第61話 蠢く闇

 悪夢。

 その光景を形容するのに、それ以上の言葉はないように思われた。

 宿屋の玄関口は、にわかに暗闇に閉ざされたようであった。

 それも、尋常の闇ではない。

 本来実体を持たないはずの闇は、はっきりとした質量を持って空間を埋めている。

 「なんだ――これは!?」

 耐えかねたアレクシオスは薙ぎ払うように手を動かす。

 そのまま拳を握り込むと、闇はと潰れた。

 驚いて掌のなかにあるものを確かめてみれば、それは黒い羽虫であった。

 タナイス運河の水面から飛び立った何万匹という羽虫は、群れをなして宿屋の玄関口に殺到し、空間を黒く染め上げているのだった。

 先ほどから聞こえていた奇妙な音は、本来あるかなきかの羽音が数千倍にも増幅された結果だ。

 「イセリア! オルフェウス! 殿下を守れ!!」

 アレクシオスは傍らにいる二人に向かって声を張り上げる。

 「……分かった」

 涼やかな声が応じたかと思うと、刹那、真一文字に闇が裂けた。

 裂け目からわずかに覗くのは、燃えさかる炎を凝結させたような真紅の装甲だ。

 オルフェウスは戎装を終え、”破断の掌”で周囲の羽虫を薙ぎ払っていく。

 森羅万象を等しく切削する刃に触れては、羽虫の脆弱な身体などひとたまりもない。

 オルフェウスの腕が動くのに合わせ、闇に縦横無尽の亀裂が走る。

 だが――それも焼け石に水だった。

 羽虫の大群は途切れることなく飛来し、オルフェウスが切り裂いた空隙を埋めていく。

 ”破断の掌”は絶大な破壊力を誇る反面、使用するごとに著しい消耗を強いる諸刃の剣でもある。さらに付け加えるなら、その効果が及ぶ範囲もごく狭い。

 そのような性質を持つがゆえに、一つ一つは弱く脆いが、圧倒的な物量で迫ってくる敵とは最も相性が悪いのだった。

 「あーもう! なんなのよこの虫は!!」

 腹立たしげに叫んだのはイセリアだ。

 無骨な両腕を振るうたび、周囲の羽虫がごっそりと消え失せる。

 その合間からは、黄褐色の装甲に鎧われた重厚な輪郭シルエットがちらちらと見え隠れする。

 力任せに爪を叩きつけるその動作は、切るというよりは刈り取ると言った方が適切だ。

 オルフェウスが描きだす鋭く美しい攻撃とは何もかもが対照的な力業であった。

 それは同時に、オルフェウスが最も苦手とする種類の敵に対して最大の効果を発揮するということを意味している。

 両腕の爪に加えて、刃を備えた二本の”尾”が縦横無尽に宙を駆け巡り、凄まじい勢いで空間を埋める羽虫を掃討していく。

 その甲斐あってか、イセリアの周囲だけは視界が開けつつある。

 「イセリア、ここは頼んだぞ!」

 羽虫の海をかき分けながら、アレクシオスはルシウスとエンリクスがいる方角へと歩を進めていく。

 「殿下!! ご無事ですか!?」

 声をかけるが、返事はない。

 アレクシオスはなおも諦めず、羽虫をはね退けながら前進する。

 そのとき、視界の片隅にかすかな銀光が走ったのを、アレクシオスの目は見逃さなかった。

 「くっ――!!」

 瞬間、鋭い剣閃がアレクシオスめがけて迸った。

 敵はアレクシオスの喉元を逆袈裟に切り裂くつもりらしい。

 すでに致命的な間合いに入っている。とっさに身をかわしたところで結果はおなじだ。

 刃がまさに喉首に触れるかという瞬間、アレクシオスの身体は音もなく変異した。

 五体はつややかな光沢を湛えた漆黒の装甲に覆われる。

 頭部に刻まれた幾何学模様のスリットに赤光が巡る。

 人ならざる超常の存在――戎装騎士ストラティオテス

 アレクシオスの首を切り裂いていたはずの剣刃は、漆黒の装甲に触れることはなかった。

 右手首の付け根から、やはり転瞬の間に伸びた槍牙が刃を受け止めたのだ。

 「何者だ!!」

 逃すまいと左手で刃を掴みつつ、アレクシオスは咆哮する。

 黒い羽虫が殺到する直前、この場にいたのはアレクシオスたちのほかにはデキムスだけだ。

 元老院議長ともあろう者が軽率に剣を振るうとも思えない。混乱に乗じて刺客が潜入したと考えるのが妥当であった。

 やはりと言うべきか、返答はなかった。

 代わりとでもいうように、すさまじい勢いで鉄鞭が振り下ろされた。

 鞭とは名ばかりの、実際は鉄で作られた棒状の鈍器である。

 素朴なつくりだが、それだけに破壊力は相当なものだ。まともに当たれば人間の頭蓋骨などはたやすく粉砕される。

 アレクシオスは避けようともせず、右の前腕を差し出す。

 人間が同じことをすれば無事では済まない。受け止めた瞬間に皮膚は破れ、骨は跡形もなく打ち砕かれる。

 戎装騎士の身体を覆う硬質の装甲は、そんな鉄鞭の一撃を真っ向から受け止めたのだった。

 透き通る装甲にはヒビひとつ入っていない。何重にも積層された装甲が一種の空間装甲スペースド・アーマーとして機能し、与えられた外力を分散しているためだ。

 そのまま鉄鞭を押し返そうとしたアレクシオスの腹に、新たな一撃が加えられた。

 「ふざけた真似を――!!」 

 腹部に視線を落とせば、どこからか突き込まれた槍先が目に入る。

 息つく間もなく繰り出された槍の連撃は、装甲を穿つには至らなかったが、黒騎士をわずかによろめかせるには十分だった。

 (敵は一人ではないのか?) 

 アレクシオスが訝ったのも当然だった。

 剣、鉄鞭、そして槍……立て続けに襲ってきたそれらの武器を一人で扱っているとは思えなかった。

 一つの武器に一人の使い手がいるとすれば、少なく見積もっても三人の敵に囲まれている――

 複数の刺客が侵入しているとなれば、事態は予想以上に深刻だった。

 敵はエンリクスを奪還するだけでなく、ルシウスの生命さえ奪おうとするだろう。これまでデキムスが巡らせてきた謀略の数々を思えば、千載一遇の好機を逃すはずがない。

 と、黒い帳が降りたようだった視界がふいに開けはじめた。

 恐るべき密度で宿の玄関口を埋め尽くしていた羽虫の群れが、突如としてその数を減らしていったためだ。

 室内を乱舞していたおびただしい数の黒羽虫がすっかり消え失せるまで、さほどの時間は要さなかった。床に散乱する死骸がなければ、つい先ほどまでの光景はとても現実の出来事とは思えないほどだ。

 明瞭な視界が戻ると、アレクシオスははたと我に返ったように周囲を見回す。

 ルシウスは壁際に悠然と佇んでいた。傍らには抜き身の刀身を携えたラフィカが控えている。

 二人の足元をみれば、小さな血溜まりが斑々と床を汚している。

 血の色が鮮やかさを失っていないのは、空気に触れてからまださほど時間が経っていない証だ。

 「殿下!! ご無事ですか!?」

 「余ならば大事ない」

 ルシウスは短く言うと、駆け寄ろうとするアレクシオスを手で制した。

 「殿下には指一本触れさせていませんよ。仕留められなかったのは残念でしたけど」

 ラフィカは懐から端布を取り出すと、うっすらと血に濡れた刀身を拭った。

 残された血痕は敵が流したものと理解し、アレクシオスはひとまず安堵する。

 「……まんまとしてやられたな」

 ルシウスは苦々しげに呟く。

 まるで羽虫の群れとともに飛び去っていったみたいに、デキムスの姿は忽然と消え失せていた。

 そして、デキムスが求めてやまなかったエンリクスも、また――

 「今ならまだそう遠くには行っていないはずだ!!」

 三人の戎装騎士は宿屋の外に飛び出そうとして、思わず足を止めた。

 先刻に較べればだいぶ数を減らしているとはいえ、通りには今なお人の群れがたむろしている。

 あたりには異様な雰囲気が漂っている。

 ほとんどの人間がなにかにひどく怯え、動揺し、わずかな物音にも過敏に反応するありさまであった。

 空に浮かんだ巨人の幻はすでに消え失せているとはいえ、ひとたび恐慌状態に陥った人間がそう簡単に正気を取り戻せるはずもない。

 いま戎装した三人が飛び出していけば、人々をふたたび混乱の淵へ追いやることにもなりかねない。


 ――人間ではない、鉄のバケモノ


 これまで何度となく投げかけられた心ない言葉。

 多くの人間にとって、それは偽らざる本心でもある。

 それを理解しているからこそ、アレクシオスは二の足を踏んだのだった。

 三人の騎士たちは無言のうちに目配せをすると、ほとんど同時に戎装を解き、人の姿へともどる。

 そうすることで無用の混乱を回避出来る一方、戎装騎士としての能力の大部分は封じられることになる。まさしく苦渋の決断であった。

 むろん、人目につかない場所でふたたび戎装する手もあるが、そのころにはエンリクスの追跡はきわめて難しくなっているにちがいない。

 めぼしい痕跡も残さずに消えた相手の足取りを掴むのは容易ではない。

 途方に暮れる騎士たちの頭上で、夜空は少しずつ白みはじめていた。

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