第59話 両雄対峙

 夜更けに突如として降って湧いた喧騒は、宿屋の中にいる者にただならぬ事態が出来しゅったいしたことを悟らせずにはおかなかった。

 三人の騎士とヴィサリオンは窓辺に向かうと、慎重に外の様子を伺う。

 彼らの目に飛び込んできたのは、道路を埋め尽くさんばかりの人だかりだった。

 「ちょっと――なによ、これ? どうなってるわけ?」

 「……分からん。だが、この時間にこれだけの人間が集まってくるというのはただごとじゃない」

 「それは見れば分かるけど……」

 眼下に広がる異常な状況を少しでも理解しようと努めているのは、アレクシオスもイセリアもおなじだ。

 他方、オルフェウスは二人についてきたはいいものの、窓外の騒ぎにはさして興味もないようであった。

 「まさかとは思うけど、あいつら、このまま建物のなかに入ってきたりしないわよね!?」

 「……あまり考えたくはないが、ありえない話じゃないな」

 アレクシオスは考え込むような素振りを見せたが、それも一瞬のことだ。

 「もし奴らが不穏な動きを見せたときは、おれが皇太子殿下と親王殿下を脱出させる。屋根伝いに飛べば、あの連中の手が届かない場所まで行けるはずだ。イセリア、オルフェウス、おまえたちは下で足止めをたのむ。……そして、ヴィサリオン」

 細面の青年の目を見据えて、アレクシオスは決然と言った。

 「騒ぎが収まるまでどこか安全な場所に隠れていろ。お二方だけならともかく、お前まで守りきれる自信はない」

 「私のことは心配いりません。殿下に同行を仰せつかった時から覚悟は出来ています。監督役である私があなたたちを置いて逃げる訳にはいかないでしょう」

 「だが、それでは……」

 そんなアレクシオスとヴィサリオンのじれったいやり取りを見かねたのか、イセリアは聞こえよがしにため息をついてみせる。

 「まったく、二人揃って心配しすぎよ。あたしたちがいるんだから大丈夫に決まってるじゃない!! ……あんたもそう思うでしょ?」

 イセリアは傍らのオルフェウスに視線を向ける。発言への同意を求めているのはあきらかだった。

 「……大丈夫、だと思うよ」

 「すこしは空気読めるようになってきたじゃない。この子もこう言ってることだし、どっしり構えてればいいのよ。あいつらが勝手に入り込んできたら、力ずくで追い返してやるわ!!」

 と、どこからか激しい声の応酬が飛び込んできた。

 どうやら宿の玄関口で押し問答が繰り広げられているらしい。

 戎装していない状態でも、騎士の聴覚は人間よりもはるかに優れている。方角さえ分かれば、意味を持った言語として理解するのは容易だ。

 ――ここが皇太子ルシウス・アエミリウス殿下の宿所と知っての狼藉か!?

 ――狼藉とは異なことを。これは元老院議長閣下のたってのご要望である。ただちに道を開け、皇太子殿下への目通りを許可されたい。

 アレクシオスは窓から身を乗り出し、玄関口の様子をみる。

 先ほどから口角泡を飛ばして言い争っているのは、ルシウスとデキムスの護衛隊長同士だった。

 どちらも中央軍に所属してはいるが、主人のためならば友軍との衝突も辞さない。それが軍人としての彼らの矜持であった。

 「まかりならんと言っている!! たとえ元老院議長の要請であろう、と、だ――」

 ひときわ大きな声を張り上げたルシウス付きの護衛隊長は、それきり二の句を継げなくなった。

 両目は一点を凝視したまま、鎧に身を包んだ身体は金縛りにでも遭ったみたいに微動だにしない。

 そして、それは遠目に様子を伺っていたアレクシオスも同様だった。


 「いつまでそこに立っておるつもりだ?」

 あくまで静かな声であった。

 感情の赴くまま発した怒声や罵声とはほど遠い。

 だからこそ、言葉の裏に忍ばせた冷たく剣呑な気配がいっそう際立つのだった。

 「げ、元老院議長……閣下……」

 「火急の用件と申したはずだ。下郎、早う道を開けい」

 「しかし、この騒ぎはいったい……?」

 「ふん、あれか。馬車の音を聞きつけて野次馬が集まってきたまでのこと。安心するがよい。儂の兵がいる限り、奴らを近づけさせはせん」

 デキムスの背後では、蝟集した群衆がひしめきあっている。

 騒ぎを聞きつけてほうぼうから集まってきたのだろう。

 その数はあきらかに先ほどよりも増えている。

 それでも、長槍を携えた兵士たちの列から先へ進もうという者は一人もいない。

 一歩でもその境界線を踏み越えれば、たちまちに突き殺されることを理解しているのだ。

 その時だった。

 デキムスがまとう威圧感に押し潰されそうになっていた空間に、もうひとつ巨大な力の塊がふいに出現した。

 あたりを満たしていた夜気はにわかに熱を孕んだようだった。

 言うまでもなく錯覚だが、その場に居合わせた誰もがそう思わずにいられないほどの熱と圧力であった。

 異なる二つの力は、近づくにつれて激しく摩擦し、見えない火花を散らす。

 「こんな夜更けに何の用だ、元老院議長」

 悠揚迫らぬ足取りで階段を下り終えると、ルシウスは感慨もなげに言った。

 デキムスとの距離は五メートルにも満たない。二人の皇族は真正面から対峙する格好になった。

 「これは皇太子殿下――お出ましいただけるとは、恐悦の至りにございます」

 大仰に跪拝の礼を取ろうとするデキムスを、ルシウスは手で制する。

 「いま一度聞く。余に火急の用件とは、なんだ?」

 「何としても殿下にお知らせせねばならぬ用件がございます。ここでは人払いもままなりませぬ。くわしい話は私の馬車にて……」

 「その必要はない。ここで話すがいい。聞かれて困ることなら、耳打ちをせよ」

 ルシウスはどこまでも泰然自若とした態度を貫いている。

 叔父と甥ではなく、あくまで主君として臣下に命令を下しているのだ。

 とはいえ、デキムスも肝の太さでは負けていない。元老院議長としてあまたの政敵を蹴落としてきたこの老政治家は、胆力にかけては人後に落ちない自信があった。

 (小僧めが――虚勢を張りおって)

 デキムスはルシウスの傍らに進み出ると、

 「エンリクスはどこにいる? 言え。それが貴様の身のためだぞ」

 先ほど見せた卑屈なまでの慇懃さとは打って変わって、脅迫者の声色で囁いた。

 ルシウスは片目を薄く開き、デキムスを見やる。

 「ふむ――どうも聞き取れなかったようだ。元老院議長、なんと申したか?」

 「余裕を見せつけているつもりか。笑わせるでないぞ、若造。貴様の手の者がエンリクスをかどわかしたことはとうに掴んでおるのだ。この期に及んで知らぬふりを通せるなどと思うでないわ」

 「ふむ……」

 「儂への報復のつもりだろうが、貴様は虎の尾を踏んだのだ。皇帝に即位した後ならいざしらず、急ごしらえの皇太子風情が儂に楯突こうなどと、身のほどを知るがいい」

 「ようやく本音を聞かせてくれたな。叔父上――」

 ルシウスの顔に浮かんだのは、美しくも酷薄な笑みであった。

 すかさず言葉を返そうとしたデキムスだったが、背筋に走った悪寒がそれを妨げた。

 デキムスが以前にその表情かおを見たのは、いまから五十年以上も前のことだ。

 錆びついた扉がなにかの拍子に開いたみたいに、記憶の奥底からひとつの情景が浮かび上がってくる。

 昔日の帝城宮バシレイオン。灰色の日差しがしろじろと差し込む玉座の間。

 広間を所狭しと埋め尽くす文武百官は、ただ一人の男にひれ伏している。緋紫の衣をまとい、帝冠を頂いた男の姿を、デキムスはいまでもはっきりと覚えている。

 いま、目の前にいるルシウスの表情かおは、記憶のなかの男に酷似していた。

 (……やはり、と同じ相を持っておる)

 慄然と立ち尽くすデキムスをよそに、ルシウスは平然と言葉を継いでいく。

 「エンリクスは無事だ。だが、むざむざと叔父上の元へ返すつもりはない」

 「貴様……自分が何を言っているのか分かっているのだろうな?」

 努めて冷静さを保とうとしていたデキムスだったが、思わず声を荒げずにはいられなかった。

 「あの子は政争の道具ではない。叔父上がエンリクスを次期皇帝に擁立するつもりなら、どうあっても引き渡すことは出来んと言っている」

 「恥知らずめ……どの面を下げてそれを言うか!?」

 ルシウスのほかには聞こえない程度に抑制してはいるが、デキムスの声には隠しようもない怒りが滲む。

 「政争の道具だと? 貴様が『西』から戻ってきさえしなければ、あの子が次の皇帝となるはずだったのだ。儂は『帝国』の臣として正統な後継者を支持し、不当な簒奪を阻止しようとしているにすぎん」

 「すべては皇帝の意向によるものだ。叔父上もむろん承知しているはず」

 「皇帝か――我ら元老院が支えなければ何も出来ん男の命令がなんだというのだ?」

 デキムスはせせら笑うように言い放った。

 皇帝インペラトルという絶対の権力者に対して、およそありうべからざる態度であった。

 常に一歩引いて兄である皇帝を補佐し、肝胆を砕いて『帝国』を支えてきた賢臣というデキムスの評判は、あくまで世間からそのように見えているというだけにすぎない。

 デキムスにとって、兄・イグナティウスは常に軽侮の対象だった。

 たんに長幼の序のみを根拠として玉座に昇った無能力者。なんら敬うべき素養を持たない凡愚な男。

 孫であるエンリクスを皇帝として擁立することは、みずからの優秀な血で王朝の系図を塗り替えるという野望を達成するための手段でもあった。

 「それは皇帝への叛意の表明か? 元老院議長」

 「あえて背かずとも奴は遠からず死ぬ。だが、我が兄であればこそ、誤りは正さねばならん。それがまことの孝悌の道というものだ」

 「兄の子を殺すことが孝悌とは、我が叔父ながらあきれた道理だ」

 「何とでも言うがいい。のこのことこの国に戻ってきたのが貴様の不幸だ、ルシウス。あのままプラニトゥーデ家の養子に甘んじておれば、無事に天寿を全う出来たであろうにな」

 デキムスはわざとらしく同情を装ってみせる。

 自分が殺そうとした相手に気遣うような言葉をかけられるのは、さすがの面の皮の厚さであった。

 「ルシウス、いま一度言う――エンリクスを返せ。これは最後の警告だぞ」

 「従わねばどうするつもりだ?」

 「知れたことだ。戎装騎士ストラティオテスを引き連れて得意になっておるようだが、所詮怪物は怪物だ。あやつらを衆目に晒すことは出来まい」

 そう言って、デキムスはみずからの背後でうごめく群衆を指差す。

 むろん、彼らにはルシウスとデキムスの会話は聞こえていない。街場の宿屋の玄関口に皇太子と元老院議長が揃っているなど夢にも思っていないだろう。

 騎士ストラティオテスについても同様だ。もし目の前に戎装した騎士が現れれば、何も知らない人々は恐慌状態に陥るにちがいない。

 「なるほど――そのために街中の人間を叩き起こして連れてきたという訳か。ご苦労なことだ」

 「あの子のためであれば、儂は手段は選ばぬぞ」

 「余の答えは同じだ。エンリクスを渡すつもりはない」

 ルシウスが言い終わらぬうちに、デキムスの形相は悪鬼のそれへと変じた。

 ふいに一帯を覆った不穏な雰囲気に、距離を隔てた野次馬たちまでもがたじろいでいる。

 そんなときに突然降って湧いた小さな足音は、その場にいた全員の視線を集めずにおかなかった。

 息せき切って駆けてくるエンリクスの姿を認めた瞬間、デキムスは声にならぬ声を漏らした。

 「おじいさまっ!!」

 「皇子よ!! 無事であったか!? 迎えに参りましたぞ!!」

 脱兎のごとく駆け出した少年だったが、祖父の許に辿り着くことは出来なかった。

 「親王殿下――それ以上はいけません!!」

 アレクシオスとヴィサリオンが、小さな身体を両脇から抱きかかえるようにして制止したのだ。

 やや遅れてイセリアとオルフェウス、ラフィカも追いついてきた。

 「ちょっと、どういうことよ! しっかり見張ってなかったの!?」

 「仕方ないでしょう。監視の兵が目を離した隙に、こっそり部屋を抜け出てしまったんですから。何しろ身体が小さいので、狭い場所に入り込まれてしまうとなかなか……」

 ラフィカを責めるイセリアに、アレクシオスは横目で一瞥をくれる。

 「今はそんなことを言っている場合じゃない。おれたちのやるべきことを忘れるな」

 言い終わるが早いか、三人の騎士はエンリクスを囲んでいた。

 ラフィカも素早くルシウスの右隣へと移動している。

 肉食動物のように身を低くし、剣把に軽く指をかけた構え。デキムスが不審な動きを見せれば、すぐに斬りかかることができる。

 「ヴィサリオン、もしものときはお二方を連れて逃げろ。おれたちが時間を稼ぐ」

 「分かっています。そうならないことを祈っていますが……」

 デキムスが声を上げれば、外で待機している護衛兵が一斉に宿になだれ込んでくるだろう。兵士のなかに刺客を紛れ込ませているということも十分に考えられる。

 いずれにせよ、ひとたび戦端が開かれれば、敵味方入り乱れての大乱戦となるのは必定だった。

 まさに一触即発。

 ひりつくような緊張が漂うなかで、異変は静かに生起しつつあった。

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