第62話 夜の果て
猛然と街路を駆けていく馬車のなかで、デキムスは気づいたように額の汗を拭った。
身体中から吹き出した多量の汗はすっかり冷えている。あるいは初めから冷や汗であったのかもしれないが、今となっては判然としない。
それも無理からぬことだ。
つい先ほどまで無我夢中で動き回り、馬車が走り出してようやく人心地がついたというところだった。
デキムスはひとしきり呼吸を整えると、腕の中ですやすやと寝息を立てるエンリクスを抱きしめる。
体温と息遣い、小さな心音……すべて現実のものだ。夢や幻などではない。
夕刻の一件からささくれだっていたデキムスの心は次第に鎮まり、落ち着きを取り戻していく。
「エンリクス様を無事取り戻せたのは何より……」
ぼそりと言ったのはラベトゥルだ。
「合図があるまで待っておれと言ったはずだが、余計な手出しをしてくれたな」
「私どもは閣下のお手伝いをしたまでにございます」
「まあいい。エンリクスはこうして儂の下に戻ったのだからな。だが――」
デキムスはラベトゥルから視線を外し、シュラムを見た。
老政治家の鋭い目は、暗器使いの右肩に滲んだ血の染みを見逃さなかった。
「色気を出しおったな。失態を取り戻そうとでも思ったか?」
「面目次第もござらぬ――あと一歩というところで仕損じるとは、不覚」
「ふん……ルシウスめ、どこまでも悪運の強いやつよ」
デキムスは吐き捨てるように言った。
「しかし、奴が引き連れている
「……お言葉ながら、結論を出すのはいささか早計にすぎるかと存じます」
あくまで静かな口ぶりではあるが、シュラムは力強く言い切った。
抗弁するような口ぶりが多少癇に障ったのか、デキムスはシュラムを睨めつける。
いたずらに萎縮させるのではなく、無言のうちに理由を述べるよう促しているのだ。たんなる威圧に終わらないのがデキムスという男の度量だった。
「奴らの一人と剣を交えましたが、あれは尋常の人間とはまったく異なる存在にござる。百聞は一見に如かずとはよくぞ申したもの……」
言って、シュラムは袖口から鉄鞭を取り出した。
紙で作られた玩具のように見えたのは、鉄鞭が半ばから大きくへしゃげているためだ。
さほど武術に通じている訳ではないデキムスも、鉄製の武器がここまで変形するのは只事ではないことはひと目で理解できる。
「これは先ほど敵を打ち据えたもの。どれほど堅牢な鎧でも、鉄鞭をこうまで歪ませることは出来ませぬ」
「むう……」
デキムスは我知らず唸り声を漏らしていた。
こうして
「三人のうち、最も与し易いと見えた者でもそれほどの力を秘めております。他の二人の強さは恐らくそれ以上――まともに戦えば、いかに我らでも十中八九勝ち目はありませぬ」
「ならば、どうするつもりだ?」
デキムスはシュラムとラベトゥルを交互に見る。
「ご心配には及びません――勝てぬならば、戦わねばよいだけにございます」
と、ラベトゥル。
「異なことを……戦わずしてなんとするつもりだ?」
「閣下、目的をお忘れになってはいけません。我らの狙いはあくまでルシウス・アエミリウスただひとり。奴さえ仕留めれば、エンリクス様が次期皇帝となられる……」
「そんなことは貴様に言われずとも承知している。戎装騎士どもがいるかぎり、ルシウスを殺すことも出来んと申しておるのだ」
デキムスの声はあきらかに苛立っている。
ラベトゥルは、相変わらず仮面の下に一切の感情を隠したまま、滔々と自らの考えを述べる。
「奴らと戦ってもこちらに利はありません。
「その言葉に偽りはないな? ラベトゥルよ」
「必ず奴を討ち果たすとお約束いたしましょう。この生命にかけて――」
ラベトゥルの言葉の端々には確固たる自信が漲っている。
すでに刺客のうち二人を失っているにもかかわらず、目論見の成功には寸毫の疑いも抱いていないようであった。
「シュラム、聞いての通りです。閣下のご期待を裏切らぬよう、全身全霊でお前の務めを果たしなさい」
「……御意」
短く答えたシュラムの双眸には、蛇のような怨念がちろちろと燃えている。
振り返ってみれば、シュラムにとっては屈辱の連続だった。
デキムスの別邸でみすみすエンリクスの奪取を許し、先ほどは混乱のなかでルシウスを斬ろうとして叶わなかった。
暗器使いに失敗は許されない。一度しくじれば敵に手の内を見破られ、奇襲の効果も薄れる。初手必殺こそが絶対の鉄則であった。
だからこそ、古の間者にとって失敗は死と同義であり、その末裔であるシュラムも先祖と同じ心構えで仕事に臨んできたつもりだった。
次こそは長年培ってきた技術と経験のすべてを傾け、みずからの役目を成し遂げなければならない――殺意の冷たい炎は、シュラムの心を静かに焦がしている。
そうするあいだに、馬車の外の景色は一変していた。
沿道の民家や商店はいつの間にか姿を消し、入れ替わりに煉瓦造りの倉庫が立ち並んでいる。
市街地を抜け、港湾区画へと入りつつあるのだ。
デキムスはこのまま別邸に戻ることなく、前もって用意させていた船に乗り込んでタナイス運河を下るつもりだった。
ひとたび岸を離れてしまえば、パラエスティウムに到着するまでのあいだ、ルシウス一行とは物理的に隔絶される。船出を早めるほど、両者の距離は大きくなるのだ。
性急であることはデキムスも承知している。
すべては一刻も早く、すこしでも遠く、エンリクスをルシウスから引き離すためであった。
(奴は、やはり――)
真正面から対峙したとき、デキムスははっきりとそれを見た。
『帝国』の頂点に立つべき真の
それは血筋によらぬ天与のものだ。当代の皇帝イグナティウスも、先の皇太子マルクスとその子エンリクスも、そしてデキムス自身も持ち合わせていない。
現在の皇帝家のなかで、ただひとりルシウスだけがそれを持って生まれたことに、デキムスは底知れぬ脅威を感じていた。
最初にその兆しを感じ取ったのは、二十年以上も前のこと――今のエンリクスとさほど歳の変わらない少年だったルシウスは、早くも異才の片鱗を覗かせていた。
デキムスは兄である皇帝を強硬に説き伏せ、『西』の三大勢力の一つであるプラニトゥーデ家に養子に出すよう仕向けたのだった。
(あの時、儂が感じたものは間違いなどではなかったのだ。ただ養子に出すだけでは不足であった。確実に始末しておれば……)
ふと窓の外に目を向ければ、橙色の曙光が街のそこかしこに滞った夜の残滓を洗い流している。
光に目を細めながら、デキムスは今更ながらにひどく疲労していることを自覚する。
極度の緊張のためであろう。背中や肩の筋肉は鉄みたいに強張り、手足はほとんど鉛と化したかのよう。気を抜けばうっかりと眠りに落ちてしまいそうになる。
すべては老骨に鞭を打った代償だ。
どれほど気が逸っていたとしても、六十を過ぎた身体はいつまでも騙しきれるものではない。
それでも、あどけない顔で眠るエンリクスを抱き寄せれば、肉体を苛む疲労も不思議と和らいでいくようだった。
長い夜が終わり、『東』の地平は新たな朝を迎えようとしている。
ただそれだけのことだった。ひとつの戦いが終わり、次なる戦いの幕が開く。
平穏ははるか遠く、骨肉相食む死闘の決着は見えない。
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