第65話 過ぎし日の…
陽が傾くにつれて、黄昏の色はいちだんと濃くなった。
漂いはじめた闇を裂くように、ルシウス一行を乗せた帆船はタナイス運河をひたすら東へと下っていく。
何の変哲もない二本マストの中型船である。とても皇族の御乗船とは思えない外観だが、他ならぬルシウスの希望でこのような船が選ばれたのだった。
アストリカの港を出てから、すでに一日あまりが経過している。
船は帆いっぱいに風をはらんで快走をつづけ、この分なら遅くとも一両日中にはパラエスティウムに到着するはずであった。
ここまでの船旅は、拍子抜けするほど順調に進んでいる。
今のところは敵襲の気配すらない。
むろん、つかの間の安寧は、この先の旅路の安全を保証するものではない。
デキムスの側としても、のべつまくなしに攻撃を仕掛け、いたずらに警戒心を抱かせるよりは、然るべき時機を見極めて必殺を期するほうがよほど賢明というものだからだ。
ファザルによる最初の襲撃も、馬車が峠の下りに差し掛かったタイミングを見計らって仕掛けられたのである。緊張が弛緩した一瞬を狙うという敵の戦略は、水上でも変わらないはずだった。
いま――決して広いとは言えない甲板の上に、ぽつねんと佇む人影がある。
アレクシオスだ。
少年騎士は船べりに肘を預け、ゆるやかに流れていく景色を見つめている。
本人としては周囲を警戒しているつもりだったが、それは多分に建前でもある。
ただ船室でじっとしていることに耐えられなくなったのだ。こうして甲板に出ることで、多少なりとも戦場に近づけたような気がしている。
いつやってくるとも知れない刺客との戦いは、アレクシオスの神経を否応にも過敏にした。
ひたすらその時を待つことしか出来ないと頭では理解していながら、焦燥に苛まれる身体は何かをせずにはいられないのだった。
アストリカでの失態を挽回する――アレクシオスの胸はその一念で埋め尽くされている。
と、アレクシオスはふいに頭を上げた。視界に生じた微妙な変化に気づいたためだ。
こころなしか、先ほどよりも川幅が狭まったようにみえる。
彼方で茫洋とかすんでいた対岸の地形が、今でははっきりと見て取れる。夕空に流れる白い筋は、川辺の集落から立ち昇る炊煙だろう。
そんな外界の変化と軌を一にするように、船の速度もわずかに増したようであった。
「あら――夕涼みなんて、意外と風流なのね」
背後から声がかかった。
アレクシオスが振り向くと、はたしてフィオレンツァであった。
銀灰色の髪を風になびかせながら、女船長はアレクシオスに近づいてくる。
「……あんたか」
「あんたとはご挨拶ね。ルシウス様の護衛はお休み中?」
「殿下にはあの二人にラフィカもついている。おれはすこし外の景色が見たくなっただけだ。そう言うあんたこそ、船長がこんなところをうろついていていいのか?」
「私は船長の仕事をしにきたつもりよ」
そう言うと、フィオレンツァはアレクシオスと並んで船べりに立った。
前髪をかきあげ、目を細めている。はるか遠方を見通しているようであった。
その姿に、アレクシオスは先ほどから気になっていた問いをぶつける。
「だんだん川幅が狭くなってきたように見えるが……」
「よく分かったわね――だけど、これはまだ序の口。これからもっと狭くなるわ」
「どういうことだ?」
「もうじきこの運河で一番の難所に入るのよ。難所と言っても、夜でなければそこまで危なくはないのだけど、どこかの港に錨を下ろして朝まで待つという訳にはいかないでしょう? ――このまま進むつもりよ」
フィオレンツァはこともなげに言うと、船縁から離れる。
その場であざやかに踵を返すと、空っぽの左袖が川風にたなびいた。
「大丈夫なのか? もし万が一のことがあったら――」
「そうならないようにするのが私の仕事。ルシウス様は私を信じて任せてくれているわ。海とは勝手が違うけど、比べ物にならないような難所をいくつも切り抜けてきたもの」
「……海賊だったという話、本当なのか」
フィオレンツァは立ち止まり、顔だけをわずかにアレクシオスに向ける。
「もちろん――もう昔のことだけど、これでも『西』では少しは名が通っていたわ。海賊上がりの女なんて軽蔑する?」
「そんなつもりで訊いた訳じゃない。その……殿下とは昔なじみのように見えたからだ」
「それはご想像におまかせするわ。でも、人間はすこしのきっかけで生き方が変わるものよ。私の場合はあの人がそれだった。もちろん、代償はあったけれど――」
フィオレンツァはしぼんだ左袖に視線を移す。
アレクシオスもただならぬ事情を察したのか、それ以上言葉を継ごうとはしなかった。
よくよく考えれば、ルシウスが『西』にいた頃のことなど、アレクシオスたちは何も知らないに等しい。
知っていることといえば、幼少の頃に『西』の三大名家のひとつプラニトゥーデ家に猶子に出され、五年ほど前に帰国したという程度のものだ。
『東』の皇太子は、大海を隔てた土地でどのような人々と出会い、ルシウス・アエミリウスならぬプラニトゥーデ家のエミリオとしていかなる人生を送ってきたのか。当人の口からそれが語られることは、おそらくこの先もないだろう。
ルシウスには、ラフィカやフィオレンツァしか知らない顔がある。
それは彼女らだけの独占物であり、他者がおいそれと触れてよいものではないはずだった。
「こんなところにいた――!!」
と、背後からふいに素っ頓狂な声が生じた。
自分の声を追いかけるように、イセリアはばたばたと甲板を駆けてくる。
「もう、アレクシオスってば勝手にどこか行っちゃうから心配したじゃない! 川に落ちてたらどうしようかと思ったわ」
「一日中おまえたちと一緒にいると疲れるからな。すこし外の景色を眺めて気晴らしをしようと思っただけだ」
「っていうか、なんで女海賊と一緒にいるのよ。ちょっとあんた、あたしのアレクシオスに変なことしてないでしょうね?」
「おまえのものになった覚えはない!!」
二人のやり取りに、フィオレンツァは鈴を転がすような笑い声を立てた。
「仲がよくて羨ましいこと。そこの坊やには何もしていないから安心するといいわ」
「当たり前でしょ! もし変なことしてたらこの場で川に叩き込んでたところよ!」
「それは大変――もし私がいなくなったら、誰がこの先の難所を切り抜けてくれるのかしらね」
フィオレンツァは笑いながら二人に背中を向けると、船楼へとつかつかと歩を進めていく。
船べりの外に目を向ければ、黒々とした大河の流れはさらに勢いを増し、船はその上を滑るように先へと進んでいる。
数分と経っていないにもかかわらず、水の流れは目に見えて速さを増している。
あれほど遠かった対岸は、いまや泳いで渡れそうなほどの距離にある。
そして、船の行く手に目を凝らせば、薄闇のなかに巨大な塊が仄仄と浮かび上がっていることに気づく。
低い山塊のように見えるそれは、悠久の昔、一帯の地盤が隆起して形作られた台地だ。
運河は雄大な流れを曲げることなく、台地に刻み込まれた巨大な亀裂へと吸い込まれていく。
バリュストノイ峡谷――
進むにつれて大きくなる船の揺れが、タナイス運河最大の難所の接近を知らせている。
半ばイセリアに引っ張られるような格好で船室へ連れ戻されながら、アレクシオスの胸中に言いしれぬ不安がこみ上げる。
確信にこそ至らないものの、おそるべき凶事の到来を告げる何かが近づいている。
戦いの風が吹きはじめている。
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