第63話 『西』から来た女

 朝――

 アストリカの港は、忙しなく行き交う人々でごった返していた。

 早朝のひと仕事を終えた港湾労働者たちが逞しい肉体を誇示するように闊歩する横で、旅装に身を包んだ人々が船着き場へと駆けていく。入れ違いに走り去っていったのは、今しがた到着した船の乗客たちを乗せた馬車だ。

 淀みない大河の流れのように、人々は絶えまなく動き続けている。

 めまいを覚えるほどの喧騒と気ぜわしさ。これが帝都近傍で最大の港湾都市の日常だった。

 誰も彼もが必要以上に先を急いでいるようにみえるのは、そんな港の空気にあてられたためでもあろう。

 港の中心部からすこし離れれば、時間の流れも多少ゆるやかになったようだった。

 その建物は、倉庫街にほど近い一角にひっそりと佇んでいた。

 平屋建ての館である。

 重厚な石造りの外壁は、風雨をものともしない堅牢さを伺わせる一方、だいぶ年季が入っていることも容易に見て取れる。壁のそこかしこに蔦が這い、えも言われぬ風趣を醸し出している。

 もともとは港の業務を管轄する官舎として使われていたものだ。

 現在では官舎の機能は新庁舎へと移り、こちらはもっぱら帝都からの客人をもてなす迎賓館として用いられている。

 ルシウスとその一行が応接室へと通されたのは、いまから一時間ほどまえのことだ。

 御座船の準備が整うまでのあいだ、ここで待機する手筈であった。

 ルシウスは一人がけのソファに腰を下ろし、ラフィカとヴィサリオンは向かい合うように配置された長椅子に着席している。

 三人の騎士が窓際に立っているのは、アレクシオスがそのように申し出たためだ。

 室内の雰囲気は重く沈んでいる。

 それも無理からぬことだ。宿屋での一件から、まだ数時間しか経っていない。

 アレクシオスとイセリア、オルフェウスの三人は必死の捜索に当たったが、消えたエンリクスの足取りは杳として掴めなかった。

 エンリクスの存在は、ルシウスにとってなにより強力な切り札となるはずだった。あの少年がルシウスと行動を共にしているかぎり、デキムスは迂闊に手出しが出来なくなるはずであった。

 だからこそラフィカは危険を冒してエンリクスの身柄を奪取し、一旦は成功したかに思えた。

 だが――まんまと奪還を許してしまった以上、すべての努力は水泡に帰したことになる。

 デキムスにしてみれば、もはやルシウスへの攻撃を躊躇う理由はなにもない。

 愛してやまない孫を拐かされた報復として、これまで以上に激しい攻撃を仕掛けてくることは想像に難くない。

 パラエスティウムまでの道中はすでに佳境に差し掛かっているとはいえ、この先も襲撃の機会はいくらでもある。ルシウスの皇帝即位を阻止するためなら、たとえ無辜の民草を巻き込んででも目的を遂げようとするはずだった。

 エンリクスを奪われた悔恨に加えて、先々への不安が否応にも一同の上にのしかかってくる。

 それは騎士たちだけでなく、ヴィサリオンやラフィカにしても同じことだ。

 と、ルシウスがふいに動いた。その場の全員の視線が集中する。

 ルシウスはソファに座ったまま、のけぞるようにぐっと背筋を伸ばすと、 

 「皆、腹は減っていないか?」

 陰気など毫も含まない、実に飄々とした声で言ったのだった。

 その言葉の意味を計りかねて、アレクシオスとイセリア、それにヴィサリオンは目をぱちくりさせるばかり。

 オルフェウスは窓枠にもたせかかったまま、例によって無表情でルシウスを見つめている。

 「……殿下。今どういう状況か、本当に分かっていらっしゃいます?」

 呆れたように言ったのはラフィカだ。

 「奪い返されてしまったものは仕方なかろう。悔やんでどうにかなることでもない。ならば、悔やむだけ詮無きことだ」

 「それはまあ、そうですけど――」

 「余はこうして生き永らえている。勝っても負けてもいないということだ。それは敵にとっても同じこと……違うか?」

 ルシウスはどうやら本気でそう考えているらしい。

 すくなくとも、失敗から目を背けるために虚勢を張っているといった様子は微塵も感じさせなかった。

 今回の旅において、デキムスにとっての勝利はルシウスを抹殺することであり、ルシウスにとっての勝利は無事にパラエスティムまで辿り着くことだ。

 その構図に当てはめれば、たしかにまだ悲観するほどの状況とは言えない。事態は振り出しに戻っただけだ。

 能天気といえばあまりに能天気ではある。自責の念に押しつぶされそうになっていたアレクシオスは、その言葉でふっと肩の荷が下りたようだった。

 「それはさておき、船に乗る前に腹ごしらえを済ませておいた方がいい。揺れる船の上では、何を食っても腹に入れた気がしないものだ」

 ルシウスが言い終わるが早いか、応接室のドアがふいに開いた。

 「それは聞き捨てなりませんわね――まるで必ず船酔いをするようなおっしゃりよう」

 艶かしくも凛とした、よく通る女の声であった。

 アレクシオスとイセリアは、声の主の姿を確かめないうちに動いていた。不審な動きを見せれば、即座に戎装して迎え撃つつもりだった。

 不思議なのは、この事態にラフィカが何の反応も示していないことだ。

 剣の柄に手をかけようともせず、ただ視線を動かすのみであった。

 と、ルシウスが騎士たちを制止するように手を掲げた。

 「……部屋に入る前には伺いを立てるものだ」

 「あら、それはとんだ失礼を。あいにく『東』の礼儀作法には疎いもので」

 「覚えておいて損はないぞ。うっかりしていると思わぬ怪我をするかもしれん」

 応接室に入ってきたのは、絢爛な衣服に身を包んだ西方人の美女だ。

 銀灰色の髪を螺鈿の簪でまとめ、それが艶めかしいうなじと豊かな胸元をいっそう強調している。

 左の袖は――空であった。

 乳房の脇からつながる優婉な曲線は、二の腕の半ばでふっと消え失せている。

 「お迎えに上がりました――エミリオ様」

 「それは昔の名だ。今はルシウスと呼べ、フィオレンツァ」

 「私たちにとってはいつまでもエミリオ様ですけれど、そうお呼びした方がよろしいなら改めましょう。ルシウス様?」

 そう言って、美女――フィオレンツァは微笑を浮かべる。

 憮然とした面持ちで二人のやり取りを見つめるラフィカに気づいたのか、

 「ラフィカちゃんは相変わらず小さくて可愛らしいこと」

 「そう言うあなたこそ、前に会ったときよりすこし老けたんじゃないですか?」

 「仕方ないでしょう? なにしろ五年も可愛がっていただけなかったんですもの」

 フィオレンツァは軽口を叩きつつ、ルシウスに熱っぽい視線を送る。

 一方、ラフィカは珍しく柳眉を逆立てながら、知ったことではないと言うようにぷいと横を向いたのだった。

 「あの……殿下、こちらの方は?」

 ヴィサリオンがおずおずと口を開いた。

 「これから乗る船の船長だ。余を『西』から送り届けたのだが、そのまま『東』に居着いてな。船旅には役立つと思って呼び寄せたという訳だ」

 「フィオレンツァと申します。御目文字かなって光栄ですわ」

 言って、フィオレンツァはヴィサリオンと騎士たちに一礼をする。

 そして、顔を上げると、アレクシオスをまっすぐに見据えた。

 「あなたたちが戎装騎士ストラティオテス? 噂はかねがね。強い味方が一緒で心強いわ」

 「そう言ってくれるのはうれしいが、あまり過信しないでくれ」

 「謙虚なこと――それとも、自信がない?」

 フィオレンツァに問われて、アレクシオスはおもわず目を伏せる。

 エンリクスを奪い返される前であったなら、こうまで弱気な姿を見せはしなかったはずだ。

 昨夜の失態を思えば、多少でも自信ありげな振る舞いをするのは憚られたのだった。

 「あたしたちの強さを知らないみたいね。どんな敵が来たって返り討ちにしてやるわよ」

 横から口を挟んだのはイセリアだ。

 「威勢のいいお嬢さん。自信満々なのはいいけれど、せいぜい足元を掬われないよう気をつけてほしいわね」

 「なんですって!?」

 「船の上では一蓮托生。一人の失敗が全員を危険に晒すことになる。私の船でつまらないドジを踏んだら川に叩き落とすから、そのつもりでいなさい」

 フィオレンツァの歯に衣着せぬ物言いに、イセリアも腹に据えかねたらしい。

 胸ぐらを掴もうと詰め寄ろうとしたところで、ラフィカが二人のあいだに身体をすべり込ませた。

 「そこまでです。まったく、これだから海賊上がりは――」

 「か……海賊う!?」 

 イセリアとアレクシオス、ヴィサリオンの声が重なった。

 唖然とした様子で見つめる三人から顔をそらしつつ、フィオレンツァは照れくさそうに唇に指を当てる。

 「昔の話よ、昔の……ね」

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