第68話 水と炎

(バケモノが――)

 ひっきりなしに突き込まれる槍牙の猛攻をかろうじて凌ぎながら、アウダースは心中で吐き捨てる。

 先ほどから何合もの攻撃を受け止めた銛は、すでに原型を留めないほどに変形している。戎装騎士ストラティオテスの膂力のすさまじさであった。

 とはいえ、アウダースもひたすらに防戦を強いられていた訳ではない。

 足が弱点と踏んで再三の攻撃を試みたが、同じ攻撃は二度とは通用しなかった。

 アレクシオスは右足の推進器だけで絶妙にバランスを取りつつ、時に攻め、時に守り、少しずつアウダースを追い詰めている。

 アレクシオスにとって本格的な水中戦はこれが初めてであるにもかかわらず、その戦いぶりにはすでに熟練の風格さえ漂う。

 取り込んだ酸素の消費を最小限に抑えるため、川底から突き出た岩を蹴って推力の補助としているのはその最たるものだ。

 黒騎士は実戦のなかで戦闘経験を蓄積し、おそるべき速度で成長を遂げているのだった。

 つい先刻まで玄人と素人ほどにかけ離れていた両者の経験の差は急速に縮まり、いまやほとんど逆転しようとしている。

 戎装騎士と人間の身体能力を単純に比較すれば、人間の勝てる余地はほとんど存在しない。生涯をかけて肉体と技巧を鍛え上げた達人であろうと、持って生まれた力の差はどうすることもできない。

 かろうじて両者を互角たらしめている要素――経験の優位が崩れたとき、アウダースは完全な劣勢に追い込まれる。

 (これ以上こいつに関わっていられねえ――)

 アウダースはもはや武器として用をなさなくなった銛を放り捨てると、勢いよく水を蹴り出す。

 筋肉の塊みたいな身体は急流に乗ってぐんぐんと加速していく。

 ひたすら進むうちに、前方にぼんやりと船影がみえた。

 アウダースにとっての勝利とは皇太子ルシウスの暗殺であり、この状況においては目の前の船を沈めることである。戎装騎士との戦いに没頭するあまり、本懐を遂げる好機を逸するのは本末転倒だった。

 ようやくそれを思い出したのか、アウダースは躊躇いもなくアレクシオスとの戦いを放棄し、船へと目標を切り替えたのだった。

 後方にひとり取り残される格好になったアレクシオスだったが、手をこまねいて見ているはずもない。

 どん、と一帯の水がはげしく揺れた。

 右足の推進器を全開したのだ。

 推進器から吐き出された衝撃波は巨大な円を描き、水中に拡散していく。

 まるで巨人の手に力強く押し出されたように、アレクシオスは猛然と加速に入っていた。

 立ちはだかる水の壁を強引に切り裂き、漆黒の騎士はおのれを一本の征矢へと変えてアウダースを追撃する。

 彼我の距離は、いまや手を伸ばせば触れられそうなほどに迫っている。

 アウダースはあらたに銛を引き抜くと、アレクシオスめがけて投擲した。必中の距離だ。

 アレクシオスは避けなかった。

 わずかに身体を傾け、銛が身体を掠めるのを甘んじて受けたのだ。

 たとえ刃が身体を抉ったところで、戎装騎士にとって致命傷にはならない。迂闊に回避して速度を失うよりも、被弾を覚悟で前進することを選んだのだ。

 アレクシオスは速度を減じることなく進み、とうとうアウダースを間合いに捉えた。

 (この間合なら外さねえ――!!)

 アウダースはまたしても銛を手に取る。

 もはやアレクシオスの存在は眼中にない。目睫の間に迫った船底に狙いをつけ、ままよとばかりに銛を放る。

 すでに息は上がりかけている。さしものアウダースも、潜水の限界に近づいているのだ。銛には文字通り最後の力が込められていた。

 混濁する意識のなかで、アウダースはみずからの身体を追い抜いてさらに加速していく黒い異形をみとめた。

 力を使い果たそうとしているのはアレクシオスもおなじだった。

 いま、アレクシオスは体内に温存していた酸素をすべて燃やし尽くして推進力に変換している。

 銛がまさに船底に吸い込まれようかという刹那、漆黒の装甲に覆われた指が長い柄をしっかと握り止めた。

 勢いを減殺された銛は、アレクシオスの手のなかでくるりと向きを変える。

 薄れゆく意識のなか、アウダースは胸に奇妙な熱が生じるのを感覚した。

 投げ返された銛は、正確にアウダースの心臓を貫いていた。吐き出した血塊はたちまち、血の色は水に紛れた。

 激流に抗う力を永遠に喪失した巨躯は、そのまま暗く深い川底に吸い込まれていく。

 否――アウダースだけではない。

 体内の酸素を使い尽くしたアレクシオスもまた、なすすべなく激流にさらわれている。

 もはや水面に出ることも叶わず、身体は少しずつ深みへと沈下していく。

 戎装騎士は生命維持に酸素を必要としない。どれほど長く水に浸かっていたとしても死に至る心配はない。

 それでも、ここで全推力を喪ったことは、アレクシオスの旅からの脱落を意味している。

 この瞬間にも、アレクシオスとルシウスらを乗せた船との距離は開きつづけている。流されるままに峡谷を抜けたとして、ふたたび船に追いつくことはまず不可能と思われた。

 なにかを訴えるように、ほのかな赤光が暗々たる川面にゆらいだ。

 

 「……やるじゃん。余計な手出しをしなくてよかったよ」

 断崖の上で影が動いた。

 蒼い装甲に鎧われた騎士――エウフロシュネーであった。

 エウフロシュネーはぴょんと手近な大岩に飛び移ると、はるか下方を流れる川面に視線を落とす。

 先ほどまで谷あいに充溢していた闘争の気はすっかり霧消し、まるで最初から何も起こりはしなかったかのような静寂に閉ざされている。

 いまはただ、岩壁に打ち寄せては砕ける波音と、寂しげな風鳴りが峡谷に響くばかりであった。

 夜が深まるにつれて、峡谷を覆う闇はますます色を濃くしている。

 闇夜のさらに底とでも言うべき谷底で、エウフロシュネーの眼が捉えたものがある。

 かすかにまたたく赤い光。

 沈みゆくアレクシオスが外界に向けて発信した短いメッセージだ。

 誰に向けたわけでもないそれを、エウフロシュネーはたしかに受け取ったのだった。

 「いま助けてあげるよ――

 言って、エウフロシュネーはふいに断崖に背を向ける。

 何をしようとしているかはすぐに分かった。

 エウフロシュネーはためらう素振りも見せぬまま、谷底に向かってあっさりと背中から身を投げたのだった。

 崖上から谷底までの落差は、ざっと百メートル以上はあろう。

 人間であればまず助からない高度である。

 戎装騎士ストラティオテスであっても、この高さから飛び降りるとなれば多少なりとも二の足を踏むはずだ。

 あどけない見た目に反してよほど肝が太いのか、あるいはもとより恐怖心が備わっていないのか……いずれにせよ、エウフロシュネーの行動の早さはあきらかに常軌を逸している。

 重力に身を委ね、エウフロシュネーはまっすぐに谷底へと吸い込まれていく。

 蒼く輝く装甲は、天から流れ落ちたひとすじの流星を彷彿させた。

 一瞬のうちに川面が近づく。

 激突までの猶予は三秒と残っていないはずだった。

 と、エウフロシュネーの肩から脊柱にかけての装甲が変形をはじめた。

 装甲が左右にスライドし、前方に向けてぽっかりと黒い口を開いた空洞がふたつ出現する。

 次の瞬間、その深奥ですさまじい轟音が沸き起こった。

 吸入口エアインテークから周囲に存在するありったけの酸素を取り込み、圧縮しているのだ。

 原理的にはアレクシオスの両脚の推進器と同一の機構システムである。

 外部から酸素を取り込み、体内での圧縮・燃焼を経て、巨大な推進力を生成する――いわば動力と直結した超高効率のラムジェットエンジンとでも称すべきその機構を備えているのは、戎装騎士のなかでも限られた者だけだ。

 エウフロシュネーの機構システムは胴体に組み込まれている分、アレクシオスのそれよりもさらに巨大な推力を発生させることが可能だった。

 盛大な水柱が上がった。エウフロシュネーが水中に突入したのだ。

 周囲に視線を巡らせれば、川底へと沈みゆくアレクシオスを見つけるのは容易だった。

 両足を動かし、ゆっくりと近づいていく。

 アレクシオスの方では、エウフロシュネーの突然の出現に多少なりとも肝を潰したらしい。

 反射的に槍牙を向けるが、おなじ戎装騎士であることはすぐに理解できたようだった。

 デキムスの陣営に戎装騎士がいるなどという話はついぞ聞いていない。

 ならば――すくなくとも、目の前の騎士は敵ではない。

 エウフロシュネーは両手を広げて敵意がないことを示すと、アレクシオスの背後に回る。

 アレクシオスもこの期に及んでもはや疑うことはしなかった。

 状況はほとんど手詰まりと言っていい。自力での脱出が困難であることは承知している。

 そんな状況で予期せぬ救いの手が差し伸べられたなら、一も二もなく掴むしかない。

 エウフロシュネーはすばやくアレクシオスの胴に手を回し、ぴたりと背中に抱きつくような格好になった。

 一瞬の間をおいて、アレクシオスの全身にすさまじい圧力がかかった。

 エウフロシュネーの推進器が作動し、力強くアレクシオスの身体を押し出したのだ。

 噴射口スラスターから青白い炎が吹き上がり、暗い水中にあざやかな軌跡を描く。

 加速が始まると同時に、さっきまでなんとも感じなかったはずの水が分厚い壁となって立ち塞がる。

 大気よりもはるかに密度の高い物体を強引に押しのけようというのだ。戎装騎士ストラティオテスでなければ、耐えきれず圧潰していたにちがいない。

 厚く重い水の層を切り裂き、蒼と黒の騎士は、ひとかたまりの異形となって飛び立つ。

 水面に近づくにつれて、視覚器官に流れ込む光量は増大していく。

 一色の闇に塗られていたはずの夜は、アレクシオスの目に奇妙なほどまばゆく映った。

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