第64話 最後の道士

 夜が近づくにつれて、川風はいっそう冷たさを増した。

 大地を深々と割った峡谷には、いまなお冬の気配が濃くわだかまっている。

 ひとたびその奥底に入り込んだ風は、両岸にそり立つ荒々しい岩壁に挟まれて行き場を失う。

 堂々めぐりの風は激しく渦巻き、翠緑の水面を千々にかき乱す。そしてついに岩肌に身を裂かれては、哀しげな風鳴りを響かせるのだった。

 夜ごと現れる鬼哭啾々たる情景から、うなり声バリュストノイ峡谷と呼ばれている。

 この峡谷が船乗りたちに忌み嫌われているのは、恐ろしげな風情のためだけではない。

 この峡谷がタナイス運河における最大の難所であるからだ。

 まず第一に、峡谷全域に渡って川幅が一定ではないということに加えて、水深も深い。

 運河の建設にあたって、この地では『帝国』の土木技術の精髄を傾けた大開削工事が行われている。完成までには五十万人とも言われる人夫と、二十年もの歳月が費やされた。

 総延長千キロ以上に及ぶタナイス運河の全行程で、これほど大規模な開削工事が実施された例は他にない。

 そうした先人のたゆまぬ努力をもってしても、大自然の脅威を完全に克服することは叶わなかった。工事を完璧とするためには、さらに三十年の年月と、天文学的な費用を投じる必要があったのである。

 結局、無尽蔵に膨れ上がる工事費と安全性が天秤にかけられ、多少の犠牲には目をつむるという方針で決着したのだった。

 そして、もうひとつ――これは、不幸にも事故が起こったあとの問題だ。

 開豁地ではゆるやかな水の流れは、峡谷に入るとたちまち別の顔を覗かせる。

 川幅が狭まるにつれ、水のもつ運動エネルギーは圧縮される。

 水は表層では変わらずおだやかであっても、水面下ではすさまじい速さで荒れ狂うのだ。

 バリュストノイ峡谷で船が沈むということは、そんな流れに生身で投げ出されることを意味している。

 いったん水中に引きずり込まれれば、まずもって助かる見込みはない。

 それも、ただ溺死するだけではない。峡谷の下流に流れ着く水死体のほとんどは肉親にも見分けがつかないほど損傷している。

 水面下に突き出した刃物みたいな岩に何度も叩きつけられるためであった。

 それは船も同様だ。いったん水面から姿を消すと、どれほど頑丈な船であろうと跡形もなく砕け散ってしまう。

 この峡谷に呑まれたが最期、人も船も原型を留めないほどに破壊される――

 証拠を残さずに暗殺を遂行するには、これ以上ないほどにおあつらえ向きの舞台であった。


 いま――河岸にぽっかりと口を開けた岩窟の奥に身を横たえる人影がある。

 アウダースであった。

 簡素な腰布のほかには何も身につけていない。

 鋼のような肉体を晒したアウダースは、先刻から何をするでもなく、ただ仰向けになって深い呼吸を繰り返している。

 それこそが彼の奥義の真髄だった。

 アウダースの武器は、常人の数倍におよぶ超人的な肺活量である。

 デキムスの目の前で披露したように、頑丈な革袋に息を吹き込んで破裂させる程度は造作もなくやってのける。

 もっとも、それはあくまで自身の能力を雇い主に見せつけるための演出にすぎない。人畜無害な余技という意味では、大道芸となんら変わるところはない。

 先ほどからアウダースが取り掛かっているのは、そのような芸とは一線を画するほんものの戦技だ。より正確に言うならば、その下準備であった。

 よくよく注意を払えば、ひと呼吸あたりの時間がすこしずつ増えていることに気づく。

 アウダースは分厚い岩盤みたいな胸板をゆっくりと限界まで膨らませ、同じだけの時間をかけてやはり限界までしぼませていく。膨張と収縮の両極端を行き来する一連の反復動作は、見た目からは想像もつかないほどの負荷を人体に強いる。

 そうすることで、アウダースはみずからの肺腑を最高の状態に仕上げているのだ。

 たんに肺の容量を増大させているだけではない。肺胞のひとつひとつに十分に血液を巡らせ、より効率的に酸素を取り込むことを可能たらしめる。

 アウダースにとって、水に潜るときには欠かせない儀式であった。

 しかし、今日のそれは、あきらかに普段とは様相を異にしている。

 通常の倍以上の時間を費やし、ひとつひとつの動作も実に丹念にこなしている。

 一世一代の大勝負を前に万全を期すためであった。

 そして――その効果は、早くもアウダースの肉体に顕れつつある。

 年齢的にはすでに壮年に入っているアウダースだが、いまや隆々たる筋肉は薄桃色に高潮し、ハリのある皮膚はなまめかしい艶さえ帯びている。肉体だけが時間を遡行し、全盛期の勢威を取り戻したかのようであった。

 奇跡とも呼べる技術は、むろんアウダースが独自に考案したものではない。


 錬丹術――

 それは、いしにえの東方諸国で発祥した科学・哲学・医学を包括する巨大な学問体系だ。

 とくに人体を循環する内なる気の制御を目的とする内丹は、人を生きながらにして神へと至らしめる術法とされ、一時は各国の権力者をも巻き込んで大いに隆盛を誇った。

 だが――時代は下り、大陸東方が『帝国』の版図に入ると、状況は一変した。

 『帝国』は東方において猖獗を極めていたあやしげな呪術まじないや邪教淫祠の根絶を掲げ、国家を挙げた弾圧と排斥を開始したのだ。

 科学や哲学と呼ぶにはあまりに神秘的な色彩が濃かったのに加えて、教団の体裁を取っていたことも災いした。東方人による大規模な結社は、異民族王朝である『帝国』にとって潜在的な反乱分子にほかならず、いかなる形であれ存続を許されなかったのである。

 ほどなくして、錬丹術は地上から消え去った――否、痕跡も残さず消し去られたのだった。

 名のある術者は門弟もろとも処刑され、各地の道場は破壊され、秘術を記した書物はことごとく焼き捨てられた。

 それでも、東方に根を張った錬丹術の命脈が完全に断ち切られた訳ではなかった。

 知識は書が焼き捨てられればたやすく失われるが、個人の身体に染み込んだ技術となればそうはいかない。

 辺境の漁民――とくに素潜りで海中深くに生息する海老や貝を漁る特殊な技能集団に属する人々は、内丹によってみずからの心肺機能を増強する技術をいまなお継承している。当の彼ら自身もそれが内丹の術であるとは知らず、また知らぬがゆえに当局の摘発を免れてもいるのだった。

 かつてアウダースに内丹の呼吸法を伝授したのは、酒毒に五臓六腑を蝕まれ、二度と海に潜れない身体になりはてた一人の漁夫だった。

 漁夫はわずかばかりの酒手の謝礼に、まだ少年であったアウダースにおのれの持てる技術のすべてを惜しげもなく伝授した。

 錬丹術の使い手は道士と呼ばれる。

 師である漁夫がそうであったように、アウダースも錬丹術の知識については何も知らないも同然だった。彼らにあったのは、みずからの身体に染み付いた経験と、愚直なまでの実践だけだ。

 言うまでもなく、道士としては失格である。

 そんな彼が過去に存在したいかなる大道士をも凌ぐ才能を開花させたのは、まさしく皮肉というほかない。


 やがて呼吸の回数が二百回を超えたころ、アウダースはゆっくりと上体を起こした。

 仄暗い岩窟のなかにあって、鍛え上げられた肉体はかすかな光をまとっているようにみえる。

 むろん錯覚だ。

 呼吸を開始してから体温は二度ちかく上昇し、すっかり上気した肌はむんとする熱気を帯びているものの、アウダースの皮膚はいかなる波長の光も放ってはいない。

 だが、気の本質とは、そのような錯覚を惹起する作用にある。

 アウダースは、みずからの肉体が完璧な状態に仕上がったことを確かめると、そのまま立ち上がった。

 ふいに背後に気配が生じたのはそのときだった。

 「エフィメラか?」

 アウダースは振り向こうともせず、ただ言葉だけを気配のほうへ投げた。

 野太い声は岩窟のなかで反響し、何重にもこだまする。

 「……支度は終わったようね」

 短く応じた声は、はたしてエフィメラのものだ。

 アウダースに向かって近づいてくる。

 気化した汗がたっぷりと溶け込んだ岩窟の空気に、にわかに濃密な女の香が混じった。

 「ご覧のとおりよ。身体の仕上がりは完璧だ――これなら万に一つも仕損じることはねえ」

 「ファザルもそう思っていたはずよ」

 エフィメラがその名を口にした途端、自信に満ちていたアウダースの表情に影が差した。 

 「あいつには悪いことをしちまったな。まさか敵にあんなバケモノがいるとは思っていなかった。奴は俺たちの身代わりに死んだようなもんだ」

 言葉は荒っぽいが、アウダースなりに死んだ仲間を悼んでいるようだった。

 あのとき、一人ずつ仕掛けるべきだと言い出した張本人として、ファザルの死には多少なりとも感じるものがあったらしい。

 アウダースの意見をまっさきに支持してくれたのがファザルであるということも無関係ではない。

 「身代わり――そうね。あのとき、あんたがああ言わなければ、いまごろ私たちは揃って全滅してたかもしれない」

 「奴の無念は俺が晴らす。必ずな」

 言って、アウダースは拳と拳を軽く打ち合わせる。

 「ラベトゥルやシュラムの野郎が何を考えているか知らねえが、水の中は俺の独擅場だ。誰にも邪魔はさせねえ――標的ルシウスは俺の手で殺る」

 「そう、私たちの狙いはただひとり。間違っても例のバケモノとまともに戦おうなんて思わないことね」

 「言われなくても分かってるさ。それはそうと、例のものは持ってきてくれたんだろうな?」

 「もちろん――」

 エフィメラが懐から取り出したのは、小ぶりな陶製の容器だ。

 中にはなにかの液体が封入されているらしく、エフィメラの手の中でちゃぽちゃぽと音を立てている。

 「これっぽっちか?」

 「これだけあれば十分――いいえ、普通の人間なら、これだけの量でも命を落とすかもしれないわ」

 「あいにくと俺は普通とは縁がねえもんでな。とにかく、物は試しだ」

 アウダースはエフィメラの手からひったくるように容器を受け取ると、木製の栓に親指をかける。

 小気味のいい音を立てて栓が飛んだのと同時に、岩窟のなかに奇妙な芳香が漂いはじめた。

 好ましい香りかどうかは、人によって判断が分かれるだろう。

 とびきり強い薬酒をあたり一面にぶちまければ、あるいはこのような匂いが立ち上るかもしれない。鼻腔の粘膜をじりじりと焼かれるような感覚とともに、揮発性の芳香が神経をこれでもかと刺激する。

 極端な下戸であれば、この時点で耐えきれずに逃げ出しているにちがいない。

 「ふん、薬にしては悪くねえ香りだ――」

 さしものアウダースも立ち上る強烈な匂いに一瞬たじろいだようだが、意を決したように容器を唇に近づける。

 そして、この期に及んではわずかな逡巡も禁物とばかりに、一切の躊躇なく容器の中身を飲み干したのだった。


 ――ぐぶっ


 奇妙な音は、アウダースの身体の奥深くで生じたものだ。

 咽頭が、食道が、異物の侵入を拒んでいる。肉体の主の意思に反しても、それを吐き出してしまおうと激しく痙攣する。

 (――こん畜生!)

 アウダースは丸太みたいな両脚を踏ん張り、力ずくで嚥下を試みる。

 強靭な意思によって肉体の反乱を鎮圧しようというのだ。

 まるで石塊を飲み込んだみたいな抵抗感をともなって、は喉をゆっくりと下っていく。

 熾烈なせめぎあいの末、アウダースはついにおのれの肉体を屈服させたのだった。

 「……始まるわ」

 そのさまを横目に見つつ、エフィメラは誰にともなくつぶやく。 

 それから数秒も経たぬうちに、アウダースの身体は何かに弾かれたみたいに反り返った。

 そして、崩折れるように膝を突くと、言葉にならない呻吟を漏らしはじめる。

 「あぐ……あがあ……おお……っ!!」

 アウダースの肉体に生じた変化は、恐るべき速度で進行していた。

 ”準備運動”によって上気していた肌は、血色のよさを示す薄桃色を通り越し、いまや皮膚のほとんどの部分が赤黒く変じつつある。

 かつと見開かれた眼球は充血し、瞳孔は忙しなく拡散と収縮を繰り返す。

 ただでさえ逞しい筋肉がひとまわり大きくなったように見えるのは、けっして目の錯覚などではない。

 心臓は早鐘みたいに鼓動を打ち鳴らし、燃えたぎる血の奔流が五体の隅々まで駆け巡る。

 内臓と脳に直接灼けた鉄を注ぎ込まれるような感覚。神経がぐつぐつと煮えたぎり、次第に形を失っていく。

 「ぐうう……っ!!」

 アウダースは苦しげに息をつく。

 肉体の急激な変化は、どうやら収束しつつあるようだった。

 エフィメラはいつのまにか地面に落ちていた容器を拾い上げると、アウダースの顔を覗き込んで問う。

 「今の気分はどう?」

 「最高だ……! こいつは……驚いたぜ……!!」

 アウダースは答えつつ、異相へと変じた顔を上げた。

 無骨な顔にはくっきりと血管が浮かび上がり、血走った眼には隠しようもない凶気が宿っている。

 容器を満たしていたのは、むろんただの酒ではない。

 エフィメラがアウダースの要望に応じて素材を厳選し、手ずから調合した秘薬であった。

 摂取と同時に肉体を極度の興奮状態に導き、体温を長時間に渡って上昇させる――

 内丹の呼吸によって最高の状態に仕上げられた肉体は、エフィメラの薬によって人体の限界を超えた性能を発揮する。

 著効をもたらす反面、薬の服用によって肉体にかかる負荷も桁外れだ。アウダース以外の者が口にしたならば、苦痛の果てに悲惨な最期を迎えていたにちがいない。

 「そろそろ奴らがこの峡谷を通るはずだ」

 準備運動のつもりか、アウダースは軽く手足を伸ばすと、岩窟の出口に向かってゆっくりと歩みだす。

 途中、ふと立ち止まると、そこいらに無造作に転がっていたをむんずと掴み上げた。

 巨大な銛であった。

 全長はアウダースの身の丈ほどもある。大きく張り出した鉄製のかえしは、小型のアンカーを彷彿させた。

 本来は鯨やイッカクを仕留めるための漁具だが、海獣の強靭な皮膚と脂肪の層を貫通する威力は、船底程度なら造作もなく突き破ってのける。

 それも、一本だけではない。

 二本、三本、四本、五本……決して軽くはない銛を、アウダースはまるで枯れ枝を拾うみたいに次々と手に取っていく。

 拾い上げた銛は全部で九本。

 やはり地面に落ちていた革帯でざっくりと束ねると、余った両端を胸の前でたすきがけに結ぶ。

 「さあ、始めるとしようぜ」

 アウダースは歯を見せて笑いかける。獰猛な笑みだった。

 全身から闘気を漲らせ、水中の狩人は戦場へと一歩を踏み出した。

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