
デキムスはむっとしたように片眉を吊り上げる。
「ともかく、これでルシウスは袋の鼠となった。あとは儂が直接乗り込んでエンリクスを取り戻せばよいだけだ」
「は……エフィメラとザザリもすでに配置についております」
金銀財宝をばら撒きながら走る馬車の噂は、早くもアストリカの街中を駆け抜けたらしい。宿の周囲の道には黒山の人だかりが出来つつある。
数百人になんなんとする群衆は、しかし、ある一線から先へは決して足を踏み入れようとはしなかった。
長槍を構えた兵士たちが整然と隊列を組み、群衆を寄せ付けないのだ。
すっかり欲に目が眩んだ群衆も、武装した兵士を前にしては二の足を踏む。
そうして人の群れのなかにぽっかりと開いた空洞は、デキムスの馬車から宿の入口へとまっすぐに続いていた。
馬車から身を乗り出したデキムスに、ラベトゥルはぼそりとつぶやく。
「気がかりなのは敵方の護衛――
「それなら心配には及ばん。奴らは人間の姿でいるうちは何も出来んのだ。これだけの人だかりの中で怪物の姿を晒す訳にもいかぬだろうからな」
「恐れながら……峠でシュラムが確認した三人の騎士のほかに、エンリクス様を連れ去る手助けをした四人目がおります」
「なんだと!?」
振り向いたデキムスの顔面には、隠しようのない驚愕が張り付いている。
「貴様、なぜそれを早く言わなんだか!?」
「問われなければ答える必要もございませんので」
ラベトゥルはしゃあしゃあと言ってのける。
デキムスもこの鉄面皮を責めたところで詮無きことと諦めているのか、それ以上は何も言わなかった。
「……まあよい。騎士どもの数など問題ではない。奴らの力さえ封じてしまえば、何も恐れることはないのだからな」
デキムスは気を取り直し、ふたたび長槍の道を通って宿へと向かう。
そして、数歩進んだところで振り向くと、
「……おまえたちはそこで待っておれ。合図するまで決して姿を見せるでないぞ」
馬車のなかの二人に厳命したのだった。
アストリカの街から運河を数キロ下ると、川沿いに集落が点在する一帯が見えてくる。
いずれも小規模な漁村である。
耕作に適さないこのあたりの土地では、人々はもっぱら漁業を営むことで糊口を凌いでいる。
タナイス運河はたんに交通路であるというだけではなく、豊かな漁場でもあるのだ。
このあたりの漁師たちは昼間はむろんのこと、夜間も頻繁に船を出す。
目当てはウナギやナマズといった夜行性の魚だ。
彼らにとっては貴重なタンパク源であると同時に、日銭を稼ぐ恰好の手段でもある。
なにより、運河を通る船の数が少なくなる夜間は、地元の漁師たちにとって自由に漁が出来る貴重な一時であった。
いつものように船上で網を手繰っていた老漁師は、ふいに手を止めた。
川面がやけにざわついていることに気づいたのだ。
川のそこかしこで大小の波紋が広がり、ごぼごぼと泡が噴出している。
最初はレンギョや大ナマズが暴れているものとばかり思ったが、どうも様子がおかしい。
気のせいか耳鳴りまでしてくる始末だった。
次の瞬間、老漁師は皺だらけの顔を強張らせ、かっと目を見開いていた。
それは、いままでの人生の大部分を船上で過ごしてきた彼が初めて目にする光景だった。
老漁師の眼前に立ち現れたのは、黒い竜巻であった。
船から十メートルほど離れた川面から夜空に向かって、黒々としたものが渦を巻いて立ち上っている。
暗闇のためはっきりとは見えないが、確かにそこに存在している。
と、竜巻からこぼれ落ちるように船べりに何かが落下してきた。老漁師が手を伸ばすと、やわらかな感触を残してそれはあっけなく潰れた。
おそるおそる顔を近づけてみると、掌のなかで潰れていたのは、一匹の羽虫であった。
川辺で生活する人間にとっては見慣れたものだ。繁殖期になると川面が見えないほど殖え、漁をすることもままならなくなる。
だが――繁殖期の到来は、まだ三ヶ月は先のはずだった。
そうするあいだにも、羽虫は一匹また一匹と船中に墜落してくる。
先ほどから感じていた耳鳴りは、ほとんど耐えがたいほどに増大している。
ここに至ってようやく竜巻の正体が無数の羽虫だということに気づくと、老漁師はその場にへたり込んでしまった。
一斉に羽化した羽虫の群れは、今この瞬間も天に向かってまっすぐ飛び上がっている。
それは神がかった力で一瞬のうちに作り出された巨大な柱のようでもある。
すっかり放心状態になった老漁師の目の前で、羽虫の群れは突然方向を転換した。
とても知性らしい知性を持ち合わせていない原始的な水生昆虫に出来る芸当ではない。ひとつの意思のもとに群れ全体が緻密に制御されているとしか思えない挙動であった。
方向転換とともにほとんど横倒しになった黒い竜巻は、そのまま高度を上げると、アストリカの市街にむけて飛び去っていった。
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