第69話 蒼翼の騎士

 「イセリア、すこし落ち着いてください!!」

 船尾に近い甲板の上、命令とも懇願ともつかない叫び声が響いた。

 濡れた木板の上で何度も足を滑らせそうになりながら、ヴィサリオンはイセリアに追いすがる。

 イセリアは一向に意に介する素振りもなく、ずんずんと船縁へと歩を進める。

 「落ち着いていられる訳ないでしょ! アレクシオスを助けに行かなきゃ!」

 「だからといって飛び込むのは無謀すぎます! それに、アレクシオスなら心配いりません。かならず無事に戻ってくるはずです」

 「さっきのおかしな音を聞いてもそう言える? 何かあったに決まってるわ!!」

 ヴィサリオンの細面に苦悩の色がよぎった。

 華奢な青年はぐっと不安を飲み込むと、イセリアの眼をまっすぐに見据えた。

 「それでも、私の意見は変わりません。ここで待つべきです」

 「……あんた、アレクシオスとはそこそこ長い付き合いみたいだけど、案外薄情なのね。見損なったわ!」

 イセリアはふんと鼻を鳴らすと、

 「それで、あんたも止めるつもり? 薄情者その二ってとこかしら?」

 ヴィサリオンの背後に立つ亜麻色の髪の少女を一瞥し、ほとんどなじるような調子で問うた。

 オルフェウスは答えず、ただ深紅色の澄んだ瞳をイセリアに向けるばかり。

 「なんとか言いなさいよ! それとも、だんまり決め込むつもり?」

 「……私もアレクシオスを信じてる」

 「はん――予想通りの答えね。あんたにちょっとでも期待したあたしがバカだったわ。信じると見捨てるの区別もついてないんじゃないの?」

 「そんなつもりじゃない……けど――」

 オルフェウスはそれきり言葉を詰まらせる。

 ほんとうにイセリアへの反論の言葉を持たないのか、あるいは持ちながらあえて黙したのか。いずれにせよ、その美しい口唇が二の句を継ぐことはなかった。

 ヴィサリオンもイセリアを思い留まらせる妙策はないかと思案を巡らせるが、考えるほどに空回りするばかり。

 「これ以上あれこれ言い合っても時間の無駄ね。あんたたちはここで待ってなさい! 助けに行くのはあたしひとりで十分よ!」

 イセリアが船縁によじ登ろうとしたその時、ふいに背後から声がかかった。

 「――そこまでにしておくんだね」

 一同が振り向けば、甲板上に凛と立つフィオレンツァの姿がある。

 空の袖を川風になびかせ、ゆっくりと近づいてくる。

 堂々たるその姿は、昔日の女海賊に立ち返ったようでもあった。

 「……なによ、あんた。今さら止めようたって聞く耳持たないわよ」

 「ここは私の船の上だからね。勝手な真似をしてもらっては困るんだよ、騎士のお嬢さん」

 「そんなの知ったことじゃないわよ!!」

 言い終わらぬうちにイセリアの足元に白刃が突き立った。

 フィオレンツァが腰に佩いた弯刀バデレールを抜いたのだ。

 とても女の細腕、それも身体の均衡バランスに劣る隻腕とは思えぬすばやい抜剣であった。

 そして、互いの額と額がくっつきそうなほどに顔を近づけると、とびきりドスを利かせた声で言ったのだった。

 「自分の役目をもう一度思い出しな。あんたらの役目はルシウス様をお守りすることだろう。あの坊やはそれを果たすために、危険を承知で飛び出していったんだ。それなのに残ったあんたが自分の仕事をほっぽり出して助けに行くなんてのは、まったく寝ぼけた話じゃないか?」

 「そ、それは……そうかもしれないけど……でも!!」

 「あの坊やのことが好きなんだろ? だったらなおさら信じてやることだね。何でもかんでも手助けをすればいい訳じゃない」

 フィオレンツァはふっと艶やかな笑みを浮かべると、川面に視線を向ける。

 「心配はいらないよ。あれはなかなか骨のある坊やだ。きっと無事に戻ってくる――」

 と、はるか遠方で奇妙な音が沸き起こった。

 何かが激しく水を打つ音と、悲鳴にも似た甲高い音。

 ふたつの異質な音は絡み合い、闇深い峡谷に幾重にもこだまする。

 続いて眼前に立ち現れた光景に、船上のだれもが目を見張らずにはいられなかった。

 暗い空にひとすじ描かれたのは、まばゆい光の道。

 川面からはるかな天上に向けて、それはまっすぐに伸びていく。流星が本来の軌跡を逆しまに辿ったなら、あるいはこのように見えるにちがいない。

 「なによ――あれ」

 イセリアはおもわず驚嘆の声を漏らしていた。

 雲を突き抜けるかと思われた光の道は、上空でふいに折れ曲がり、ふたたび地上に向かってなだらかな軌道を描きはじめている。

 次第に船にむかって近づいてきているが、人間の目にはまだおぼろげな光点としか捉えられない。

 だが、イセリアとオルフェウスの二人は、戎装騎士のすぐれた視覚ゆえにいち早くその正体を視認することができた。

 「……アレクシオスだよ」

 つぶやいたのはオルフェウスだ。

 ヴィサリオンは心底驚いた様子でオルフェウスとイセリアを見る。

 「本当にアレクシオスなのですか!?」

 「間違いないわ。あたしたちが見間違うはずないもの。でも……」

 「でも?」

 イセリアはふたたび空を見上げ、しきりになにかを確かめているようだった。

 そして、目をこすりながら、ためらうように言葉を継いだ。

 「羽が生えてる……」

 

 エウフロシュネーは狭隘な谷あいを悠々と飛んでいた。

 アレクシオスを抱きかかえているにもかかわらず、その姿勢はぴたりと安定している。

 胴体に内蔵された推進器が生み出す推力に加えて、背部から展開した一対の翼が大気を掴んでいるためだ。

 翼の表面をよく見れば、微細な小片に覆われていることに気づく。

 鱗を思わせるそれは、ひとつひとつが可動性を備えた小さな補助翼だ。

 小翼の群れは、空中において昇降舵エレベータ方向舵ラダーとして機能する。大気の状態に応じて適宜配列を変えることで、自在にして正確無比な飛行を可能たらしめているのだった。

 他の騎士に較べると一回り以上はちいさな身体に内蔵された、奇異な機構システムの数々――

 数多の戎装騎士のなかでも、エウフロシュネーはまさしく異端の存在であった。

 アレクシオスのように推進装置をもつ騎士はいても、これほど高度な飛行能力を持つ者は絶無だからだ。

 エウフロシュネーがその気になりさえすれば、はるか空の果てまで舞い上がることも可能なのだ。飛行機械など影も形もないこの時代において、それはまさしく他の誰にも真似できない異能だった。

 「……なぜおれを助けた?」

 吊り下げられたまま、アレクシオスは独り言みたいに問うた。

 敵意や猜疑心はない。かと言って、無条件に信頼している訳でもないという微妙な声色であった。

 「もし私が助けなかったらどうなってたと思う?」

 「先に質問をしたのはおれだ。まずはそれに答えてからにしろ」

 「細かいことは気にしないの――助けたかったから助けた……じゃ、ダメかな? 

 からかうようなエウフロシュネーの言葉に、アレクシオスは何かを思い出したようだった。

 「おまえ、もしかして峠道で会った――」

 「やっと思い出してくれた? 忘れられちゃってたらどうしようかと思ったけど、覚えててくれてよかった!」

 「あれからずっとおれたちの後を尾行けていたのか?」

 「そうだよ。ここまで気づかれないようにこっそりね――そろそろ船の上に降りるよ。しっかり掴まっててね!!」

 言って、エウフロシュネーは徐々に高度を下げていった。

 それに合わせて小翼群が一斉に起き上がる。小翼は主人の意思を読み取り、自動的に高揚力装置フラップを形成したのだった。

 適度な揚力を保ったまま速度を減殺し、黒と蒼の戎装騎士はゆっくりと甲板上に降り立つ。

 着地に合わせて翼をたたんだエウフロシュネーは、つい先ほどまでの異形の鳥人ではなく、人間とさほど変わらない体型へと変わっている。

 まるで示し合わせたように、二人の騎士はどちらともなく戎装を解いていた。

 「アレクシオス! 大丈夫!?」

 叫びながら駆け寄ってきたのはイセリアだ。

 その後にはヴィサリオンとオルフェウス、そしてフィオレンツァが続く。

 「おれのことなら心配ない。ほかに敵もいないようだし、これでしばらくは安心できるはずだ」

 「それならいいけど……っていうか、そこのちびっ子のはなんなのよ?」

 イセリアはいかにも怪訝そうな目でエウフロシュネーを視る。

 「見ての通り、騎士だ。名前は……」

 「いいよ、お兄ちゃん。自己紹介くらい自分で出来るからさ。でも――」

 アレクシオスが言い終わらぬうちに、エウフロシュネーが言葉を遮った。

 そしてイセリアのほうへと向き直ると、

 「何も出来なかった人にちびっ子呼ばわりされるのは心外だなあ。そうだよね、カナヅチのお姉ちゃん?」

 例によっていたずらっぽい笑みを口辺に漂わせながら、あけすけに挑発してみせたのだった。

 むろん、イセリアも黙っているはずはない。

 「誰がカナヅチですって? このあたしに喧嘩売るとはいい度胸してるじゃない。あんたみたいな生意気なガキには口の利き方を教えてやらないといけないわね!!」

 「さきに喧嘩売ってきたのはそっちだよ! さっき言ったことも忘れちゃったの?」

 「そ……そうだったかしら……? そうかも……」

 痛いところを突かれ、イセリアはばつが悪そうに目をそらす。

 「だいたい、あんたいったい何者なのよ! 騎士なのは分かったけど、名を名乗りなさい!」

 恥ずかしさのためか、ほとんど自暴自棄になりながら問い詰めるイセリアに対して、エウフロシュネーはあくまで落ち着き払っている。

 ややあってオルフェウスとヴィサリオン、フィオレンツァが揃ったのを見計らうと、物怖じする様子もなく一同の前に進み出たのだった。

 「私はエウフロシュネー――皇帝陛下直属の戎装騎士(ストラティオテス)だよ」

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