第66話 水底の襲撃者
船を運ぶ川波は、次第に高く、速く、そして荒くなった。
ぼっこりと不格好に盛り上がった台地は、闇のなかにうずくまる奇怪な巨獣のようにみえる。
狭い峡谷を進む船は、さしずめ巨獣の大口に飲み込まれた一片の木の葉とでも言ったところか。
ここまでの道すがら、足早に峡谷を出る何隻かの船とすれ違ったきり、前方にも後方にも他の船の気配はない。
それも当然だ。
太陽が西の方に沈んでから、すでに一時間ちかくが経過している。
多少なりとも地理に通じた者であれば、夜間にこの場所――バリュストノイ峡谷を通行しようなどとは決して思わないはずだ。
難所とはいえ、まだ日があるうちであれば、十分に注意を払って進むかぎりそうそう大事故に発展することはない。
事実、この場所で昼のあいだに起こる事故といえば、船頭が未熟であったり、あるいは船の限界を超えて荷を積みすぎていた場合がほとんどだった。
だが――ひとたび闇の帳が降りた途端、峡谷は凶猛きわまるもうひとつの顔をあらわにする。
そこかしこに鋭い岩壁がせり出しているのに加えて、一見穏やかな川面は水面下で激しく渦を巻いている。ひとたび舵を取られれば、立て直すのは容易ではない。
一面に墨を塗りたくったみたいに濃く垂れ込める闇のなか、正確な操船を行うことは、練達した船頭であっても至難であった。
すれ違った船の乗員がまるで狂人を見るような視線を向けたのも無理はない。
はたして誰が想像できただろう?
危険な夜の峡谷へ立ち入ろうとする無謀な船に、『帝国』の次期皇帝となるべき男が乗っているなどとは――。
「顔色が悪いぞ、ヴィサリオン」
船室の壁に背中を預けながら、アレクシオスは目の前の青年に問うた。
ルシウス一行が乗る船はさほど大きくもない。峡谷に入ってからというもの、船室には上下左右に不規則な振動がひっきりなしに走っている。
平素から女人と見まごうほどに白い青年の顔がいっそう青白くなったように見えて、アレクシオスはおもわず問わずにはいられなかったのだった。
「私のことはご心配なく……船旅には慣れてますから」
「本当か? 気分が悪いなら隠さなくていい。この揺れなら船酔いになるのも当然だ」
「大丈夫ですよ。どちらかと言えば、馬車のほうがよほど堪えました」
言いつつ、ヴィサリオンはわずかに相好を崩す。
「そう言うあなたこそ平気なのですか? 私が倒れてもどうということはありませんが、あなたたちに何かあれば殿下をお守りできなくなりますから。そちらの方が一大事ですよ」
「おれのことなら心配ない――あいつらも多分な」
アレクシオスはくいと顎を動かす。
二人からすこし離れた場所で、イセリアとオルフェウスは所在なさげに座り込んでいる。
イセリアは退屈に耐えかねたのか、栗色の髪先をしきりに弄っている。
時おり背筋を伸ばしたり、あくびをしたり、いかにも落ち着かない様子だ。
一方のオルフェウスはといえば、何をするわけでもなく、ただ茫洋と虚空を見つめている。
他の者であれば呆けているようにも見えかねない姿も、この世のものとも思えぬ図抜けた美貌の持ち主であれば、ひとつの肖像として十分さまになる。
船が揺れるたび、錦糸よりもなお繊細な亜麻色の髪がさらさらと流れる。
透き通った白皙の肌といい、その佇まいは人間というよりは精緻な人形を思わせた。
船室の薄明かりに浮かんだ少女の横顔に一瞬目を奪われたことに気づいて、アレクシオスはあわてて視線を外す。
オルフェウスは、ただ美しいばかりではない。
先の戦役では三百体を超す戎狄を討伐し、最強の騎士の一人として戎装騎士の頂点に君臨している。
その実力は、かつて闘技場で対峙したアレクシオスがだれよりもよく分かっている。
(おれがあいつに見とれるなど――)
あってはならないことだ。
恐怖の象徴。最強の切り札。追いつくべき目標。
それ以外の目でオルフェウスを見ることを、アレクシオスは努めて自制してきた。
と、そんな懊悩などお構いなしに脳天気な声がかかった。
「ねえねえ! アレクシオス、今あたしのこと見てたでしょ? ねえってば!」
振り向けば、いつの間にか近づいていたイセリアがいる。
「気のせいだ。誰もおまえのことなど見ちゃいない」
「なによ、その言い方! ははーん、ひょっとして照れてるんだ?」
イセリアは言うなり、後ろからアレクシオスの首に腕を回す。
たとえ戎装していない状態であっても、力まかせに組み伏せる程度は造作もなくやってのける。
「ベタベタとくっつくんじゃない!! 女同士あっちで固まっていろ」
「だって、あの子黙ったままで面白くないんだもの。ボーっとしちゃってさ」
「おまえも少しは見習ったらどうだ?」
「アレクシオスがそっちのほうが好みなら考えてあげてもいいけど――」
思いがけないイセリアの言葉に、アレクシオスは心の奥底を見透かされたようでどきりとする。
心中に沸き起こった動揺を悟られまいと視線を外しながら、
「なにをバカなことを……」
いかにも興味なさげな風を装って呟いた、まさにそのときだった。
ずうん――と鈍い衝撃が船を揺らした。
間髪をおかず、どこかで木材が軋りを上げるいやな音が響く。これまでの揺れとはあきらかに異質であった。
「なんだ!?」
「分かりません……が、ただごとではないのは確かなようです」
ヴィサリオンは船室の柱にしがみつきながら答える。
激しい振動に見舞われている船内では、何かに掴まっていなければ物を言うことさえままならない。
「ちょっと、まさか岩にでもぶつかったんじゃ――痛っ!!」
イセリアの言葉が途切れたのは、言い終わらないうちに後頭部を壁にしたたかに打ち付けたためだ。
「おれが様子を見てくる。おまえたちはここで待っていろ! 状況がはっきりするまで迂闊に動くなよ!」
アレクシオスはイセリアとヴィサリオンに向かって言い放つと、船室の外へと走り出す。
船室を出る直前、オルフェウスと目が合った。
背中をぴったりと壁につけ、華奢な身体は揺れる船内にあって不思議なほどに安定を保っている。
「おまえもそこにいろ。すぐに戻ってくる」
「……気をつけてね、アレクシオス」
アレクシオスは答えなかった。
背を向けたままちいさく頷くと、脇目もふらず闇に覆われた甲板へと飛び出していった。
木張りの甲板を波が洗った。
つい先ほどまで乾いていた甲板は、いまではその大部分が黒く濡れている。
そのさまは、一向に収まる気配のない振動と相まって、船ごと時化の海に放り込まれたかのよう。
アレクシオスが甲板上に出たのは、三度目の衝撃が船を襲ったのとほとんど同時だった。
かろうじて転倒は免れたものの、アレクシオスはたまらずその場に片膝を突く。
意図せず姿勢の安定を得たことを幸いに、そのまま周囲に視線を巡らせる。
川面は文目も分かたぬ濃い闇に包まれ、峡谷の両岸にはごつごつとした岩屏風がうっすらと浮かび上がっている。
最初は岩壁に接触したかと思ったアレクシオスだったが、こうして甲板の上に立ってみれば、船と岩壁のあいだにはかなりの距離があることが分かる。
船はどちらか一方の岩壁に偏ることもなく、運河のほぼ中心を航行しているようだった。
(川底の岩に船腹をこすったのか?)
あれこれと推理するうちに、アレクシオスは船楼の上に見覚えのある後ろ姿を認めた。
フィオレンツァだ。
声をかけようとしたところで、どうやら彼女の方もアレクシオスに気づいたらしい。
「そこで何をしているの! はやく船の中に戻りなさい!」
「おれのことは気にするな! それより、さっきの揺れはなんだ!?」
「……船底を破られたわ」
フィオレンツァの声には隠しようもない緊張が漲っている。
船舶の構造に関しては門外漢のアレクシオスだったが、船長である彼女のただならぬ声色から事態の深刻さは窺い知れる。
アレクシオスは一目散に船楼へと駆け上がると、状況を把握すべくフィオレンツァを問い詰める。
「被害はどうなっている?」
「いま船底の穴を塞がせているところ――それでしばらくは凌げるはずよ。ただ、これ以上やられると危険ね。水を汲み出すのが追いつかなくなる」
「敵は水の中から仕掛けてきているということか」
「信じられないけど、そう考えるしかないわ」
言って、フィオレンツァは視線を暗い川面に落とす。
ごうごうと渦を巻く急流はすっかり夜闇の色に染まって、水面下の一切を覆い隠すようにはげしく波立っている。どれほど目を凝らしたところで、水中に潜む敵を発見することは困難であった。
そもそも、あまりに過酷な環境から魚すら住み着かないとされているバリュストノイ峡谷である。
ひとたび流れに呑み込まれれば抗う術はなく、刃みたいな岩壁に触れれば人間の骨肉などはたやすく切り裂かれる。幼子であろうと泳ぎの達人であろうと変わらない。すさまじい自然の力を前にしたとき、人間は等しく無力なのだ。
そんな流れのなかを自在に泳ぎ回る者がいるとは、およそ信じがたいことだった。
それでも、すでに三度船を見舞った衝撃は、敵の存在が幻などではないことを証明している。
そして、いま――
アレクシオスが敵を見つけるべく船楼から身を乗り出そうとした瞬間、四度目の衝撃が船体を揺るがした。
帆を畳んだマストが左に大きく傾ぐ。その傾斜は、船が被った損傷の度合いを表している。
船楼から投げ出されそうになりながらも、アレクシオスの目は水面に生じたわずかな異変を見逃さなかった。
暗色の水面に点のように浮かび上がったのは、たしかに人の姿だった。
頭部と肩らしきものが一瞬ざぶりと川面に現れたかと思うと、ふたたび水中に消えていった。
時間にすれば一秒にも満たないだろう。戎装騎士のすぐれた視覚を以ってしなければ、その姿を捉えることはまず不可能だったはずだ。
「……見つけたぞ。敵はやはり水中にいる。おそらく一人だけだ」
「どうするつもり?」
「このまま好き勝手にはさせない。そのために
と、暗い甲板の上で動くものがある。
すこし首を動かせば、人影が三つばかり駆けてくるのがみえた。
「おまえたち! 待っていろと言ったはずだぞ!」
駆け寄ってくるイセリアとヴィサリオン、そしてオルフェウスに向かって、アレクシオスは苛立ったように叫ぶ。
「なによ――戻ってこないから心配してきてあげたのに!」
「余計なお世話だ!!」
「すみません。私たちは止めようとしたのですが……」
すまなげに詫びるヴィサリオンに、アレクシオスは呆れたように渋面をつくる。
そして、ふと思い立ったようにイセリアとオルフェウスに向き直ると、
「……おまえたち、水の中で戦えるか?」
二人の少女の顔を交互に見つつ、問うた。
「あたし? 無理無理、絶対無理! 水に入ったら沈んじゃう!!」
イセリアはぶんぶんと頭を横に振る。
嘘をついているのではないことは、顔を見ればわかる。
水に入れば沈むというのも、あながちありえない話ではなかった。
攻防両面でアレクシオスをはるかに凌駕するイセリアだが、水中を自在に泳ぎ回る敵への対処にはおよそ不向きであった。
「……オルフェウス、おまえはどうだ?」
「私もあまり役に立てないと思う。水の中だと、うまく動けないから……――」
オルフェウスは抑揚のない声で答える。
彼女の持つふたつの能力――すなわち、”破断の掌”と、超高速移動能力。
両の掌はおよそ十六兆もの微小な刃に埋め尽くされ、あらゆる物質を分子の塵へと分解する。
真紅の装甲に鎧われた身体は、ひとたび加速に入れば、人間はおろか戎装騎士の視覚でも捕捉できない速度で凍てついた時間のなかを駆けめぐる。
莫大なエネルギーを消費する”破断の掌”の作動時間を最小限度に留め、敵の致命部位を最短最速で破壊する。そのためには、ふたつの能力の同時使用が不可欠なのだ。
そのため、どちらか一方の能力が欠けても戦闘能力は著しく低下する。
最強の騎士は、そんな危うい均衡の上に成り立っている。
そして、水中においてはその一方――超高速移動能力は封じられる。
加速中は、何の変哲もない大気でさえすさまじい粘性を帯びる。オルフェウスは障壁と化した大気を切り裂きながら疾駆しているのだ。きわめて薄い装甲しか持たない彼女にとって、それは装甲が許容できる負荷の上限でもあった。
大気よりもずっと密度が高く、比重の重い物質に満たされた水中では、加速に入ることさえままならない。
「――おれが行く。お前たちはここに残れ」
アレクシオスは決然と言い放つ。
三人の騎士のなかで、アレクシオスだけが水中でも陸上と遜色ない機動力を発揮できる。
アレクシオスの両脚部に存在する二基一対の推進器官は、酸素を圧縮・燃焼させることで巨大な推進力を発生させる。
むろん、酸素の乏しい水中では持続的な推進器の使用は不可能となる。
だが――水に入る前に十分な酸素を取り入れさえすれば、それを使い切るまで推進器を作動させることはできる。
アレクシオスの見立てでは、酸素供給が完全に断たれても、少なくとも十五秒のあいだは推進力は維持されるはずであった。敵がひとりなら、決着をつけるための時間は十分にある。
(今この船を守れるのはおれだけだ――)
万が一にも失敗は許されない。
ルシウスを筆頭に多くの人間の生命がみずからの肩にかかっている。その重責は計り知れない。
それでも、アレクシオスにはわずかな躊躇いもなかった。
覚悟と闘志――そして、
「フィオレンツァ、船を頼む。おまえたちは船の中に戻って殿下をお守りしろ」
言い終わるが早いか、アレクシオスは揺れる船楼から飛び降りる。
甲板ではなく、そのまま激流渦巻く峡谷へと飛び入るつもりらしい。
「アレクシオス――!!」
その叫びは、誰のものだったのか。
闇の空を舞いながら、少年は漆黒の騎士へと変じていた。
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