第60話 虚像の影

 宿屋の玄関口は異様な緊張に包まれた。

 淀んだ夜更けの大気はにわかに粘り気を増し、時の流れさえも緩慢になったかのようだった。

 闘争の火蓋は、今この瞬間にも切られようとしている。

 抜き差しならぬ状況のなか、ふいに騎士たちの背後から声が上がった。

 「お願いです――おじいさまのところへ行かせてください」

 エンリクスは、声を詰まらせながら切々と訴える。

 気丈に振る舞ってはいるが、まだ七歳の子供だ。泣き出したいのを必死にこらえているのは誰の目にもあきらかだった。

 「ルシウス叔父上、お願いします」

 「駄目だ」

 ルシウスはエンリクスの目をまっすぐに見据えると、すげなく言った。

 その言葉には先刻見せた慈しみの色はもはやなく、肉親の情など欠片も感じさせない冷厳さが満ちている。

 「ルシウス、貴様……!!」

 「この子を思えばこそ渡す訳にはいかん。いい加減に諦めるがいい、叔父上――いや、元老院議長」

 言って、ルシウスはくいと顎を動かす。

 ラフィカとヴィサリオンにエンリクスを部屋に戻すように命じているのだ。

 二人は命じられるまま、あくまでその場に踏みとどまろうとするエンリクスの手を取る。

 どこからか奇妙な音が沸き起こったのは、まさにそのときだった。

 じり……じり……

 なにかをこすり合わせるような音は、耳鳴りのようでもある。

 もし耳鳴りだとすれば、この場の全員に聞こえているのはおかしな話だった。

 ひとつひとつの音は、常人の耳ではとても聞き取れないほど小さい。

 それが何百何千と集まり、互いに共鳴して、本来ならありえない音の塊を作り出しているのだ。

 「一体なんなのよ、この音――」

 「分からん。だが、油断はするな!!」

 騎士の可聴域は人間のそれとは比較にならないほど広く、鋭敏な聴覚はどんな音だろうとお構いなしに拾い上げる。

 イセリアが顔をしかめたのも当然だった。増幅された騒音の煩わしさは言語に尽くしがたい。

 と、宿屋の外で立て続けに悲鳴が上がった。

 「ぎゃあっ!!」

 「やめろ!! 来ないでくれっ!!」

 いずれの悲鳴も、付近の道路に詰めかけた群衆が発したものだ。

 彼らが恐慌状態に陥っていることは一目瞭然だった。

 言葉にならぬ叫びを残して逃げ散る者、腰を抜かしてなお逃げようと這いずり回る者、必死の形相で神に祈る者……

 すこし前まで欲望と好奇心に駆り立てられていた野次馬たちは、いまや哀れなほど狼狽しきっている。

 彼らの身になにが起こったのか――その答えを知るのは、遠目に様子を伺っている者にはほとんど不可能にちかい。

 誰に命じられたという訳でもないのに、群衆の目は一様に夜空に向けられている。

 何もないはずの虚空に、人々はたしかにを見ていた。

 彼らの目交に映っているのは、奇妙な人形ひとがたであった。

 巨人だ。

 それも、すっぽりと夜空を覆いつくすほどの――

 最初にに気づいたとき、誰もがこみ上げる恐怖を口に出さなかった。自分にしか見えない幻覚と思ったためだ。

 人間は、みずからの五感のみで世界を認識している訳ではない。

 眼前の光景が現実であることを確信するためには、他者の認識という傍証を必要とする。それが信じがたいものであればなおさらだ。

 隣り合わせた人間も同じものを見ていると分かると、ふくれあがった恐怖は、燎原の火みたいに群衆に広がっていった。

 巨人はいかにも重たげに上体を動かすと、群衆に向かってゆっくりと顔を近づける。

 顔――たしかに人体に当てはめればそうなるだろう。

 だが、その表現は、この場合においては適切とは言いがたい。

 巨人の顔は、見る者によってまったく異なる様相を示していた。誰ひとりとして同じ顔を見た者はないと言っても過言ではない。

 その顔貌は単眼であったり、逆に無数のちいさな眼球に埋め尽くされていたり、あるいは毛むくじゃらの獣面として、それぞれの目に映ったのだった。

 もちろん群衆の耳にも奇妙な音は届いていたが、差し迫った恐怖を前にしては瑣末事にすぎない。

 まして、すこし前からほのかに漂っている甘い香りなどは、容易に意識の埒外に弾き出されてしまう。

 いまや恐慌は群衆だけに留まらず、ルシウスとデキムスの護衛兵のあいだにまで広がりつつある。

 と、ほとんど地面に触れそうになっていた巨人の顔が急に遠ざかった。

 むろん、そのまま霧散してしまうはずもない。

 巨人は相変わらず途方もない巨躯を夜空にそびやかしている。

 路上の群衆からまたしても悲鳴が上がったのは、巨人が拳を振り上げたためだ。

 それまで足元の人間など眼中にない様子だった巨人がはっきりと攻撃の意思を示したのは、これが初めてだった。

 猛然と振り下ろされた巨人の拳は、しかし、予想に反して群衆の頭上を素通りしていく。

 奇妙な音を後に引きながら、拳は宿屋の玄関口へとまっすぐに突き進む。

 巨人の輪郭がぐずぐずと崩れだしたのはそのときだった。

 見上げるほどだった巨体はみるみるうちに縮小し、拳に引きずられるように玄関へと吸い込まれていった。

 

 「上手く行ったようね」

 混乱する群衆を見下ろし、エフィメラは妖艶な笑みを浮かべた。

 エフィメラが身を置いているのは、宿屋にほど近い民家の屋根の上だ。

 調合した薬香を効率的に散布するためには、できるだけ高所に陣取る必要がある。

 それだけではない。大がかりな術を成功させるためには、風向きや湿度、気温といった諸条件をことごとく解決クリアする必要がある。

 入念な準備の甲斐あって、タナイス運河から吹き付ける夜の川風に乗った薬香は、エフィメラの狙いどおりの効果を発揮している。

 当然、術者自身が薬香の効果に巻き込まれないための対策も怠っていない。

 そのため、エフィメラには群衆の目に何が映ったかまではわからない。

 人々の恐慌ぶりから推測するに、おおかた飛来した羽虫の群れが巨大な怪物にでも見えたのだろう。

 薬香の正体はモエギカズラの根と煎ったジャコツソウの葉を調合し、溶媒である揮発油に漬け込んだものだ。どちらも鎮痛作用のある薬草として知られるが、一定の比率で調合することで即効性の幻覚剤となる。気化した成分がひとたび人体に取り込まれると、たちまち脳の認知機能を狂わせ、何の変哲もない風景を魑魅魍魎の跋扈する地獄のようにみせるのだった。

 「お、おいらも……やった」

 エフィメラの背後で潰れたヒキガエルみたいな声がした。

 ザザリであった。

 醜悪な怪男児は往来の喧騒を見下ろしながら、ぼさぼさの蓬髪をぽりぽりと掻いている。

 ただでさえ不格好な唇がひときわ歪んでいるのは、小さく哄笑を漏らしているためだ。笑い声というよりは苦しげな呻き声に近い。

 羽虫の群れが想定どおりの動きをしたのを見届け、すっかり得意満面といった風であった。

 「で、でも、この河の虫たちには……悪いことをしちまった……な」

 「あなたが気にする必要はないわ。この運河に何億匹もいる虫のほんの一部よ」

 「う、うん……」

 ザザリはほとんどしどろもどろになりながら答える。

 あくまで独り言のつもりが、エフィメラが言葉を返してきたことで予期せず会話が成り立ってしまったためだ。

 異様な風体に違わず、もともと極度の人見知りである。妙齢の女性となればなおさらだった。

 「し、シュラムたち、大丈夫……かな?」 

 「さあ――私たちは自分の仕事を完璧にこなした。あとはシュラムとラベトゥルの問題よ」

 「実は、お、おいら、後悔してるんだ……」

 後悔――その言葉に引っかかるものを覚えたのか、エフィメラは涼やかな双眸をザザリに向ける。

 真意を問い詰める眼差しであった。

 「あのとき、ファザルを助けてやればよかった……。あいつ、おいらのことを気味悪がったりしなかった。いい奴だった。まさか、死んじまう……なんて……」

 「ファザルが死んだのは自業自得よ。彼も失敗すればそうなることは覚悟してたはず。あなたが負い目に感じることじゃない」

 「でも……も、もしこれでシュラムまで死んだら……」

 「あの男は死なないわ」

 こともなげに言い切った。

 仲間への信頼などという生ぬるい感情から出た言葉ではないのはあきらかだ。

 あくまで冷静にシュラムの戦闘能力を見極めたうえで、生還の見込みが高いと判断したまでであった。それだけに、その言葉は揺るぎない自信に裏打ちされている。

 エフィメラはザザリの目をまっすぐに見据えると、

 「優しいのね、ザザリ。仲間が減ればそれだけ自分の分け前が増えるのに、あなたはその逆を願ってる。暗殺者には珍しいわ」

 整った面貌に浮かんだやわらかい微笑みは、次の瞬間には消え失せていた。

 あるいは、ザザリだけが見た幻影であったのかもしれない。

 「甘い考えは捨てなさい。さもないと、あなたもファザルの後を追うことになる――」

 美しい女薬師はさっと踵を返すと、ザザリには一瞥もくれずに歩き出した。

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