第67話 殺戮水域

 冷たく暗い水中は、アウダースにとってこの上なく心地いい場所だった。

 川に飛び込んでからというもの、ほとんど水の中から出ていない。ほんの数度、文字通り一呼吸のあいだだけ川面に顔を出したきりだ。

 内丹の呼吸法によって極限まで賦活化されたアウダースの肺腑は、一度の呼吸で十分以上の潜水を可能とする。

 それも、ただ水に潜っているだけではない。

 絶えまなく四肢を動かし、重い銛を携えながら、すさまじい激流を自在に泳ぎ回っているのだ。

 心臓は激しく鼓動を打ち鳴らし、全身の血管という血管を燃えたぎる血液が循環する。筋肉は痛々しいほどに膨張し、ただでさえ大きな体躯を一回り以上も大きくみせている。

 苛烈なまでに肉体を酷使しているにもかかわらず、アウダースはある種の余裕さえ漂わせている。

 エフィメラに作らせた秘薬の効果のためでもある。

 だが、薬はあくまで身体能力を底上げするものだ。元々持っていた素質ポテンシャルを引き出しこそすれ、新たに能力を付与するものではない。

 いまアウダースを動かしているのは、まぎれもなく彼自身が培ってきた実力だった。

 (これでも沈まねえとは、なかなかしぶとい船だ――)

 ひときわ深く潜行しながら、アウダースはつい今しがた船底に突き刺した銛を見やる。

 四本の銛はいずれも船底を貫通している。

 当初の見立ててではとうに沈んでいてもおかしくないはずだったが、船はなおも航行を続けている。

 どこにでもある中型船と見くびっていたが、なかなかどうして堅牢に作られているらしい。

 フィオレンツァの指揮のもとで水夫たちが懸命に水をかき出し、破孔の修復に取り組んでいるためでもある。

 いずれにせよ、船の命運が風前の灯火であることに変わりはない。

 船体の傾斜は、水中からもはっきりと見て取れるほどに増大している。さらに数本の銛を打ち込めば、沈没はもはや避けられないはずであった。

 アウダースは背中に手を回し、銛を一本引き抜く。

 殺意と欲望が胸中で狂おしく渦を巻く。

 いま、アウダースの目の前には四十億の標的が浮かんでいる。

 無防備な腹を晒している。突いてくれ、と懇願しているようであった。

 アウダースはひときわ力強く水を蹴り、しなやかに身体を弾ませて水中を突き進む。

 (これでにしてやるぜ――)

 無言の決意とともに、水に潜んだ刺客は最後の攻撃に移ろうとしていた。


 それは、まさに船底に銛が突き立てられようという瞬間だった。

 ふいに前方の河中に飛び込んできた奇怪な影に、アウダースはおもわず目を見張った。

 無数の泡をまとった影は、たしかに人間の形をしているようにみえる。

 均整の取れた四肢があり、頭と思しき部位もはっきりと見て取れる。

 もし本当に人間であったならば、アウダースは一突きに突き殺していたはずだった。水中において自分より機敏に動ける人間など存在するはずもなく、どれほどの達人であろうとも赤子の手をひねるように抹殺する自信があった。

 にもかかわらず、アウダースは距離を詰めることをためらった。

 人間とほとんど変わらない輪郭を持ちながら、はあきらかにヒトとは異なる形質を兼ね備えていたからだ。

 五体は隙間なく硬質の装甲に覆われている。艶やかな濡羽色の装甲に鎧われた姿は、巨大な黒曜石を削り出して作られた一体の彫像のようだった。

 光量の極端に乏しい水中にあって、の頭部に走る幾筋もの赤い光条はひときわ目を引いた。

 それが戎装騎士へと変形へんぎょうを遂げたアレクシオスだとは、アウダースはむろん知る由もない。

 それでも、突如として眼前に立ち現れた奇怪な敵について思い当たる節はあった。

 (なるほど――ファザルを殺った怪物ってのは、こいつか)

 アウダースはにいと不敵な笑みを浮かべると、アレクシオスに向かってあらためて銛を構えなおす。

 息はまだ続く。激しく水中を動き回ったとしても、あと五分以上はもつはずだった。

 そのあいだに立ちはだかる敵を倒し、船にとどめを刺すのは、アウダースにとってさほど難しいことではない。

 かつては銛ひとつで巨大な鯨や獰猛なイッカクを仕留めたこともある。

 それらに較べれば、いま相対する敵はアウダースの身の丈より二回りは小さい。

 たとえ恐るべき怪物だろうと、自分よりも小さな相手に臆する道理はなかった。

 アウダースは、得体の知れない敵を前にかつてないほどに闘志が燃え上がるのを自覚していた。狂おしいほど熱くたぎる血のおもむくまま、アレクシオスにむかって敢然と攻撃を仕掛ける。

 いつのまに抜き取ったのか、アウダースは左手にも銛を携えている。水流をものともせず、黒騎士の心臓めがけて二方向から鋭い突きが迫る。

 刹那、金属と金属とが激しくぶつかりあう音が水中に反響した。

 アウダースが突き出した二本の銛は、たしかにアレクシオスの身体を貫いていたはずであった。

 しかし――実際には、銛は漆黒の装甲に触れることすら叶わなかった。

 アレクシオスの両手首から伸びた二振りの槍牙カウリオドゥスが刺突を受け止め、そのまま左右に捌いたのだ。

 (――ちいっ!!)

 アウダースはすばやく身を翻し、川底近くまで一気に潜行する。

 常人であれば満足に手足を動かすことも出来ないほどの激流に身を置きながら、まるでそれを感じさせない闊達自在の泳法であった。

 むろん、アウダースも考えなしに動き回っている訳ではない。

 アレクシオスの下方から一気に上昇し、いま一度急襲をかけるつもりだった。

 と、アレクシオスの両脚からごぼごぼと泡が噴き出た。

 一瞬の間を置いて向こう脛のあたりで青白い炎が揺らめいたかと思うと、黒騎士の身体はなめらかに水中を滑りはじめた。

 川に飛び込むまでのあいだに取り込んだ酸素を燃焼し、推進力へと変えたのだ。体内の酸素がすべて消費されるまで推進器は作動し、アレクシオスは加速を続ける。

 推進力の持続時間は、およそ十五秒――

 作動時間を延長するためには、一度水面に出てふたたび十分な量の酸素を取り込まなければならない。

 万が一それが叶わなければ、アレクシオスは一切の推進力を失い、ルシウスらの乗った船に追いつくことさえ難しくなる。

 すでに秒読みは始まっている。

 不可視の水の流れを裂くように大きな弧を描きながら、アレクシオスはアウダースめがけて突進する。

 夜闇に染まった水底で、ふたつの影が交錯した。

 水塊を割るように槍牙の一閃が走り、銛の双撃が石火のごとく繰り出される。

 激しい水の流れを染めた一筋の鮮血は、アウダースの右の肩が深々と穿たれた証だ。

 一方、アウダースの繰り出された銛もまた、アレクシオスの左足――大きく開いた推進器に突き立てられている。

 奇妙に赤黒い液体がどろりと水に混じった。

 血とはあきらかに異なるそれは、アレクシオスの体内から流出したものだ。

 戎装騎士の身体は、極めて薄い装甲が無数に積層することによって形作られている。

 現時点までに人類が発明したいかなる兵器をもってしても、騎士の装甲に致命的な打撃を与えることは不可能と言ってよい。

 だが――装甲の下、ふだんは決して表に出ない精緻極まる内部機構メカニズムは、強大な外力に晒されれば損傷を免れない。

 アレクシオスの推進器はまさにその内部機構に打撃を受け、機能を喪失したのだった。

 すでに再生が始まっているとはいえ、機能が完全に回復するまでには相応の時間を必要とする。

 アレクシオスは苦悶の声も上げず、右足の推進器を全開。水中から脱出する。

 闇の空に飛び上がった姿は、安定にはほど遠い。

 二基一対の推進器の片側を失った状態での跳躍は、著しくバランスを欠いたものにならざるをえないからだ。

 言うまでもなく、そのような状態では滞空時間も一段と短くなる。

 無傷の右足の推進器からひとしきり水が排出されると、峡谷にすさまじい爆音が響き渡った。岩壁を吹き渡る風鳴りはかき消され、水面には無数の波紋が広がる。

 水面に落ちるまでのわずかな時間のあいだに、推進器の内部にありったけの酸素を取り込もうとしているのだ。

 アレクシオスの身体はすでに上昇力を失い、自由落下に入っている。

 時間にすれば五秒にも満たないだろう。赤く輝く光の軌跡を闇に引いて、アレクシオスはふたたび河中へと消えた。


 同じ頃――

 峡谷の両岸にそびえる岩壁の上、水中で繰り広げられる死闘をじっと見つめる小柄な影がひとつ。

 ほとんど足を置く場所もない断崖である。岩と岩の間隙からアカマツがわずかに痩せた枝を伸ばしているのを除けば、植物さえほとんど見当たらない。

 常人にはまず辿り着けないその場所に、ちいさな影は悠然と腰を下ろしていた。

 辺りにはひときわ濃い闇が沈殿しているにもかかわらず、その眼は一点を見つめたまま動かない。

 谷底ではアレクシオスとアウダースの戦いが繰り広げられている最中であった。

 どちらも自身に向けられた視線には気づいていない。

 むろん、戦いの当事者である彼らとしては、そこまで注意を払ってなどいられないという事情もある。一瞬でも気を抜いたが最期、敵にむざむざと勝機を与えることになるからだ。

 もっとも――仮に気配を感じて上方を見やったとしても、そこに何者かの姿を認めることは出来なかったはずだ。

 影は完全に気配を遮断していた。

 気配だけではない。

 周囲の景色に溶け込み、文字通りみずからの姿を無としていたのである。

 人間の肉眼はおろか、戎装騎士の視覚器をもってしてもその姿を捕捉することは不可能だった。ただひとつ、岩頭に落ちた影だけが何者かの存在を証明している。

 「ずいぶん手こずってるなぁ……」

 視線を川面に落としたまま、影は誰にともなく呟いた。

 まだ幼さの残る少女の声であった。

 戦いが始まってからすでに三分あまり。いまだ勝敗は決していない。

 戎装騎士ストラティオテスと人間のあいだに存在する戦闘能力の差を考えれば、にわかには信じられないことであった。

 これが陸上での戦いであれば、勝負はとっくについていたはずだ。

 互いの初撃がぶつかりあった瞬間、アレクシオスの槍牙はアウダースの心臓を深々と抉っていたにちがいない。

 しかし――こと水中での戦いにおいては話は別だ。

 アウダースは水中戦における圧倒的な経験と勝負勘を持ち合わせている。それが人間と戎装騎士ストラティオテスの差を埋めているのだ。

 それでも、ルシウスらの乗る船への攻撃を阻止しているという意味では、アレクシオスはよく役目を果たしていると言うべきであった。

 「助けに行ったほうがいいかな? ……でも」

 影はやはり独りごちると、ためらうように言葉尻を濁した。

 アレクシオスに加勢するのはたやすいが、いま少し様子を見るべきだと考えたのだ。

 独力でアウダースに勝てるならば、それに越したことはない。

 影としては、姿を晒すのは最小限度に留めたいところだった。たとえそれが味方を助けるためであったとしても。

 「……もう少しがんばってね、お兄ちゃん。危なくなったら助けに行くからさ――」

 影はいたずらっぽく言うと、やおら立ち上がった。

 瞬間、それまで影の姿を隠していたものの効力が途切れた。

 闇を背にうっすらと浮かび上がったのは、人ならざる異形の騎士の姿。

 蒼い甲冑をまとった影――エウフロシュネーは、岩場から岩場へと身軽に飛び移りながら、水中でもつれあう二人を追った。

 決着はまだ見えない。

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